自分の体への思い
夕暮れ時、ホテルの喫茶は、客の歓談する声が絶え間なくフロアを埋め尽くしている。
そんな中、篤は黙りこんでしまい、ガラス壁の向こうの景色を見ている。
顔に満ちた苦渋の表情から、眺めを楽しんでいるのではないことは、すぐにわかる。
自分の苦悩する顔を客観的にじっくりと見たのは、初めてだ。
まあ、自分といわず、人が苦悩する顔を見るのは、あまり気分の良いことではない。
麗ちゃんも何か考えこんでいるようで、僕に何も話しかけてこない。
その憂いをはらんだ顔は、僕から見ても、なかなかの美男子だ。
篤の顔なのが、少々しゃくに触るけど。
手持ちぶさたでコーヒーカップを手にしたが、とうに空っぽだった。
しょうがないから、スカートのプリーツをいじった。
自分がスカートを履いていると思うと、なんだか妙な感じだ。
足下がスースーしてしょうがない。
女性ってこんな物、履いてて、気にならないのかな?
記憶が戻ったせいか、以前にも増して、落ち着かない気分だ。
それにこの体、麗ちゃんのだし……。
正面の麗ちゃんの顔をじっと見てたら、気がついて、こっちを見た。
「どうしたの? 郁」
「いや……、麗ちゃんは、自分の体が人に使われてて、なんとも思わないのかな、って……」
そう訊きながら、指でスカートのプリーツをまたいじった。
「うーん、そうね。そう言われれば……」
麗ちゃんの目、つまり篤の目が僕をぎょろりと見る。
やっぱり、この顔を見て話すのは、まだ慣れそうにない。
麗ちゃんは、じっくりと僕を眺め回した後、首を小さく傾げた。
「鏡を見てるか、双子の姉妹ができたみたいな感じかしら」
「それだけ?」
「それだけかな。もう、自分の体じゃないし。けど、郁。その体、大事にしてよね」
「う、うん……」
そう言われて、思わずうなづく僕。
麗ちゃんは既に体のことは割り切っているようにしか思えない。
篤との会話でもそんな感じだったし。
麗ちゃんは僕たちよりも早く記憶が戻っていたことがあるので、その時にひとりで良く考えたのかもしれない。
じゃあ、僕は……。
隣に座る篤を横目で見た。
相変わらず渋い表情の僕がそこにいた。
自分から見ても、なんだか冴えないな……。
おい、元気出せよ、と声をかけたくなる。
そんなことを言っても、篤に怒鳴られるだけだから言わないけど。
自分もこの体に慣れたせいか、麗ちゃんと同じで、割と客観的に元の体のことを見れるようだ。
元の体にひどくこだわっているのは、篤だけだ。
とはいえ、簡単に戻れるならば、僕も自分の体に戻りたいけどね。
「そろそろ、私は行かないと」
麗ちゃんが腕時計を見て、立ち上がった。
篤は麗ちゃんを見上げてから、呟いた。
「お前はいいよな。この時代でも自分の家なんだろ? 俺は帰りたくねえなあ」
「そんなこと愚痴っても仕方ないでしょ。記憶がなかった時に決まったことなんだから」
「なあ、早く元の時代に戻ろうぜ。対策を考えるのはそれからにしよう」
「その話は、また今度。私は急ぐから。さあ、郁も行きましょ」
麗ちゃんは僕の手を取った。
そこを篤が慌てて、呼び止めた。
「おい、ちょっと待て。俺、もう少しここにいるから。金だけ置いてけよ」
「もう! このストーカー男は、手間がかかるわね」
麗ちゃんは制服から財布を出し、五千円をテーブルに置いた。
「さすが、九条院家は金持ちだよな。じゃあ、またな」
篤は手にした札をひらひらと振った。
皮肉を言ってる時だけは篤は元気で、彼らしい。
麗ちゃんとホテルを出た。
外はもう薄闇で、ロータリーのハイヤーはどれもライトを点けていた。
麗ちゃんがホテルボーイに頼み、ハイヤーに乗りこみ、僕を呼んだ。
「郁も乗りなさい。あなた、狙われてるし一人にできないから。送ってくわ」
僕も乗りこみ、ハイヤーは走り出した。
麗ちゃんは横に座った僕を見て、嬉しそうに笑った。
「こうやって、二人で車に乗ってると、昔に戻ったような気がしない?」
「昔じゃなくて、未来なんじゃない?」
「あっ、そうか! 郁、あなた上手いこと言うじゃない」
なんだか、麗ちゃんはご機嫌だ。
ただ、麗ちゃんが喋ると、運転手がバックミラーをちらちらと見る。
運転手も、オカマ言葉が気になるみたいだ。
「ところで今夜は桐松院さんに会うんだけど、郁も来ない?」
「桐松院さんって、あの皇爵の桐松院さん?」
「そうよ。こっちではまだ皇爵じゃなくて、すごく若いけどね」
僕は考えた。会ってみたい気もするけど……。
「今日は止めとくよ。仁科家のほうが大変だし」
「そう……、そうね。じゃあ、お店の前で降ろすわ」
本当は麗ちゃんともっと沢山話したい気持ちもあったが、また今度でもいいだろう。
それよりも、僕の記憶が戻ったことを、仁科家の人たちに何て言おう……。
ハイヤーはほどなく、喫茶店の前に着いた。
野次馬はいなくなり、消防車も救急車も帰ったようだ。
「じゃあ、郁、気をつけて。またね」
麗ちゃんはドアから軽く手を振り、去っていった。
店の入り口に向かうと、外で片付けをしていた平太が僕に気付いた。
「香、戻ったのか。こっちは、やっと静かになったぜ」
「ごめんね。手伝わなくて」
「気にするな。怪我人を手伝わせたりはしないさ」
申し訳ない気持ちとともに、店に戻ってきて、懐かしい気持ちもこみ上げてきた。
この時代では、ここは僕の帰り場所だ。
「車は?」
平太に訊くのと同時に、テラスを見ると、黒いボックスカーはまだそこにあった。
「今、車を抜くと壁が崩れそうだから、明日業者が来るってさ」
店の窓からは明かりがこぼれていた。
おそらく、凪沙さんと平吉さんが中で片付けをしているのだろう。
みんな、いるみたいだ。
記憶が戻ったことを話すなら、今かもしれない。
このまま黙っていたら、お世話になった仁科家を騙すことになる。
平太に近づき、僕は彼の顔を見上げた。
「あのさ、平太……。僕、みんなに話があるんだ」




