九条院家の夜
麗ちゃんから携帯電話を借りて、夕食は九条院家でご馳走になることを凪沙さんに伝えた。
連絡をするのが遅かったせいか、凪沙さんは少々不機嫌そうだったが、とりあえず許してくれた。
既に夕食の準備中だったのだろう。
僕は携帯電話を握ったまま、頭を下げた。
大間さんの運転する車は九条院邸へと走る。
瀟洒な邸宅が並ぶ住宅街に入ると、僕が以前椰子の木と間違えた、芭蕉の木が見えてきた。
未来では通い慣れた麗ちゃんの家だが、今日ばかりはかなり緊張する。
前髪を触らずにいられない。
車が玄関ポーチ前に停まり、僕と麗ちゃんは車を降りた。
辺りはすっかり薄暗くなり、九条院邸の窓には明かりが灯っていた。
「ただいま」
中に入り、麗ちゃんが声を上げると、この間ここへ来た時に会った麗子おばさんが出てきた。
「令さん、お客様なの?」
麗子おばさんは首を傾げながら、麗ちゃんの後ろに立つ僕の顔を確認した。
すると、おばさんの表情が華やぎ、にわかにテンションが高くなった。
「あらまあ! この間のお嬢ちゃんじゃない! これは、みんなに紹介しなきゃ!」
くるりと踵を返し、スリッパの音高らかに家の奥へとまた戻っていった。
一方的なペースで、僕は挨拶し損ねてその場に立ちつくしてしまった。
麗ちゃんが申し訳なさそうに言う。
「この間ね、郁がここへ来た日の晩。おばさんがみんなに、『私の若い頃にそっくりの子に会ったの』って吹聴したけど、いまひとつ、みんなの食いつきが悪かったの。それで、今日はそのリターンマッチをするつもりなんだわ」
「……」
知らないみんなの視線を浴びることになりそうで、僕は絶句した。
ひとまず着替えるということで、僕らは二階の麗ちゃんの部屋に上がった。
みんなはリビングにでもいるのか、この家の誰とも会うことがなかった。
麗ちゃんの部屋は、ちょうど窓からロータリーが見下ろせる場所にあった。
未来とは部屋が違っているし、内装もリフォーム前のオリジナルのようだ。
壁の質感や色、照明器具などが、僕の記憶とは違っている。
部屋はそこそこ広く感じたが、それは物がほとんどないせいでもあった。
あるのは勉強机とベッド、それに本棚だけ。
僕が部屋を見回していると、麗ちゃんが服を脱ぎ始めた。
「あっ! 着替えるなら僕は外へ出るよ」
「バカね! 男のあなたが男の裸を見て、恥ずかしがることないでしょ」
麗ちゃんは気にもせず、どんどん脱いでいく。
「僕、今は男じゃないんだけどなあ……」
そう呟いてみるが、麗ちゃんは女の時でも、僕がいてもポンポン着替えをしてた。
まあ、今さらなんだけど、久しぶりなのでちょっと驚いた。
僕の前には、上半身裸になった麗ちゃん。
体を普段から鍛えているのか、男の──、いや、男だった僕が見ても見事な美しい筋肉だ。
精悍な顔に均整のとれた体は、まるでローマ時代の闘士のようだ。
男の──、いや、元男の僕が羨ましいと思うほどだ。
ああ、なんかややこしいなあ!
