学校へ再び
未来で麗ちゃんの存在がなくなっているかもしれない……。
僕の問いに麗ちゃんはうなずいたけど……。
僕はベッドから降り、麗ちゃんの立つ窓辺へ向かう。
「麗ちゃん、未来で麗ちゃんがいなくなるってことは起きるのかな?」
麗ちゃんは横に立った僕を見下ろす。
「ええ、無いとは言えないわね」
「そうかなあ。だって公彦お爺さんは現にここに存在するし、歴史的に矛盾はないと思うけど」
「そうね、今のところはね。年号から考えて、遙さんのお腹にいるのは私の父だと思うし。少なくとも現時点での歴史的矛盾は感じないわ。私たちの存在を除いてね」
「僕たちの存在?」
「そう、例えば、あなたがいたがために仁科家の喫茶店に車が突っこんだとか」
そう言われて、僕ははっとした。
確かに僕の命が狙われているせいで、喫茶店が大破した可能性は高い。
それは、僕がタイムマシンで過去に来ていなければ、なかった出来事なのかもしれない。
「でも、郁が気にすることはないわ。悪いのはタイムマシンを使おうと言い出した私だし。仁科家のことは九条院がなんとかするわ」
麗ちゃんは僕の肩に手を置いた。
子どもをなだめる親のような、優しく穏やかな動作だった。
「悪いのは麗ちゃんだけじゃないよ。同意してやってきた僕も同罪だ」
麗ちゃんが肩から手を引く。
「郁は怒ってないの?」
「怒るって何を?」
「そんな体になっちゃったこと……」
ためらいがちに繰り出される麗ちゃんの言葉に、僕は少しだけ間を置き、答えた。
「僕はこの体をもらったことを迷惑だなんて思ってないし、後悔もしてないよ。だから、また未来へ戻ったら二人で頑張ろうよ」
麗ちゃんは一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに顔を窓の外に向けた。
「ありがとう。郁はやっぱり優しいね」
外を眺めながら、麗ちゃんは独り言をつぶやくように言った。
「なんかね、僕は優柔不断だから、なりゆきに流されるのは得意なんだ。だから、心配しなくていいよ」
麗ちゃんの肩が微かに揺れる。
あれ? もしかして、泣いてるの?
僕は心配になり、顔をのぞきこんだら、麗ちゃんは含み笑いをしていた。
「……ふふふ、郁は姿が変わっても、元のまま、のんびり屋さんなんだから」
「そのくらいしか自慢できることないしね」
胸を張ったが、大して他人に自慢できることでもないので、すぐ止めた。
ロータリーの芭蕉の葉が風に揺れる音が聞こえる。
気にしたことはなかったが、未来でもこの音を、僕は何度も聞いたのだろう。
「麗ちゃん、遅くなったし、今日は僕はそろそろ帰るよ」
麗ちゃんが振り返る。既にいつもの篤の顔だった。
「じゃあ、車を呼ぶから玄関で待ってて」
コートハンガーに掛けたジャケットをつかみ、それを羽織ると、麗ちゃんは部屋を出ていった。
灯りの消えた部屋を、僕は振り向き、もう一度見た。
もう来ることもないかもしれない部屋──。
麗ちゃんの暮らす部屋──。
玄関ポーチで待っていると、大間さんの運転する車がすぐに来た。
麗ちゃんも一緒に行くと言ったが、マンションに横付けしてくれれば心配もないので断った。
僕は車の後部窓に貼り付くようにして、九条院邸が小さくなるまで、そのたたずまいを目に焼き付けるように眺めた。
無事、仁科家に戻ると、凪沙さんに連絡は早めにするよう小言を言われた。
僕は素直に謝り、自分の部屋に入った。
平太は部屋にでもいるのか、顔を合わせなかった。
仁科家は、何事もなかったようにいつもどおりだ。
記憶喪失の時、自分の将来がどうなるか不安で悩んだ、この部屋。
この部屋とも、すぐにお別れをしなければいけないかもしれない。
そう考えると、その日はなかなか寝付けなかった。
◇◆◇
月曜になり、僕と平太はいつものように学校に向かった。
いつものようにとはいうものの、僕は記憶が戻ったので、気持ち自体は以前と全く違っている。
先週まで僕は『日比野香』という生徒だったが、今日からは『日々之郁』だ。
平太の中では僕は『日比野香』のままなのだろうが、別にかまわない。
