集まった三人の記憶喪失者
喫茶店に下る道は、いつもより人通りが多かった。
大学生くらいの男子が大勢、荷物を手に歩道を歩いている。
近くにあるホテルで何かイベントがあったのかもしれない。
「今日は店は大忙しかもしれないぞ」
平太が彼らを追い越しながらつぶやいた。
平太と九条院さん、それに五両君、三人とも歩くのが速く、僕はついていくのが大変だった。
お陰で、いつもよりかなり早いペースで店に着いた。
平太の言ったとおり、店は大盛況だった。
店内はいっぱいで、テラス席が少し余っているだけだった。
夕方のこの時間にしては、珍しいことだ。
テラス席には、いつもの場所に読書少年の霧原君がいた。
今日は人も多いので、騒がしくて読書に集中できないんじゃないかな?
とにかく、空いてる席を今のうちに確保しないと。
僕はいちばん歩道寄りのテラス席に鞄を置いた。
「香、さっさと話を済ませろよ。かき入れ時みたいだからさ」
平太が僕を見て、言った。
「うん、話を済ませたら、場所を変えるから」
「って、お前、今日は手伝わないつもりか?」
「ごめん、大事な用があるんだ」
僕は平太の顔に手を合わせ、拝んだ。
「仕方ねえな。母ちゃんにはちゃんと言っとけよ。俺、知らないから」
平太はそう言ってから、店に入った。
そのやり取りを横で聞いていた九条院さんが、
「いいのかい? すごく忙しそうじゃないか?」と言った。
「ちょっとタイミングが悪かったですけど、これからするのは大事な話ですから。それより、飲み物はアイスコーヒーでいいですか?」
九条院さんと五両君、二人がうなずくのを見て、僕は店に向かった。
飲み物を取りに行くのと、凪沙さんに今日は手伝えないことを、断っておかないといけないからだ。
扉を開け、店に入った。
店内を見回すと、満席で人がいっぱいだった。
凪沙さんは平吉さんと並んでカウンターでコーヒーを淹れている。
僕はその横に行き、
「お疲れ様です。おばさんに言われた男子、今日連れてきました」と告げた。
凪沙さんはこっちを向きもしない。
「悪いけど今すごく忙しいから、もうちょっと待っててもらえるかしら?」
「はい、いいですけど……」
「けど、何?」
凪沙さんが横目で僕をちらりと見た。
「実は私、用事があって、今日はお店を手伝えないんです」
それを聞いて、凪沙さんの手が止まった。
叱られると思った僕は、身を縮めて彼女の言葉を待った。
だが、返ってきた言葉は、
「仕方ないわね。じゃあ、平太にその分頑張ってもらうから、あなたからもお願いしておきなさい」と意外にも柔らかいものだった。
「はい!」と元気よく答え、みんなのアイスコーヒーの用意を始めた。
淹れ終わり、持って行こうとしたら、平太が、
「お前、肩が悪いんだろ。俺が持って行くから」と言ってくれた。
今日は何から何まで彼の世話になりっぱなしだ。僕は平太に頭を下げ、テラスに出た。
僕が腰を下ろすと、すぐに平太が飲み物を持ってきた。
「似合うね、その服」
九条院さんが平太の制服を見て誉めた。
平太は照れ笑いしてから、すぐに店に戻った。
「ところで、今日はどんな用事なんですか? 俺、聞いてないんですが」
五両君がストローの封を切りながら、訊いた。
「昨日の夜、僕を捜してる興信所の人がここに来たんだよ」
言ってから、自分が男言葉に戻ってるのに気付いたが、まあ、いいか、と思った。
「興信所? それで、その人は何て言ってたの?」と今度は九条院さん。
「それが、僕を捜している依頼人の名前は守秘義務で今は教えられない、って冴島さんが言ったら、おばさんが、それじゃ話にならない、って帰しちゃったんです」
「その人、冴島さんという名前の人なの?」
九条院さんが、何か考えるように首を傾げた。
「そうですけど、九条院さんは聞き覚えがありますか?」
「いや、あるようなないような……」
九条院さんは腕組みをした。
「五両君、その人だけどさ。あのサングラスの男だと思うよ。僕」
アイスコーヒーをすすっていた五両君の体が強ばった。
「えっ! あいつ? 嘘でしょ!」
