東京ホリデイ
マンションのエントランスを出ると、白い乗用車が脇に停まっていた。
この時代の車には詳しくはないが、堂々としたフォルムでかなり高級車のようだ。
フロントノーズのエンブレムが、陽光を反射して眩しく輝いている。
「もしかして、あれに乗るの?」
ピカピカの白い車体を、僕は指さした。
ちょうどその時、その車から男がドアを開け出てきた。
一瞬、冴島さんの姿が頭をよぎったが、出てきたのは中肉中背のスーツ姿の男だった。
男は僕たちに軽く一礼をした。
「郁、運転手の大間さんよ」
「大間さんって、麗ちゃんの家の執事だった人と関係あるの?」
「ええ、彼のお父様よ」
もう一度、よく見てみると、確かに執事の大間さんに顔つきが似ているような気がした。
二代続けて、九条院家に仕えているんだ、と感心した。
ドアを開けてもらい、車の後ろに乗りこんだら、未来の記憶が甦ってきた。
麗ちゃんと二人で、冴島さんの車に乗って、あちこち飛びまわった想い出。
今は自分が麗ちゃんの姿で、麗ちゃんは篤になっちゃったけど。
二人が持つ想い出は変わることがない。
「どちらに向かいましょう?」
運転席に戻った大間さんが訊ねる。
「そうね。日比谷公園に行ってもらおうかしら」
「はい」
車の窓に外の景色が流れ出す。
それを眺めながら、あれ? と思う。
麗ちゃんに、そっと訊こうと思ったが、顔が高いところにあるので、昔(未来)のように耳元で囁けない。
手招きで、麗ちゃんを呼ぶと、麗ちゃんは体を傾けて僕に顔を寄せた。
「麗ちゃん。運転手さんにはちゃんとした言葉使いで話さないと」
麗ちゃんはそれを聞いて、にやりと笑った。
ほんと止めて欲しい。その笑い方は。
「いいのよ。大間さんは最初からこのしゃべり方に慣れてるから」
「えっ、どういうこと?」
「それはですね、私が最初に九条院令さんを見つけたからですよ」
思いがけず、前から声。
大間さんがハンドルをきりながら、答えた。
「そうよ。記憶障害で倒れているのを見つけてくれたのは大間さんなの」
ということは、こっちの時代で麗ちゃんを最初に見つけたのは、九条院関係の人間ってこと?
それって、ものすごい偶然じゃ?
けれど、しゃべり方に慣れているというのはどういうこと?
「令様は、最初は今と同じような話し方でしたから」
大間さんが、僕の心の疑問に答えてくれた。
「それじゃマズいから、九条院家で徹底的に矯正されたの。でも、それまでは、今みたいな──」
「オカマ言葉?」
思わず言ってしまってから、口を手で押さえた。
途端に右腕に激痛。
見ると、麗ちゃんが目を吊り上げて、僕の右腕をつねっている。
大きな男の力なので、昔と違って半端な痛みじゃない。
「痛いから、やめてよ!」
訴えたら、やっと止めてくれた。
つねられた所を確かめたら、案の定、赤黒く内出血していた。
バックミラーで見ていたのか、大間さんが失笑している。
「郁、その言い方はないでしょ。オカマじゃないんだから」
確かに心は紛れもない女性なので、僕は素直に謝った。
でも、誰が聞いてもオカマ言葉に聞こえるけどね、と心で思った。
まあ、いいや、話題を変えよう。
「それで、麗ちゃんはどうして九条院家に住むことになったの?」
「麗子おばさまに、なんだか気に入られちゃったのよ。それで、帰るところがないんなら、当分いなさいみたいな感じになったの」
「名前も九条院だし?」
「そう。向こうは私について色々調べたみたいだけど、わかるはずないしね。けど、九条院の名を名乗る限りは言葉使いはきちんとしなさい、ということになっちゃったの」
麗子おばさまって、僕、つまり麗ちゃんの体を見て、自分の若い時に似てると言ってた人だ。
言葉使いにうるさいところは、凪沙さんと似てるんだな。
そんなことを話している間に、交差点の向こうに公園が見えてきた。
あっちに見える赤茶けた建物は日比谷公会堂かな?
