僕と平太
仁科家に帰った僕は、隠れるように自分の部屋に閉じこもった。
下手なことを今みんなに喋ると、事態が変な方向に進んでしまう。
まずは冷静になって、ひとり考えることが必要だ。
そう思ったのだ。
床にペタンと座り、部屋を眺める。
見慣れたはずの部屋も、記憶が戻ってから見ると印象が違う。
この部屋で生活して、もうすぐ一年になるのか……。
殺風景な部屋ではあるが、ここで勉強をしたり、色んなことを悩んだりもした。
記憶が戻れば、自分の家に帰れる、と考えていたが、この時代に自分の家はない。
僕の両親すら、まだ生まれていない時代だ。
自分の本当の家に戻るには、タイムマシンが必要だ。
鏡台に目を向けると、タイムマシンを召喚する装置が、無造作にそこに置かれていた。
腕を伸ばし、装置を手にした。
腕時計型の装置は、バッテリーメーターが半分ほどになっていた。
放っておいても少しずつ減っているみたいだ。
これでタイムマシンを呼べば、元の時代に戻ることができる。
けれど、元に戻っても、僕の体は以前とは異なる。
僕の体は、麗ちゃんの体なのだ。
立ち上がり、鏡面を開いた。
そこに映るのは、間違いなく麗ちゃんの姿。
けれど、それはいつもの自分の姿でもある。
てへへ、と笑ってみたら、鏡の中の麗ちゃんも笑った。
眉根を寄せ、唇を尖らせると、怒っているように見えた。
しばらく、表情を色々変えて見ていたが、麗ちゃんに悪いような気がしてきて止めた。
麗ちゃんは本当に、自分の体になんとしても戻りたい、とは思わないのだろうか?
できるなら、すぐにでもこの体を返してあげたい。
しかし、どうすればみんなが元に戻れるのかどうかは、皆目不明だ。
これが、今のところの最大の懸案事項だろう。
そして、もう一つ気にかかること。
それは、僕が命を狙われていること。
というより、九条院麗が狙われている、と言ったほうが良い。
三度目の事故を、仁科家の人は居眠り運転か何かと思っているようだけど……。
あれは、僕が冴島に電話をして、居場所を教えた直後の出来事だ。
タイミングが良すぎる。
興信所の冴島という男は、僕の知る未来の冴島さんとは別人だ。
単なる同姓なのだろうが、彼に電話をした直後に、あの事故が起きた。
長瀬こと、七瀬も法律事務所から忽然と姿を消している。
二人には繋がりがあるのかもしれない。
事故のことを考えていたら、痛めた肩や手首が疼き始めた。
このことに関しては、麗ちゃんと相談して、明日にでも冴島にもう一度電話をかけてみることにしよう。
麗ちゃんが、また記憶を失くしたりしていないか、僕は少し心配になった。
あれこれ今後の方針を決めなければならず、僕ひとりでは到底結論を出せそうにない。
頼りなのは麗ちゃんだけだ。
篤は、愚痴ばかりだし──。
ドアを叩く音がした。
「はい」と答え、ドアを開ける。
「具合は大丈夫か?」
平太が部屋の様子をのぞいてから、僕を見た。
「うん、ちょっと肩とか痛むけど、もう慣れてるし」
「そうか。じゃあ、もう少ししたら、夕飯だから、先に風呂でも入っておけよ」
「わかった、ありがとう」
ドアを閉め、着替えを用意してから、浴室に向かった。
今日はいつもと違い、かなりドキドキしている。
お風呂に入る時、なんだか照れ臭いような気がしていた原因が、わかってしまったのだ。
服を脱ぎ、素肌が顕わになると、そのドキドキはピークに達した。
これは麗ちゃんの体だけど、今は自分の体──。
これは麗ちゃんの体だけど、今は自分の体──。
そう自分に何度も言い聞かせる。
麗ちゃんに悪いと思いつつ、記憶が戻った今となっては、ついつい見入ってしまう。
ない所があったり、ある所がなかったり。
麗ちゃんのほうは、僕の体じゃなくて良かった、と思ったりもした。
だって、やっぱり他人に自分の体をジロジロ見られるのはイヤだよね。
とりあえず、今の僕に出来ることは、この借り物の体を大事にすることだけだ。
いつもより、丹念に体を洗い上げながら、長い髪って洗うの面倒くさいな、と思ったりもした。
髪をひょいと手ですくい上げ、ひとり呟く。
ショートカットにしたら、麗ちゃんは怒るかな?
長風呂になってしまい、浴室を出て、キッチンに行くと、平太はすっかり待ちくたびれた様子だった。
「ごめん。平太。お腹減った?」
「まあ、女は長風呂なもんだし、仕方ないよな。とりあえず、さっぱりしただろ?」
「うん」
僕がうなずくと、平太はご飯をよそおい始めた。
平吉さんは凪沙さんの手伝いで、また店に出ている。
二人だけの食事だ。
これも珍しいことじゃないけど、男としての記憶が戻った今はちょっと変な感じがする。
だって、今までは自分が女のつもりだったし。
なんだか恥ずかしくて、話しかけにくく、黙々と箸を動かした。
平太も片付けで疲れたのか、ほとんど話しかけてこない。
いつもより早く食べ終わってしまったところで、平太と目が合った。
平太は箸を置き、じっと僕を見た。
「なんか、今日のお前、変だよな。俺に何か隠してる?」
「い、いや、別に……」
「いや、隠してるだろ?」
平太は僕の表情を見透かし、機敏に反応してくる。
「何も隠してないって……」
平太の視線を避けるため、たまらず、また箸を握ったが、皿はすっからかんだ。
僕は箸の先をくわえた。
「おかしいぞ。今日の香は」
いつもだと平太はこんなにしつこくはないのだけど──。
それほど僕の様子が変なのだろうか?
僕は箸を置いた。
「あのね、平太はさ……」
「なんだ、香?」
「あの……、言いにくいんだけど……」
「早く言えよ。やっぱ、変だぞ、今日のお前」
「じゃあ、言うよ。僕がもし男だったら平太はどうする?」
平太の顔つきがを固まった、と思った瞬間。
平太が破顔して、爆笑した。
「ばっ、ばっかじゃねえの? お前。何を言い出すかと思ったら」
「だ、だから、もし、って言ってるじゃん。もしもの話だよ」
ひとしきり笑った平太は、漬け物を指でつまみ、ポンと口に放りこんだ。
「ま、お前が仮に男だとしても」
「だとしても?」
カコッと漬け物をかじる音が爆ぜる。
「お前は俺の家族みたいなもんだ」
意味深にニヤリと笑い、爪楊枝に手を伸ばす平太。
「家族か……。そうか。家族か……」
時代の遙か彼方にいる僕の父、母、妹の顔が、夜の花火のように浮かび上がり消えていく。
けど、この時代、この体では、僕の家族は仁科家の人たちなのだ。
急に目頭が熱くなり、うつむいた。
「おい、どうした?」
平太が身を乗り出す。
僕は顔を見られまいと、身をよじった。
まだ、泣き顔は見せたくない。
いずれ、僕は麗ちゃんと未来へ帰る時が来るだろう。
その時には平太たちとは永遠に別れなければいけない。
泣くとしたら──。
「泣いてるのか、香?」
平太はテーブルを回りこみ歩いてくる。
だから、今は僕の顔を見るなって──。
平太にそっぽを向く僕。
その時、玄関口がにわかに賑わいだ。
「あっ、おじさんとおばあんが帰ってきた!」
僕は手の甲で涙を拭い、二人を出迎えに急いだ。




