日比野香、最後の授業
翌朝、学校に着くなり、僕は九条院さんの教室に向かった。
教室に着き、扉からのぞくと、「またあの娘が来た」的な目で何人かの先輩女子から睨まれた。
九条院さんは既に席についていた。
背が高いし、存在感があるので、良く目立つ。
僕は近くに座っている男子生徒にお願いして、九条院さんを呼んでもらった。
九条院さんが立ち上がり、こっちへ歩いて来る。
女子生徒たちの視線もそれを追っている。
なんだか居心地が悪い。
時計を見たら予鈴まではあと五分ほどだ。
段々そわそわしてきた。
「やあ、日比野さん。朝から何?」
扉まで来た九条院さんの腕を引っ張り、扉の陰に引きずりこんだ。
「九条院さん、今朝は記憶は?」
「記憶……? ああ、相変わらず戻ってないよ、まだ」
僕を見下ろし、頬を掻く九条院さん。
この間は電話で頭痛がひどかったようだけど、今は何ともないみたいだ。
僕はひとまずほっとした。
とはいえ、時間がないので急がないと。
「あのう、九条院さん。今日は放課後は空いていますか?」
「うーん、夜は用事があるけど、夕方までなら」
「じゃあ、お願いします。また、放課後に来ます」
僕は頭をぶんと下げ、三年の教室を後にした。
「おーい、いったい何の用なの?」と九条院さんが呼ぶので、
「それも後で」と答え、階段を下りた。
とりあえず、九条院さんは確保。
僕は踊り場で軽くガッツポーズを決めた。
あとは五両君だ。彼には昼休みに話をする予定だし。
自分の教室に戻ると、すぐ予鈴が鳴った。
今のところ、万事順調だ。
「おい、香」と隣の平太に呼ばれた。
「何?」
「お前、一時間目の宿題やってるのか?」
「そりゃ、もちろん……」
やってませんよ。
しかも、このところ数学は立て続けだし……。
今日は天気がとてもいい。
青い空を鳥が飛んでいる。
あの飛び方は、ツバメかな?
小さな戦闘機のようなスピーディーでシャープな動きだ。
けど、ツバメってもう日本まで来てるのかな?
そんな訳で、僕は前回と連続で宿題をさぼった罰として廊下に立たされている。
これは予定どおりというか……、今時廊下に立たされるとは思わなかった。
授業が終わって出てきた先生に頭を小突かれて、晴れて無罪放免になった。
頭をさすりながら教室に入ると、天瀬さんが、
「香は、あの先生が厳しいの知らなかったの?」と話しかけてきた。
「私は知らないよ」と答えた。
「あれ、香、しゃべり方変わったんじゃない」と天瀬さんが首を傾げたので、
「いいえ、元に戻っただけ」と言い、自分の席に急いだ。
立ち疲れて、ようやく座ることのできた僕。
昨日は無理して金網を乗り越えたりしたので、肩もまだ少し痛む。
肩をさすっていたら、隣から平太の声。
「お前、次の授業の宿題はやってるんだろうな?」
「そりゃ、もちろん……、やってないよ」
平太は呆れ顔で僕を見た。
「お前なあ……、そんなにずぼらだったっけ?」
「へへっ」と僕は笑った。
そんな訳で、僕は今度は椅子の上に正座させられている。
これは結構しんどい……。
廊下で立たされるほうが、ずっと楽だった。
クラスの生徒が時折、僕のほうを振り返り、くすくすと笑う。
一番後ろの席だったので、みんなの目に触れにくいのが、不幸中の幸いだった。
とはいえ、足が痺れてきた。
今度はさすがに授業中丸々という訳ではなく、途中で許してもらえた。
じんじんと痺れる足をさすった。
次の授業も宿題をやっていないけど、さすがに体罰は続かないだろうと考えていたら──。
僕は今、校庭を走っている。
やっと二周したので、あと三周。
四月の下旬だというのに、今日は初夏のような陽気だ。
汗がどんどん出てくるし、喉もカラカラだ。
先生が窓からこっちを見ているので、さぼる訳にもいかない。
その先生が二人になったり、三人になったり……。
って、そんなの変だよね?
と思ったのを最後に、僕は校庭にばたりと倒れた。
青い空に白い雲。
高いところを鳥が飛んでいる。
くるくると同じ場所をさっきから回っている。
あの鳥は何だろう?
ぼんやりと空を眺めながらの昼寝。
とても心地いい。
僕は大きくあくびをして、もう一寝入りしようとした。
「あら、起きたの?」
女の人の声がした。聞き覚えのない声だった。
凪沙さんじゃないし、誰だろう?
僕は上半身を起こした。
見回すと見慣れない部屋。
僕の部屋じゃない。
それに寝ているのはベッドの上だ。うちは敷き布団だし。
「日比野さん。あなた少し貧血気味なんじゃないかしら? 後で病院に行ったほうがいいよ」
また声がしたので、そっちを向くと、白衣の女性が椅子に座っていた。
チャイムが聞こえた。
その音を聞き、僕はようやく状況を思い出した。
宿題を忘れた罰で、校庭を走っている最中に倒れたんだった……。
「日比野さん、聞こえてるの? 榊先生、青い顔してたわよ。体罰で生徒が倒れたなんて親に知れたら、大問題だもんね」
ここは保健室だ!