この辺りの風景は未来と同じだ。
じゃあ、今走ってるのが日比谷通りだから──。
麗ちゃんの会社、九条院FGがある内幸町もこの近辺のはずだ。
「九条院銀行はこの辺なの?」
僕は窓から桜田通りのほうを見やる。
「いいえ、丸の内よ」
「そうか、まだ移転してないんだね」
九条院FGは丸の内から社屋を移転したという話は聞いたことがある。
ということは、まだこの通りの先な訳だ。
「大間さん、その辺で停めてください」
麗ちゃんの指示で、車は日比谷公園の脇で停止した。
僕と麗ちゃんはそこで降り、大間さんと別れた。
僕が通り沿いを見ていると、麗ちゃんが慌てて腕を引っぱり、僕を公園に連れこんだ。
「さあ、こっちよ、郁」
麗ちゃんに連れてこられたのは、真ん中に噴水のある丸い大きな人工池だった。
「未来とまったく変わらないね」
返事がないので、麗ちゃんを探すと、池の縁に座っていた。
まだ、朝っぱらということで、広場にもあまり人がいない。
ジョギングや散歩をする人たちが、視界に時折入るくらいだ。
麗ちゃんは、早く早く、と手招きをしている。
僕は麗ちゃんの横に座った。
「今日は朝っぱらからゴメンね」
「いや、もういいよ。突然押しかけてきた時はびっくりしたけど」
「仁科家の人たちにも悪かったわね。事故で大変な時に」
「うん。僕よりよっぽど驚いたと思うよ。それにちょっと迷惑だったかも」
「あとで電話をして謝っておくわ。事故のことで、九条院銀行が相談にのってもいいし」
「本当に?」
麗ちゃんはうなずいた。
姿は篤だし、声も変だけど、麗ちゃんはやはり頼りになる。
そういえば、電話といえば──。
「あっ、冴島さんに電話をしてみなきゃ」
「そうね。でも、まだ9時にもなってないわよ」
「まあ、いなかったらいなかった時だし」
麗ちゃんが、ジャケットのポケットから携帯電話を取りだした。
「番号はこの間かけた時のを登録してあるから」
名前検索をして発信した。
しかし、電話がオフになっているのか、定型メッセージが流れるだけだった。
「ダメだね。やっぱり」
麗ちゃんに携帯を返す。
「後でまたかけてみましょう」とそれをしまう麗ちゃん。
しばらく、二人でぼうっと公園の木々の緑を眺めていた。
黙っていると篤が隣にいるような気がして、ちょっと落ち着かない。
話すと、麗ちゃんの存在を感じるんだけど。
でも、そのうち慣れるかな……。
僕はジーンズの膝を撫でた。
「郁はスカートには慣れた?」
麗ちゃんがジロジロと横から僕の体を見回す。
「うーん、まだかなあ」
「早く慣れなきゃね。この先、ずっと女の子かもしれないんだから」
「ねえ、本当に元に戻れないのかな? 僕たち」
「あきらめたほうが賢明ね。今の体とどう向き合っていくかを考えるべきよ」
「そうか……。でも、女の子の体、大変だし。麗ちゃんは、その体になって何とも思わなかったの?」
「私は……。最初に気付いた時は、憎たらしいストーカー男の姿だったから、それはもう大ショックだったわ。でもね……」
「でも?」
「この体、性能いいのよ。背も高いし、力もあって運動神経も抜群で、頭脳もなかなか。すごく便利なの。篤がナルシストだった理由も、良くわかるような気がする」
「そうなんだ」
僕はちょっと複雑な気分だった。篤を麗ちゃんが誉めてるようで。
まあ、それは器としてだけの篤なんだけど。
「この体なら、どこまででも駆け上がれそうよ」
「駆け上がるって、どこへ?」
麗ちゃんは立ち上がり、僕に向き直る。
「もちろん、政治の矢面へよ。未来では女の子ってことで我慢していたこともあったけど、この体なら総理大臣にだってなれる気がする」
演説者のように拳を握りしめる麗ちゃん。
それを見つめながら、僕は麗ちゃんの性癖を思い出した。
麗ちゃんが一度言い出したら、引くことはまれだ──。
熱く語る麗ちゃんの目は、またどこか遠くを見ているような気がした。
◇◆◇
僕は公園から空を見上げた。
青くどこまでも続く、この空。
けれど、僕らが暮らしていた時代へは繋がっていない──、
2011年の空。
僕につられて、麗ちゃんも空を仰ぐ。
眩しそうに目を細めながら、「良い天気ね」とつぶやいた。
「ねえ、麗ちゃん。まだ、ここにいる? それともどこかへ行く?」
「もう、慌てないの。郁はせっかちなんだから。まだ、朝早いんだし」
大きく伸びをする麗ちゃん。手を上に伸ばすと、すごい高さだ。
僕──、というか麗ちゃんの元の体は小柄なので、ジャンプしても届かないだろう。
篤の背、高すぎ!
