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九条院家の存亡(旧バージョン)  作者: 天川一三
2011年前編
45/107

五両君は僕の恋人

 僕と五両君が恋人だった……?


 意外な言葉に僕は息を飲んだ。

 五両君は僕の顔を真っ直ぐ見ている。

 気負った様子もなく、平静そのものだ。

 僕の言葉を待っているのか、ずっと黙ったままだ。

 確かに五両君の姿に、僕はどういう訳か親近感を覚える。

 けど、恋人だったとしたら、もっと違った感情も心に残っていたりしないものだろうか?

 僕も黙ったまま、五両君を見返した。


「最初に会った時、取り乱したりしてすみません」

 短い沈黙を破り、五両君が僕に謝った。

「何のこと?」

「この間、俺が転校してきた日の朝ですよ。日比野さんにご迷惑をかけたでしょ?」

「ああ……、あの日のこと」

 あれは怒っているだけで取り乱しているようには、僕には見えなかったけど。

「おそらく、俺の潜在意識が日比野さんのことを憶えていたんですよ。だから、冷静でいられなかったんだ、と思います」

 五両君は淡々と話し続けた。

 そのどこか客観的な態度に、僕は少なからず違和感を覚えた。


「日比野さんは俺のことを思い出しませんか?」

 五両君の質問。

 僕は返答に困った。

 それは、彼の顔を頻繁に見ていたような記憶が、頭の中でくすぶっているからだ。

「いや……、よくわからないよ」とその場を繕った。

 五両君は僕に近寄り、掌を僕の顔に伸ばした。

「でも、すぐに思い出しますよ。俺とつきあえば──」

 髪を触ろうとしたので、思わず後ずさりした。

 ちょうどその時、午後の授業の予鈴が鳴った。


「じゃあ、その話はまた別の時にでも」

 僕は逃げるように教室へ駆けこんだ。

 僕が席についても、五両君はまだバルコニーに立っていた。

 窓越しに僕を見る目が、少しだけ怖かった。


 五両君の目が、授業中も僕を見ているような気がした。

 教室にいると、なんだか落ち着かない。

 放課後になり、平太に「九条院さんのクラスに行ってくる」と告げ、教室を出た。

 平太は、またか、というような顔をしたが、うなずいた。


 生徒たちでごった返している廊下に出て、ようやく僕は一息ついた。

 階段に向かおうとしたら、九条院さんが下りてきた。

 九条院さんは僕を見つけ、「やあ」と手を挙げた。

 僕は彼の顔を見上げた。

 今は記憶が戻っているのだろうか?