平太はいつもどおり、僕の歩調にあわせて横をのっそりと歩く。
「なあ、香。今度のゴールデンウィーク、どっか行こうか?」
歩くテンポと同じような、もったりとした口調で平太が訊いてきた。
「ゴールデンウィークっていつから?」
「お前、そんなことも知らないのかよ。二十九日からだよ」
「今週の金曜じゃん。学校は休みなの?」
「当たり前だろ。ゴールデンウィークだし」
平太は呆れたように眉を跳ね上げ、僕を見下ろした。
「じゃあ、どっか行くって、どこ行くの」
「そうだなあ……。映画とか遊園地とかどうだ? どうせ、店も当分は再開できそうにないしさ」
「そうだね。うん……、わかった。考えとく」
「おう」
頬を掻く平太を見ながら、僕は考えていた。
冴島さんに言われたタイムマシン破棄までの二週間なんてすぐだ。
ギリギリまで粘っても、来週末。
もちろんギリギリまで待つなんて、危ない橋は渡るべきじゃないだろう。
とはいえ、僕がやるべきことは多くないし、麗ちゃんが目的を果たすのを待つだけだ。
未来の九条院家を救うための作戦をどうするかは検討もつかないが、麗ちゃんならなんとかするだろう。
土壇場に強い元女、麗ちゃんだし。
僕は自分が今日やるべきことを、思い返しながら、校門を抜けた。
昼休みになり、三年の教室へ上がった。
いつものように扉のところから教室をのぞくと、先輩の女子生徒が『また、来た』というような顔で僕を見た。
食堂や購買部に向かう生徒の中、智晶さんが目ざとく僕を見つけた。
「あっ、香ちゃん! 今日も九条院さん? 彼、今日は休みだけど」
「えっ、休みなんですか?」
智晶さんは「そうそう」とうなずいた。
「けど、今日は智晶さんに用があって来たんです」
廊下に出かけていた智晶さんがスカート翻し、止まった。
「えっ、本当に! じゃあ、パンでも買って屋上へ行こうか?」
それに同意し、僕と智晶さんは購買部でパンを買い、屋上に上がった。
「いい天気だねー。このままゴールデンウィークが終わるまで、ずっとこの天気だといいねー」
智晶さんは長い腕を空へ振り上げ、大きく伸びをした。
「そうですね。天気がいいといいですね」
智晶さんは鉄柵の段に腰を下ろし、ガブリとメロンパンをかじった。
ほっぺを膨らまし、「それで用事っていうのは何?」と僕のほうを向く。
「智晶さん、変なこと訊きますけど、智晶さんはタイムマシンって信じます?」
猫が変な物を食べて、吐き出すような動きで、智晶さんの首ががくりと前に垂れた。
「はあ? 香ちゃん、何それ?」
「いや、言葉のまんまですけど。智晶さんはタイムマシンを信じるかな、って……」
「うーん、実は僕、リニアモーターカーが動く原理もわかってないんだ」
智晶さんは、長い両足を投げ出した。
「じゃあ、タイムマシンは信じられません?」
「まあ、原理なんて聞いてもわからないから、逆に本物を見ればそのまま信じちゃうかもね」
何気なくそう答え、智晶さんはまたパンをついばむ。
「そうですか。本物を見れば信じるんですね」
「香ちゃん、なんか変だよ、今日。香ちゃんってば、SF少女だったの? それとも、これは占いか性格診断?」
「いえ、どれでもないです。でも、もしかすると近いうちに、智晶さんにタイムマシンをお見せできるかな、と思って……」
「はあ!?」
大きな声を上げ、智晶さんがのけぞり──、それから、素速く僕の額に手を当てた。
「香ちゃん、熱でもあるんじゃない?」
「いえ、ないですよ」
額にあてがった手を収めてもらい、僕は智晶さんに向き直る。
「実は今週か来週にでも、タイムマシンを呼ぶことになるんです。その時は智晶さんも来てください」
智晶さんは既に言葉もなく、目をパチパチしている。
おそらく、僕のことを電波少女の類じゃないか、と思い始めているのかもしれない。
けど、そんなことは最初から想定内のことだ。
僕は話を続ける。
「もし、タイムマシンが来たら、僕は未来に帰ることになるんです。その時は、智晶さんともお別れなんです」
「えっ、……香ちゃんとお別れぇ?」
智晶さんの声が、ひっくり返った。