首をのけ反らせて、麗ちゃんの手の先を見上げる僕。
ひとしきり背筋を伸ばした麗ちゃんは、僕の手を取った。
「郁、さあ、行こうか!」
「あれ? 人のこと、せっかちって言ったくせに」
文句を言いながらも、僕は麗ちゃんに手を引かれ、広場を横切る。
人はまばらだが、麗ちゃんが目立つので、こっちを見ている人もいる。
彼らの目には、僕らは普通のカップルに映ってるんだろうな。
本当のことを知ったら、ひっくり返るだろうけど。
そう考えると、少し愉快な気もした。
僕らは、また公園の外に出て、日比谷通り沿いに歩いた。
「麗ちゃん、あまり急がないでよ。早足で疲れるから」
麗ちゃんが普通に歩いても歩幅が違うので、僕はどうしても遅れてしまう。
「あっ、ゴメン」
それから、麗ちゃんはスローモーションのようにゆっくりと歩を進めた。
ちょっと極端すぎ。
地下鉄の出口脇を通り過ぎ、開けた交差点に出た。
信号が赤なので、二人は立ち止まる。
通りの向こうに柳並木のようなものが見える。
そして、その先は林なのか木が茂っている。
「向こうも公園なのかな?」
僕の問いかけに、麗ちゃんが何故か噴き出した。
「ぷっ! 郁は洞察力ゼロなんじゃない?」
「ええっ、それどういうこと? ひどいなあ」
「未来のこの場所が、なんだったか知ってるでしょ、郁は」
信号が青に変わったので、歩き始めたら、柳並木の横は水面が広がる大きな池だった。
「ここは、僕たちの時代では華族街だよね」
「そうよ。でも、他の呼び方もあるでしょ」
横断歩道を渡りきり、左のほうを見たら、そっちにも池が続いていた。
池の向こうには石垣がずっと連なっている。
それは、僕が全く見たことのない光景だった。
未来じゃ、この辺りの呼び名は、華族街と……。
「あっ、そうか!」
納得がいき、麗ちゃんの顔を見上げた。
「やっと、わかったの。相変わらず鈍いわね。郁は」
「麗ちゃんは来たことがあるから、僕をここへ連れて来たんでしょ。じゃあ、知ってて当然じゃん」
「ぶーたれないの。この時代に来た限りは、ここは絶対見ておかないとね」
二人で緑の水面のお堀をのぞきこんだ。
そう、ここは未来では無くなってしまっている場所だ。
華族街、もう一つの呼び名は、皇居跡地。
「お堀って、本当にあったんだね」
「私も初めて見た時は感動したわ」
吹く風に水面がさざめき、柳の枝が静かに揺れている。
なんだか、ここだけ時代の流れに取り残されたような、そんな感じがした。
「あっちに天皇が住んでるんだね」
手すりにつかまり、堀の向こうの石垣を指さした。
「私たちの時代の天皇陛下とは違うけどね」
「けどさ、人の洞察力がどうのこうの言うけど、麗ちゃんも大差ないね」
にやりと僕は笑った。
「なによ、それ? どういうことよ?」
「だって、写真を撮りたいじゃん。家を出るときに言ってくれれば、カメラを借りてきたのに。麗ちゃんも、かなり気が利かないよ」
「あっ、そうか。でも、これがあるから」
麗ちゃんはジャケットから携帯電話を取り出した。
「皇居と一緒に郁を写してあげるから、こっち見て」
僕は手を後ろで組み、じっと立っていたが、麗ちゃんは一向にシャッターを押す気配がない。
「どうしたの?」と訊くと、
「昔の自分の姿を写真で撮るのが、なんだか不思議な気持ちで、つい見入ってしまったの。ゴメン、すぐ撮るから」とシャッターを押した。