思わず見とれてしまったが、篤の体だったことを思い出し、見るのを止めた。
あっという間にカジュアルに着替えた麗ちゃんは、ちょっとみんなに挨拶してくる、と部屋を飛び出ていった。
取り残された僕はベッドの端にちょこんと腰かけた。
未来なら、ここで夕食をいただくなんて珍しいことでもなかったが、2011年の今となると状況が全然違う。
知らない人ばかりだしなあ……。
憂鬱な気持ちで本棚に並ぶ本を眺めてたら、下から麗ちゃんの大きな声がした。
「郁も下りてくれば!」
もう、なんだか麗ちゃんは、すっかりこの家に馴染んでるようだ。
僕はまだなんだから、呼びに来てくれてもいいのに……。
食事するだけだし、と自分に言い聞かせ、一階へ下りた。
「お腹減ったでしょ?」とホールに立つ麗ちゃん。
「うーん、どうかなあ? 緊張して良くわからないよ」
「郁は昔から人見知りするからね。まあ、この家は郁の家みたいなもんじゃない」
麗ちゃんは僕の腕を引き、廊下を進んだ。
廊下の壁に掛けられた絵は、見たことのある絵がほとんどで、食堂の場所も未来と同じそのままだった。
麗ちゃんがドアノブに手をかける。僕はごくりと唾を飲みこんだ。
「お待たせしました!」
麗ちゃんの声とともに開かれたドア。
僕は部屋の様子を確認しようとしたが、中にいる全員の視線を一気に感じ、思わず固まった。
大きなテーブルを取り囲むみんなの目が、僕のほうを向いている。
一番奥には和服を着た初老の男性で、その横に麗子おばさん。
僕の右側には中年のおじさんとおばさんが並んで座っている。
そして、麗子おばさんの後ろには大間さんが立っていた。
大間さんを除き、みんな一様に目を丸くして、僕の顔に見入っている。
しばらくして、やっと、麗子おばさんが口を開いた。
「ほらね、私の言ったとおり、私の若い頃にそっくりでしょ?」
自慢げにそう言ってから、テーブルのみんなを見回した。
その言葉で呪文が解けたように、みんなの視線が僕から外れた。
和服の男性がゆっくりと腕組みをした。
「お前の言うとおり、本当にお前の若い頃の生き写しのようだね。驚いたよ。私はこの家の主、九条院公夫だが、お嬢ちゃんのお名前は?」
一語一語が腹にしみるような、しっかりした声についつい聞き入ってしまった。
返事に遅れたのに気づき、慌てて頭を下げる。
「あっ、日々之郁といいます。初めまして!」
頭を上げると、中年の優ししそうなおばさんが、隣のおじさんの肩を叩いた。
「あら、やっぱり女の子は可愛いわね。ねえ、あなた?」
良く見たところ、そのおばさんはゆったりとしたドレスを着ている。
お腹が大きいので、もしかすると妊娠しているのかもしれない。
隣のおじさんは良く見ると、懐かしい顔をしていた。
この人は……!
麗ちゃんが腰を折り、僕の耳もとで囁く。
「気づいたかもしれないけど、あれが未来の公彦お爺さまよ」
僕はそれにうなずく。公彦さんは、未来の九条院FGの会長だ。
麗ちゃんのことを、とても可愛がっていた。
「初めまして。日々之郁です」
公彦さんに恭しく頭を下げる。顔見知りが一人でもいると嬉しい。
向こうにとっては、僕はまだ全然知らない人なんだけどね。
「おっと、挨拶が遅れたね。私は九条院公彦と申します。隣のこいつは、私の家内で遙です」
公彦さんが立ち上がって、自己紹介してくれた。にこやかに微笑みながら、遙さんも僕に会釈した。
「立ってないで、令さんも、日々之さんも、お座りになったら」
麗子おばさんが席をすすめてくれたので、僕らは公彦さん──、未来の会長の向かい側に並んで座った。
席につくと、大間さんが食事の用意を始めた。
お手伝いの女性たちが次から次へと食堂へ料理を運んでくる。
瞬く間に、テーブルの上は色んな料理で埋め尽くされた。
良く見ると、その中には見覚えのある食器がいくつかあった。
「さあ、ご遠慮なく、どうぞ」
主の一声で、食事が始まった。
美味しそうな料理を眺めていたら、いつしか緊張も忘れて、お腹が減っていた。
食堂のレイアウトが未来とほとんど変わっていないことも、それに加勢していた。
僕は女であることを忘れて、ハイペースで料理を片付けていった。
「おやおや、見事な食べっぷりだね。気持ちいいくらいだ」
「ほんとですね。私、やっぱり女の子が欲しいです」
主と遙さんの声で、我に返った。
僕の前の料理はすっかりなくなっている。
「あっ……」
口もとをナプキンでぬぐいながら、恥ずかしくなりうつむいた。
ちょっと礼儀がなってなかった……。
けど、いつもは礼儀作法にうるさい麗ちゃんも、横で僕のことを嬉しそうに見ている。
今回はOKだったのかな……?