 表情をうかがったが、全然わからない。


「九条院さん、今は記憶は?」

 訊いてみても、九条院さんは不思議そうに首を傾げるだけだ。

 記憶喪失のままのようだ。

 僕は質問を変えた。

「九条院さん、今日はもうお帰りですか?」

「うん、桐松院さんと証券取引所に行く予定があるんだ」

「お急ぎですか?」

 九条院さんは腕時計を見てから、「ああ、悪いね」と言った。

 昨晩の電話のことを訊こうかと思ったが、前みたいに忘れてるだろう。

「じゃあ、また今度」と頭を下げた。

 九条院さんも「じゃあ」と歩きかけて立ち止まり、制服のポケットから何かを出した。


「これを日比野さんに返しておくよ」

 差し出される大きな掌の上にあったのは、口紅だった。

 僕は少し逡巡し、

「いえ、まだ持っていてください。僕には必要ありませんから」と言った。

「ええっ、男の僕こそ必要ないんだけど」

「じゃあ、それを見て僕のことでも思い出してください」

「それ、どういう意味?」

「いいですから。九条院さんが持っていてください」

 僕は九条院さんの手を押し戻した。

 九条院さんは不承不承の顔で、口紅をまたポケットに入れた。

 昨晩の電話で、九条院さんは口紅を眺めていたら、記憶が戻ったと言ってたし。

 僕の住所をもう一度思い出してもらうには、彼が持っていたほうが良いと思うのだ。


「じゃあ、僕は行くけど」

 九条院さんはどこか割り切れない表情でそう言い、階段を下りていった。

 自分の教室に戻ろうと振り向いたら、すぐ後ろに五両君がいたのでびっくりした。

 五両君は階段のほうを見て、僕に訊いた。

「今の人、日比野さんの知り合いですか?」

「うん、そうだよ」

「そうなんですか。日比野さんとはどういった関係ですか?」

「知り合ってから、まだ大して経ってないんだけど。実は彼も記憶喪失なんだ」

「えっ、本当に?」

 五両君が目を丸くした。


 彼が驚くのも無理はない。

 自分も含めて身近に三人も記憶喪失の人間がいるのだから。

「今度紹介しようか? お互い記憶のない同士だし、何か情報が交換できるかも」

「ええ、お願いします。……それにしても、滅茶苦茶格好いい人ですね。あんな人がこの学校にいるなんて」

 九条院さんは五両君にひどく気に入られたようだ。


「それでさあ」

 僕は五両君を踊り場の壁に押しやり、

「僕と五両君が恋人だったなら、僕の住所はもちろん知ってるよね?」と小声で囁く。

 五両君はうつむき、少し考えてから、

「ええ。番地などは思い出せませんが、近所に行けばわかると思います」と答えた。


「本当に!」

 思わず大きな声を出してしまい、周囲を見回した。

 幸い、僕らを気にしてるような生徒はいなかった。

「はい。良ければこれから案内しますよ」

 この五両君の提案は魅力的だった。

 肩が痛むから、今日は店の手伝いは休みになっている。


 家に帰って、することもないし……。

 この機に僕の住所がわかってしまえば、悩みも一気に解消だ。

 問題は平太に何て言うかだ……。


「どうします?」と急かすように五両君が訊いてくる。

 僕は迷った挙げ句、「行くよ」と答えた。

「五両君さ、平太の目を盗んで僕の鞄を取ってきてくれないかな? 僕は昇降口で待ってるから」

「わかりました」

 五両君はすぐに返事をし、教室へ向かった。


 僕は階段を下り、昇降口へと急いだ。

 九条院さんが記憶を取り戻すのを待つまでもなかった。

 思いがけない展開に、僕の顔はついついほころんだ。


 しばらくして、五両君が下りてきた。

「平太さんはいませんでした」

 僕の鞄を差し出す五両君。

「ありがとう」と僕はそれを受け取る。

「日比野さん。じゃあ、行きましょう」

 五両君は歩き始めた。


 ◇◆◇


 五両君は正門を出ると、僕の通学路とは反対のほうへ曲がった。

 確か、その先は細くて急な坂道に繋がっているはずだ。


「そっちでいいの?」

 早足になってきた五両君の後を追いながら、僕は訊いた。

「こっちでいいです。日比野さんの家へ行くには、こっちのほうが近道です」

 五両君はためらう様子もなく進んでいく。

 学校のフェンスが消え、瀟洒しょうしゃな住宅が並ぶ通りを何本か横切ると、視界が開けた。

「いい眺めですよ」

 五両君は立ち止まり、眼下に広がる街並を見下ろしている。

 僕も五両君の横に立ち、その景色を眺めた。


 街はビルと住宅が入り混じり、雑然としている。

 見晴らしは良いけど、さほどいい眺めとは思えない。

 僕が黙っていると、

「じゃあ、下ります。坂が急なので気をつけて」

 五両君が横から、僕の手を取ろうとした。

「このくらいの坂、大丈夫だよ」と慌てて彼の手を避けた。

 五両君には悪いが、彼だけでなく男子とはあまり手を繋ぎたくないのだ。


 坂は急だが、自動車用の滑り止めらしき丸い窪みがたくさんあった。

 子どもか雨の日でもない限り、この程度の坂は別に危険でもないだろう。

 五両君は少し後ろから、僕の様子をうかがいつつ、坂を下りている。

 子どもじゃないんだから、こんな坂で転ばないって。

 僕は振り向き、五両君に話しかけようとした。

「ところで、僕の──、うわあっ!」

 砂利に足を取られ、僕は尻もちをついた。

 五両君が駆け寄り、「だから、気をつけてと言ったでしょ。コンクリの上に砂利があるから、滑りやすいんですよ」と僕を抱え起こす。

 お尻が痛んだが、右肩は無事でほっとした。

 立ち上がって、今し方の質問を繰り返した。


「ところで、僕の家って本当にこっちでいいの?」

「ええ。こっちです。電車に乗っても良かったんですが、俺、持ち合わせがないんで」

「それなら、僕も同じだよ。無駄遣いできないし」

 五両君は施設住まいだが、僕も居候という身分で同じようなものだ。

 出会い方が酷かったから警戒していたが、もっと仲良くしよう、と思った。


「五両君は昔のことで憶えていることがあっていいね」

「でも、俺の憶えているのは日比野さんのことくらいですから」

 五両君は照れ笑いをした。

 童顔の彼は笑うと、ちょっと可愛い。

 太々しい笑顔の九条院さんとは大違いだ。

 その九条院さんも記憶が戻ることがあるみたいだし、どうして僕だけ全く記憶が戻らないのだろう?

 僕は少し心配になってきた。


 坂を下りきって、街に入った途端、五両君の態度が一変した。

 歩くのが異様に速くなり、僕はほとんど小走りだ。

 落ち着きもなく、度々後ろを振り向いている。


「次の角を曲がったら、走りますよ」

 五両君が僕に顔を寄せ、囁いた。

「どうして?」

「いいから、俺と一緒に走って」

 腕を引かれ、道を曲がり、僕は彼の言うがままに走った。

「次の角を曲がって!」

 僕らは飛びこむように、道を折れ、マンションの植え込みに身を隠した。

「どうして、こんな所に隠れるの?」

 僕が訊くと、五両君は唇に人差し指を当てた。

 なんだかわからないが、僕は彼の指示どおりに黙った。


 植え込みの陰にうずくまったまま、五分ほど過ぎ、やっと五両君は口を開いた。

「日比野さん。俺たち、けられてるようです」

 意外な言葉に、僕は息を飲んだ。

 もしかすると……。

 僕の命を狙っている男……?

「ねえ、五両君。僕たちを尾けてるのは、どんな人?」

「男です。サングラスをしてます」

 僕の頭に、長瀬さんの顔が浮かんだ。

 法律事務所なら学校からほど近い。

 下校時に張りこんでいれば、僕を見つけるのも難しくないだろう。


「どうしよう?」

 怖くなった僕は、五両君をじっと見た。

「とりあえず人の多い、駅前に行きましょう。俺からとにかく離れないで」

 童顔の五両君がどこか頼もしく見えた。

 五両君は首を伸ばし、周囲を確認してから、僕を呼んだ。

「大丈夫です。急ぎましょう」

 五両君は手を差し出す。僕は迷わずその手を握った。

 そして、はっとした。


 この手の感触──。


 五両君は僕の手を引き、早足で駅へと向かう。

 緊張で少し汗ばむ手で、彼の手を握りしめ、僕は思った。


 僕はこの手を知っている──。

 やっぱり、僕と五両君は……、恋人だった?


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