僕は布団をはぎ取り、自分の身なりを調べた。
制服のままだった。
慌ててベッドから降りた。
「先生、今何時ですか?」
おっとりとした保険医は時計を見上げた。
「3時よ。さっきのはホームルーム終了のチャイムね。それにしても、あなた、良く眠ってたわね」
「どうもお手数かけました」
もたもたしてると、五両君が帰ってしまう。
僕は保健室を飛び出した。
「ちょっと! あまり無理するんじゃないよ!」
背中に投げられた保険医の声に、「はい」と大きく返事をして、廊下を急いだ。
事務棟から、教室のある校舎に入ったところで智晶さんに出くわした。
「あれ、香ちゃん。どうしたの? 職員室に用事だったの?」
智晶さんは既に鞄を持っている。
もう、帰るつもりのようだ。
樹さんの言ってたように、今日も陸上部はサボるつもりなのだろうか?
「いえ、私、ちょっと急ぐので」
「あれ? 私って? 香ちゃん、何、そのしゃべり方?」
智晶さんに答えていると長くなるので、 僕は智晶さんの横をすり抜け、階段へ向かった。
その後も、「あれ」だか「あれれ」だか智晶さんの声がしたが、今はかまってられない。
今度謝ろうと思いつつ、先を急ぐ。
自分の教室に飛びこんだ。
右を向けば、すぐそこが五両君の席だ。
僕は髪をなびかせ、顔を向けた。
だが、席は空だった。
鞄も見当たらない。
「遅かった!」
思わず声を出した。
教室に残っていた生徒が僕の声に気づき、僕を見た。
「あっ! 日比野がやっと帰ってきた」
その顔がどこか嬉しそうだ。
宿題をさぼってほとんど丸一日、授業を受けていない僕が面白いのだろう。
まあ、今はそんなことはどうでもいい。
「五両君は?」
大きな声でみんなに訊いた。
「さあ? もう帰ったんじゃね」
興味なさそうに男子が答えた。
それを聞き、僕はまた教室を飛び出た。
「なんだ、あいつ?」
複数の声が教室から聞こえた。
僕は階段を駆け上がり、今度は九条院さんの教室へ向かった。
開いていた扉によりかかり、中の様子を見たが、九条院さんはいない。
朝方、声をかけた男子がいたので、訊ねてみた。
「九条院さんは帰られましたか?」
「うん。帰ったよー」と快活な答え。
僕は頭を下げ、三年の教室を離れた。
急ぐ理由もなくなったので、階段をゆっくりと下りた。
九条院さんは朝頼んだんだから、待っててくれてもいいのに……。
それに、五両君のほうは、今日お店に連れて行かないと、凪沙さんに僕が叱られちゃう……。
学校で叱られっぱなしで、お店でも叱られるのは憂鬱だ……。
気が重くなり、どんどん歩くペースが落ちていく。
自分の教室に鞄を取りに戻り、隣の席を見たら、平太の鞄もない。
平太まで先に帰っちゃうなんて。
「ひどいよ……」
鞄を手にひとり昇降口に向かった。
靴を履いていたら、自然と凪沙さんに叱られる自分の姿が思い浮かんだ。
嫌だなあ……。
顔を上げ、歩き始めようとしたところを、後ろから肩を叩かれた。
振り向くと、平太と九条院さん、それに五両君もいた。
「いつまで寝てんだよ。香」
平太がにやりと笑った。
意外な顔の取り合わせに僕は思わず訊いた。
「どうして、みんなが?」
「いや、お前を保健室に連れて行った時に、お前がうわごとで『放課後、九条院さん、五両君』、って何度も言うから、念のために俺が引き止めておいたのさ」
「じゃあ、教室で待ってくれてても良かったのに」
「えっ? 俺、お前の机の上に昇降口で待ってる、って書き置きしといたんだけどな」
「なかったよ。そんなもの」
僕は口を尖らせた。
「じゃあ、誰かが面白がって捨てちゃったんだな。今日のお前は弱り目に祟り目の連続だったからな」
「ひどいよお」
僕は今度は頬を膨らませた。
「それより、日比野さん。君の素性を知る人が昨日来たそうじゃないか?」
平太の後ろの九条院さんが、僕に訊ねた。
「そうです。だから、今日、記憶喪失のみんなで集まろうと思って」
「それを早く言ってくれれば良かったのに」
九条院さんの言うことはもっともだけど、僕は僕なりに今日は大忙しだったんだから。
五両君は九条院さんのことを熱い眼差しで見ている。
よっぽどお気に入りのようだ。
「五両君も今日はいいよね」
「ええ、もちろん。九条院さんとお近づきになれますし」
「アイスコーヒー、好きなだけ飲んでいいからさ」
五両君はちょっとだけ嬉しそうな顔をした。
でも、その後に君は凪沙さんに叱られるんだけどね。
「おい、こら、香! お前、うちの店の商品を勝手に!」
怒る平太を見上げ、「へへっ」と僕は笑った。
「まあ、いいか。たまには」と平太も笑ってくれた。
「じゃあ、お店で続きをお話しします」
僕は二人を連れ、平太と店に向かった。
これが日比野香として最後の学園生活になることを、僕はまだこの時、知るよしもなかった。