全員の食事が終わり、紅茶が運ばれてきた。
上品な紅茶の香りがテーブルの上に漂う。
満腹感とともに、僕はすっかりリラックスしていた。
男で自分の家だったら、腹鼓でも打ちたくなるところだ。
食事も済んだし、これから何をするのかな? と思っていると──。
カチャリとティーカップが置かれ、麗ちゃんがテーブルに身を乗り出した。
「さて、食事も終わったところで──。みなさん、ここにいるこの子を良く憶えてくださいね」
麗ちゃんは僕を掌で指す。
いきなり麗ちゃんは何を言い出すんだ!?
僕は思わず紅茶を噴き出しそうになった。
◇◆◇
麗ちゃんの言葉に主の公夫さんは目を大きく見開いた。
両眉が跳ね上がり、額の皺が倍くらいに増えた。
「令君、それはこの子が君のガールフレンドということかね?」
主はちらりと僕を見る。
「ええと……、はい、そのようなものです。まあ、なんでもいいのですが、とにかくこの子のことを憶えていて欲しいのです」
主はティーカップを置くと同時に、相好を崩した。
「令君はいつも突拍子もないことを言い出すが、今回のもまた奇妙きてれつじゃないか」
「あなた、令さんはまだ家族じゃないから、少し遠慮してるんじゃありませんの? 男の子が女の子のことを憶えてくれだなんて、彼女の紹介以外にあり得ませんもの。令さん、私は何があっても、この子のことを忘れたりしませんとも」
麗子おばさまは妙に嬉しそうに目尻を下げながら、僕の顔を見た。
そりゃ、おばさんの若い頃にそっくりなんじゃ、絶対忘れないだろう、と僕は思った。
麗ちゃんは、麗子おばさんの言葉に丁重にうなずくと、今度は公彦さんと遙さんのほうを向いた。
「特に公彦さんと遙さんは、この子を絶対に忘れないでくださいね」
公彦さんは遙さんと顔を合わせてから、答えた。
「もちろん私は忘れないよ。こんな可愛いお嬢さんのこと」
「私もですよ」
二人はにこやかに笑っていたが、どう見てもつきあいで言ってるっぽかった。
「ほら、郁、あなたからもちゃんとお願いしておきなさい」
麗ちゃんが背を叩くので、僕は仕方なく頭を下げた。
「日々之郁です。みなさん、今後ともよろしくお願いいたします」
って──、どうして、この場でそんなお願いをしなきゃいけないのかわからないよ!
「はいはい、こちらこそよろしく〜」
九条院家の面々が一斉にゆるりと僕に頭を下げる。どう見ても、社交辞令でしかない。
でも、僕はすぐに未来に帰ってしまうのだから、別にいいか、と気分を改めた。
「ところで、遙さんのお腹は……?」
「ああ、これ? あと、一ヶ月くらいで生まれるんじゃないかな?」
遙さんは自分のまん丸なお腹に視線を落とした。
「明日からこいつが入院するから、今日はその壮行会とでもいうのかな。まあ、うちわのお祝いだったんですよ」
公彦さんはとても嬉しそうに笑った。
「じゃあ、僕なんかお邪魔だったんじゃ?」と言った途端、麗ちゃんに腿をつねられた。
食事の時は問題なかったのに……、何がいけなかったんだ?
びっくりしたけど、『僕』という言葉使いで麗ちゃんが注意したのだ、とすぐに気づいた。
「いいえ、お祝いの時はお客さんが多い方が嬉しいですから」
遙さんは、僕の言葉使いを気にする様子もなく、顔の前で手を振った。
「遙さんには頑張って、九条院家のためにも元気な男の子を産んでもらわないと困るからな」
主は自分自信の言葉に納得するように、大きくうなずいた。
「あら、お義父さん、私は女の子が欲しいです」
遙さんは心底、女の子が欲しいようだ。さっきから何度もそれらしいことを言っている。
「うーん、そりゃ困るな。跡取りを是が非でも産んでもらわないといかんし」
主は腕を組み、口を曲げた。
「あなた、ほら、その時は令さんがいるじゃないですか」
麗子おばさんが大袈裟に手を振るうと、主は麗ちゃんに向き直った。
「そうだな、令君には近いうちに養子になってもらうか」
主の顔は真剣だった。
本気で麗ちゃんを養子にすることを考えているようだ。
けど、麗ちゃんは九条院家の未来の親族なんだけど……。
ここのみんなは麗ちゃんがいなくなってしまったら、どう思うだろう?
