華族専門病院の朝
肌寒さに目が覚めた。
病院の廊下はそこかしこで、きびきびとした少しテンポの速い足音がする。
おそらく、看護師たちが各々の持ち場に近づき、今日の仕事に向け気持ちを引き締めているのだろう。
僕はロビーを見回した。
華族専門病院なだけあって、患者はまばらだ。
ほとんどの患者は診療開始後に車で乗り付け、そのまま診察を受けるはずなので、受付で待っているのは、概ね華族の紹介を受けた一般患者だろう。
そして、僕もその華族専門病院の恩恵にあずかっている。
なんといっても、ロビーに置かれたこのソファー、うちのベッドより寝心地が良い。
これで、掛け布団もあれば文句なかったのだけど、冴島さんが出してくれた麗ちゃん用の膝掛けでなんとかしのげた。
その冴島さんは、宝谷専務を家まで送った後、この病院の駐車場で待機しているはず。
冴島さんには僕も帰って良いと言われたが、母親を早くになくした麗ちゃんには、今は病気で入院している父親しか家族はいない。
こういう時こそ、長年麗ちゃんと行動を共にした僕の出番ということで、病院に泊まったのだが、女性の麗ちゃんと同じ部屋にずっといる訳にもいかず、このソファーで一晩を過ごすこととなった。
その麗ちゃんは、単なる気疲れだろうということで処置は解熱剤と点滴だけで済み、大事はなかった。
いつもなら、そろそろ彼女も目を覚ます頃。
僕は彼女の病室に行ってみることにした。
道すがら、外を眺めると昨日のひどい雨が嘘のように晴れ渡り、気持ちのいい朝だ。
商談も上手くいきそうだし、麗ちゃんも気分良くこの朝を迎えられたらいいな、と思いつつ、彼女のいる病室の前に立つ。
ノックをすると、「はい」と彼女の声。いつもどおりに起きているようだ。
「僕だけど、入るよ」と一声かけ、バリアフリーのドアを開く。
「おはよう、郁。昨晩はありがとう」と麗ちゃんは半身を起こし、僕に言った。
「いや、僕にできるのはこのくらいだけどさ。皇爵の屋敷ではとんだ恥をかいちゃったし……」
麗ちゃんは「ふふふ」と笑った。
良かった──。
どうやら具合は良くなったようだ。
「上手くいきそうで良かったね。これで九条院も一山越えたのかな?」
「とりあえず、ってところね。まだまだ難題山積みだけど……」
そう言い、麗ちゃんは病室の外を見やった。そして、
「昨日の件で私はもう一つ認識したことがあるの。そっちのほうが難題かも」
僕は皇爵と麗ちゃんのやり取りを思い返した。僕は気付かなかったけど、経営者として気に病むべきことが何か他にもあったのだろうか?
僕が考えあぐねて黙り込んでいると、麗ちゃんは僕のその様子を見て、ぼそっと呟いた。
「まあ、そんな郁だから、仕方ないか……」
「ごめん。ちょっと経営には疎くて、というか僕にはわからないよ。一緒に悩んであげられたらいんだけどね」
頭をかく僕に、麗ちゃんはまた微笑む。
「ええ、せいぜい悩んでもらうことにするわ。さあ、学校に行かないと。着替えるから、ちょっと郁、ここを出てくれない」
「え、学校に行くの? 今日は休んだほうがいいんじゃない?」
「高校でも皆勤賞を狙ってるの。これぐらいで休んでいられますか」
麗ちゃんが一度言い出せば引くことはまれだ。
確かに小中と全部皆勤賞だった彼女。
ちょっと完全主義すぎるような気もするけど、それが麗ちゃんだ。
しかし、その日、彼女を休ませていれば、心の傷も多少は違ったかもしれない、と僕は後悔することになる。
その日、6月15日は九条院一族の命運を決める試練の日だったのだ。