五両君は僕の恋人
僕と五両君が恋人だった……?
意外な言葉に僕は息を飲んだ。
五両君は僕の顔を真っ直ぐ見ている。
気負った様子もなく、平静そのものだ。
僕の言葉を待っているのか、ずっと黙ったままだ。
確かに五両君の姿に、僕はどういう訳か親近感を覚える。
けど、恋人だったとしたら、もっと違った感情も心に残っていたりしないものだろうか?
僕も黙ったまま、五両君を見返した。
「最初に会った時、取り乱したりしてすみません」
短い沈黙を破り、五両君が僕に謝った。
「何のこと?」
「この間、俺が転校してきた日の朝ですよ。日比野さんにご迷惑をかけたでしょ?」
「ああ……、あの日のこと」
あれは怒っているだけで取り乱しているようには、僕には見えなかったけど。
「おそらく、俺の潜在意識が日比野さんのことを憶えていたんですよ。だから、冷静でいられなかったんだ、と思います」
五両君は淡々と話し続けた。
そのどこか客観的な態度に、僕は少なからず違和感を覚えた。
「日比野さんは俺のことを思い出しませんか?」
五両君の質問。
僕は返答に困った。
それは、彼の顔を頻繁に見ていたような記憶が、頭の中で燻っているからだ。
「いや……、よくわからないよ」とその場を繕った。
五両君は僕に近寄り、掌を僕の顔に伸ばした。
「でも、すぐに思い出しますよ。俺とつきあえば──」
髪を触ろうとしたので、思わず後ずさりした。
ちょうどその時、午後の授業の予鈴が鳴った。
「じゃあ、その話はまた別の時にでも」
僕は逃げるように教室へ駆けこんだ。
僕が席についても、五両君はまだバルコニーに立っていた。
窓越しに僕を見る目が、少しだけ怖かった。
五両君の目が、授業中も僕を見ているような気がした。
教室にいると、なんだか落ち着かない。
放課後になり、平太に「九条院さんのクラスに行ってくる」と告げ、教室を出た。
平太は、またか、というような顔をしたが、うなずいた。
生徒たちでごった返している廊下に出て、ようやく僕は一息ついた。
階段に向かおうとしたら、九条院さんが下りてきた。
九条院さんは僕を見つけ、「やあ」と手を挙げた。
僕は彼の顔を見上げた。
今は記憶が戻っているのだろうか?
表情をうかがったが、全然わからない。
「九条院さん、今は記憶は?」
訊いてみても、九条院さんは不思議そうに首を傾げるだけだ。
記憶喪失のままのようだ。
僕は質問を変えた。
「九条院さん、今日はもうお帰りですか?」
「うん、桐松院さんと証券取引所に行く予定があるんだ」
「お急ぎですか?」
九条院さんは腕時計を見てから、「ああ、悪いね」と言った。
昨晩の電話のことを訊こうかと思ったが、前みたいに忘れてるだろう。
「じゃあ、また今度」と頭を下げた。
九条院さんも「じゃあ」と歩きかけて立ち止まり、制服のポケットから何かを出した。
「これを日比野さんに返しておくよ」
差し出される大きな掌の上にあったのは、口紅だった。
僕は少し逡巡し、
「いえ、まだ持っていてください。僕には必要ありませんから」と言った。
「ええっ、男の僕こそ必要ないんだけど」
「じゃあ、それを見て僕のことでも思い出してください」
「それ、どういう意味?」
「いいですから。九条院さんが持っていてください」
僕は九条院さんの手を押し戻した。
九条院さんは不承不承の顔で、口紅をまたポケットに入れた。
昨晩の電話で、九条院さんは口紅を眺めていたら、記憶が戻ったと言ってたし。
僕の住所をもう一度思い出してもらうには、彼が持っていたほうが良いと思うのだ。
「じゃあ、僕は行くけど」
九条院さんはどこか割り切れない表情でそう言い、階段を下りていった。
自分の教室に戻ろうと振り向いたら、すぐ後ろに五両君がいたのでびっくりした。
五両君は階段のほうを見て、僕に訊いた。
「今の人、日比野さんの知り合いですか?」
「うん、そうだよ」
「そうなんですか。日比野さんとはどういった関係ですか?」
「知り合ってから、まだ大して経ってないんだけど。実は彼も記憶喪失なんだ」
「えっ、本当に?」
五両君が目を丸くした。
彼が驚くのも無理はない。
自分も含めて身近に三人も記憶喪失の人間がいるのだから。
「今度紹介しようか? お互い記憶のない同士だし、何か情報が交換できるかも」
「ええ、お願いします。……それにしても、滅茶苦茶格好いい人ですね。あんな人がこの学校にいるなんて」
九条院さんは五両君にひどく気に入られたようだ。
「それでさあ」
僕は五両君を踊り場の壁に押しやり、
「僕と五両君が恋人だったなら、僕の住所はもちろん知ってるよね?」と小声で囁く。
五両君はうつむき、少し考えてから、
「ええ。番地などは思い出せませんが、近所に行けばわかると思います」と答えた。
「本当に!」
思わず大きな声を出してしまい、周囲を見回した。
幸い、僕らを気にしてるような生徒はいなかった。
「はい。良ければこれから案内しますよ」
この五両君の提案は魅力的だった。
肩が痛むから、今日は店の手伝いは休みになっている。