麗ちゃんを見ると、恭しく主に一礼をしていた。
そこで話がちょうど途絶え、 柱時計が鳴った。
何度も聞いたことのある懐かしい音色だ。今も昔──、じゃなくて、未来も変わっていない。
「じゃあ、今日はこの辺でお開きにして、日々之さんは時間があれば、令君とゆっくりしていってください」
主が椅子を引き、立ち上がる。
僕は遙さんに駆け寄り、「頑張ってくださいね」と手を握った。
「ありがとう、日々之さん」
未来の会長と、遙さんは声を合わせた。
「じゃあ、二階に上がる? 郁はまだいるでしょ?」
食堂を出ながら、麗ちゃんが僕に訊く。
「うん、麗ちゃんに聞きたいこともあるしね」
窓の外はもう真っ暗だった。
仁科家のことを考えると、ここにいられるのもあと三十分くらいだろう。
二階の麗ちゃんの部屋に戻り、僕はまたベッドの端に座った。
麗ちゃんは勉強机の椅子に座り、大きく伸びをしている。
急いで帰らないといけないし、話を手短に済まさないと。
「ねえ、麗ちゃん、今日のあれは何?」
「あれって? 郁をみんなに紹介したこと?」
「うん。なんか変だったよ」
「そうかなあ? 普通に紹介したつもりだったけど」
麗ちゃんは足を組み、くるりと椅子を回した。
「普通じゃないよ。憶えておいて欲しいなんてさ」
足をぶらぶらさせ、麗ちゃんの返事を待った。
しかし、麗ちゃんは黙ったままだった。
「麗ちゃん、どうして黙ってるの?」
僕が急かすと、麗ちゃんは立ち上がった。
ゆっくりと、こっちへ歩き、僕の横に座った。
「郁、これは保険なの」
「保険? なにそれ? 訳わからないよ」
麗ちゃんはじっと僕を見つめる。
間近に篤の顔を見るのは今でも少し嫌だが、僕も麗ちゃんを見上げた。
やがて、麗ちゃんは僕から視線を外し、窓のほうを仰いだ。
そして、静かに話し始める。
「郁、私たちの体が入れ替わってしまったのは、神様が私たちに与えた罰だとは思わない?」
「罰?」
「ええ、私がずるいことを考えて、歴史を変えようとした罰なの。本当なら私だけが罰を受ければ良いはずなのに、郁と篤も巻きこんでしまった……」
「そんな……、罰だなんて。これは単に柴久万の造ったタイムマシンのせいだよ」
麗ちゃんが振り返り、大きくかぶりを振る。
「いいえ、私は罰だと思うの。そうじゃなきゃ、残酷すぎる……。郁を巻きこんでしまって、本当にごめんね……」
「…………」
何かなぐさめの言葉をと思ったが、すぐには出てこなかった。
麗ちゃんは、また立ち上がり、窓辺に向かった。
暗い外をのぞきながら、ポツリとつぶやく。
「だから、未来も既に変わっているかもしれないの……」
「未来も?」
「そう。少なくともこの九条院家はね」
「それと、今日のことは関係があるの?」
「郁は未来に戻って、どこへ帰るつもりなの?」
そういえば、そんなことを深く考えたことがなかった。
「うーんと、自分の家じゃダメなのかな?」
「当たり前よ。その姿で、どうやって自分が日々之郁だと説得するつもり? いずれにしても、九条院家に身を寄せることになるでしょ?」
「そうかもしれないけど、麗ちゃんのこの姿なら、九条院家のみんなは知ってるはずじゃん。自分の家の娘なんだし」
「でも、もし九条院家の歴史が変わっていたら?」
麗ちゃんは窓を開いた。
カーテンが揺れ、夜の空気が部屋を満たしていく。
「もしかして、麗ちゃんの存在が未来からなくなってるかもしれない、ということ?」
僕の問いかけに、麗ちゃんが大きくうなずくのが見えた。