「だから、サングラスの男は興信所の人で、僕らを内偵してたんだよ。それで最初に見つけたのが、おそらく五両君だったんだね」
「俺には怪しい男にしか見えなかったですけどね」
「まあ、探偵だし。そこそこ怪しく見えても仕方ないんじゃない?」
五両君は、「そうかなあ」と納得いかない様子。
「日比野さん。ところで、僕はどうして呼ばれたの?」
九条院さんが自分を指さす。
ああ、それなら五両君をここに呼び出す囮、じゃなくて──。
「その冴島さんが、もう一人捜している様子でしたから、当てずっぽうで僕が、もう一人なら九条院家にいますよ、と言ったんですよ」
「うんうん」とうなずく九条院さん。
「そしたら、冴島さんが『灯台下暗し』だったみたいなこと言ってたから、もう一人は九条院さんで間違いないな、と思ったんです」
「三人とも記憶喪失で共通してるという訳か」
九条院さんが言うと、五両君が「なるほど」と言わんばかりに、大きく相槌を打った。
「つまりは、冴島さんは誰かに依頼されて、三人の記憶喪失の人間を捜しているということです」
「やっぱり、僕たちの記憶喪失は何か関係があったということかな? 日比野さん」
「そうなんじゃないですか。記憶障害になった時期も一致してますし」
テーブルを囲む三人は、それぞれうなずいた。
「けど、見つけるの遅すぎません? 何やってたんだか」
五両君が不満を漏らした。それだけ苦労も多かったのだろう。
「いずれにしても、僕たちの素性がいよいよわかるかもしれないんだね?」
「ちょっとドキドキしますけどね。冴島さんの連絡先は僕が聞いていますから、もう少ししたら電話してみましょう」
「三人揃ったら、まとめて始末されるなんてことはないでしょうね?」
五両君が物騒なことを口にした。
「まさか……、そんなこと」
あり得ない、と言おうとしたが、僕は実際二度も何者かに狙われた。
それに記憶喪失にどうしてなったのかも、不明だし……。
よく考えれば、三人も記憶喪失の人間がいること自体、不自然だ。
「まあ、その時は、その時さ」
九条院さんがそう言うと、五両君もそれ以上のことは言わなかった。
「とにかく、その冴島さんを呼んで話を聞こうよ。僕、夜は用事があるし」
「九条院さん、携帯電話をお持ちですか?」
「うん、あるよ」
九条院さんがポケットから携帯電話を出した。
「お借りします」
僕はそれを受け取り、憶えていた電話番号を押した。
何度かコール音が鳴り、相手が出た。
「はい、冴島です」
「あのう、日比野ですけど、昨晩お約束したとおり、みんなを集めたんですけど」
「えっ、本当に! 助かります。それで、今どちらにいらっしゃいます?」
「うちの喫茶店のテラス席に三人います」
「じゃあ、そこで待っててくださいますか? 今、ちょっと手が離せませんので。もう少ししたら、こちらからご連絡します」
「わかりました。お待ちしてます」
通話を切った。
「もうちょっと、ここで待っててください、だそうです。連絡があるので、電話をお借りしてていいですか?」
「ああ、別にいいよ」と九条院さん。
さて、それまでどうしたものか、とテーブルに目をやると、五両君のアイスコーヒーが空になっていた。
お代わり自由と言った手前、その約束は守らなければいけない。
「五両君、アイスコーヒーを持ってくるから」
僕は立ち上がり、店に向かった。
店の中は相変わらずの混雑だった。凪沙さんはテーブルで接客をしていた。
五両君を連れて来るのは、まだ後だな。
そう思い、アイスコーヒーを淹れた。
今度は一つなので、平太の手を煩わせる必要もない。
グラス片手に、僕はテラスへ向かった。
二人が待つ席に戻ると、霧原君がこっちへ歩いてきた。
もう、帰るのだろう。
今日は読書は捗らなかったに違いない。
僕が会釈をすると、霧原君も会釈した。
「はい、アイスコーヒー」
五両君の前に置き、僕は椅子に座ろうとした。
その時──。
「危ない!」
霧原君が僕を強く突き飛ばした。
何事かと驚く僕の目に、異様な光景が飛びこんできた。
大きな真っ黒い物がこっちへ向かって来る!
そいつは獲物に襲いかかる猛獣のように、勢いを増した。
僕は大きな悲鳴を上げた。