家に帰って、することもないし……。
この機に僕の住所がわかってしまえば、悩みも一気に解消だ。
問題は平太に何て言うかだ……。
「どうします?」と急かすように五両君が訊いてくる。
僕は迷った挙げ句、「行くよ」と答えた。
「五両君さ、平太の目を盗んで僕の鞄を取ってきてくれないかな? 僕は昇降口で待ってるから」
「わかりました」
五両君はすぐに返事をし、教室へ向かった。
僕は階段を下り、昇降口へと急いだ。
九条院さんが記憶を取り戻すのを待つまでもなかった。
思いがけない展開に、僕の顔はついついほころんだ。
しばらくして、五両君が下りてきた。
「平太さんはいませんでした」
僕の鞄を差し出す五両君。
「ありがとう」と僕はそれを受け取る。
「日比野さん。じゃあ、行きましょう」
五両君は歩き始めた。
◇◆◇
五両君は正門を出ると、僕の通学路とは反対のほうへ曲がった。
確か、その先は細くて急な坂道に繋がっているはずだ。
「そっちでいいの?」
早足になってきた五両君の後を追いながら、僕は訊いた。
「こっちでいいです。日比野さんの家へ行くには、こっちのほうが近道です」
五両君はためらう様子もなく進んでいく。
学校のフェンスが消え、瀟洒な住宅が並ぶ通りを何本か横切ると、視界が開けた。
「いい眺めですよ」
五両君は立ち止まり、眼下に広がる街並を見下ろしている。
僕も五両君の横に立ち、その景色を眺めた。
街はビルと住宅が入り混じり、雑然としている。
見晴らしは良いけど、さほどいい眺めとは思えない。
僕が黙っていると、
「じゃあ、下ります。坂が急なので気をつけて」
五両君が横から、僕の手を取ろうとした。
「このくらいの坂、大丈夫だよ」と慌てて彼の手を避けた。
五両君には悪いが、彼だけでなく男子とはあまり手を繋ぎたくないのだ。
坂は急だが、自動車用の滑り止めらしき丸い窪みがたくさんあった。
子どもか雨の日でもない限り、この程度の坂は別に危険でもないだろう。
五両君は少し後ろから、僕の様子をうかがいつつ、坂を下りている。
子どもじゃないんだから、こんな坂で転ばないって。
僕は振り向き、五両君に話しかけようとした。
「ところで、僕の──、うわあっ!」
砂利に足を取られ、僕は尻もちをついた。
五両君が駆け寄り、「だから、気をつけてと言ったでしょ。コンクリの上に砂利があるから、滑りやすいんですよ」と僕を抱え起こす。
お尻が痛んだが、右肩は無事でほっとした。
立ち上がって、今し方の質問を繰り返した。
「ところで、僕の家って本当にこっちでいいの?」
「ええ。こっちです。電車に乗っても良かったんですが、俺、持ち合わせがないんで」
「それなら、僕も同じだよ。無駄遣いできないし」
五両君は施設住まいだが、僕も居候という身分で同じようなものだ。
出会い方が酷かったから警戒していたが、もっと仲良くしよう、と思った。
「五両君は昔のことで憶えていることがあっていいね」
「でも、俺の憶えているのは日比野さんのことくらいですから」
五両君は照れ笑いをした。
童顔の彼は笑うと、ちょっと可愛い。
太々しい笑顔の九条院さんとは大違いだ。
その九条院さんも記憶が戻ることがあるみたいだし、どうして僕だけ全く記憶が戻らないのだろう?
僕は少し心配になってきた。
坂を下りきって、街に入った途端、五両君の態度が一変した。
歩くのが異様に速くなり、僕はほとんど小走りだ。
落ち着きもなく、度々後ろを振り向いている。
「次の角を曲がったら、走りますよ」
五両君が僕に顔を寄せ、囁いた。
「どうして?」
「いいから、俺と一緒に走って」
腕を引かれ、道を曲がり、僕は彼の言うがままに走った。
「次の角を曲がって!」
僕らは飛びこむように、道を折れ、マンションの植え込みに身を隠した。
「どうして、こんな所に隠れるの?」
僕が訊くと、五両君は唇に人差し指を当てた。
なんだかわからないが、僕は彼の指示どおりに黙った。
植え込みの陰にうずくまったまま、五分ほど過ぎ、やっと五両君は口を開いた。
「日比野さん。俺たち、尾けられてるようです」
意外な言葉に、僕は息を飲んだ。
もしかすると……。
僕の命を狙っている男……?
「ねえ、五両君。僕たちを尾けてるのは、どんな人?」
「男です。サングラスをしてます」
僕の頭に、長瀬さんの顔が浮かんだ。
法律事務所なら学校からほど近い。
下校時に張りこんでいれば、僕を見つけるのも難しくないだろう。
「どうしよう?」
怖くなった僕は、五両君をじっと見た。
「とりあえず人の多い、駅前に行きましょう。俺からとにかく離れないで」
童顔の五両君がどこか頼もしく見えた。
五両君は首を伸ばし、周囲を確認してから、僕を呼んだ。
「大丈夫です。急ぎましょう」
五両君は手を差し出す。僕は迷わずその手を握った。
そして、はっとした。
この手の感触──。
五両君は僕の手を引き、早足で駅へと向かう。
緊張で少し汗ばむ手で、彼の手を握りしめ、僕は思った。
僕はこの手を知っている──。
やっぱり、僕と五両君は……、恋人だった?