今度は交替して、僕も麗ちゃんを撮ってあげたが、篤の写真なので、妙な気分だった。
「家のプリンターで印刷してあげるからね」と言い、麗ちゃんは携帯をしまった。
「郁はまだ皇居を見たい?」
麗ちゃんの顔を見ると、何か考えがある時の顔つきだった。
顔のパーツは篤のものだが、表情は麗ちゃんなので、これもまた不思議な気がした。
「もしかしたら、他に行きたいところがあるんじゃない?」
「今度はすごい洞察力じゃない」
誉めてくれたが、さっきはひどい言われようだったので、あまり嬉しくない。
けど、ここでまたぶーたれると、忍耐力ゼロだとか言われそうなので、
「今日は麗ちゃんの好きにしていいよ。僕はつきあうから」と答えた。
麗ちゃんは僕の苦手な顔でにやりとして、踵を返した。
「ここからならJR有楽町駅が近いわね」
「電車に乗るの?」
「そうよ。さあ、行きましょう」
麗ちゃんが手を差し出す。
それは篤の大きな掌。
先ほども手を引かれたが、やはり違和感がある。
「郁は命を狙われてるから、私から離れないようにしないと」
麗ちゃんが、握れと言わんばかりに手を振るので、仕方なく握った。
確かにひとりでぼうっとしている時に限って、危険な目に遭ってるし。
肩を並べて歩くと、すぐに鉄道の高架が見えてきた。
「あれ? 有楽町はこの時代は高架だったんだ」
僕はひとりごちた。未来じゃ、有楽町駅は地下だ。
「郁はこっちへは来たことないんだ」
よしよし、といった感じで、麗ちゃんはひとりうなずく。
僕は高架の下に店が連なっているのが珍しくて、それに目が釘付けだ。
そうしてると、あっという間に駅に着いた。
「新橋まで歩いて行ってもいいんだけどね。けど、郁が疲れるでしょ」
券売機の前で麗ちゃんが僕に振り向く。
「新橋に行くんだ。隣だよね。歩いてもいいけど、電車もいいかも」
「じゃあ、電車に乗りましょう」
麗ちゃんは慣れた手つきで、券を二枚買った。
僕は仁科家の人と新宿かどこかの役所に行った時にしか、こっちでは電車に乗ったことがない。
僕には、麗ちゃんがすっかりこの時代の人間になっているように思えた。
有楽町駅はお世辞にも立派といえない造りだった。
銀座が近いせいか、人も多く、狭い駅舎の中でひしめいている。
はぐれないように、麗ちゃんの手をしっかりと握り、階段を上がった。
「ホームはいちばん危険だから、私の後ろにくっついてなさい」
麗ちゃんが険しい顔で、周囲の人にじろりと睨みをきかせた。
今までの事故のパターンだと、ホームから僕が突き落とされる懸念が確かにある。
けど、麗ちゃんの顔が怖すぎて、後ろの女の人がびっくりしてる……。
辺りに剣呑な空気を漂わせつつ、待っていると、すぐに電車は来た。
山手線だが、もちろん、僕らの時代のとはデザインが違う。
未来の山手線は白地に緑のラインだ。
「足下に気をつけるのよ」
電車に乗りこむときに、麗ちゃんが僕の足を見下ろした。
いくらなんでも、子どもじゃないんだから……。
僕は苦笑い。
電車が動き出し、景色を楽しむ間もなく、あっという間に新橋駅に着いた。
「さあ、乗り換えるわよ」
麗ちゃんが、また僕の手を握る。
「乗り換え? 今度は何に乗るの?」
「ゆりかもめ」
麗ちゃんが即答した。
ゆりかもめ?
初めて聞く名前だ。
何、それ?
海が近いから、きっと船だと、僕は思った。




