揺れ動く記憶
お店に戻ったところ、外でさぼっていたことを凪沙さんに早速叱られた。
その上、右肩が痛むのを隠して仕事をしていたら、食器をいくつか割ってしまい、また戦力外通知を受け退場になってしまった。
そんな訳で、僕は仁科家のマンションに先に帰ってきた。
僕のボディガード役である平太も一緒だ。
平太は思いがけず早く帰れたので、ご機嫌だ。
僕はといえば、死にかけるは、怒られるはで散々な気分だ。
ひとり部屋にこもり、静かに落ちこんでいた。
風呂場から平太の調子っぱずれの鼻歌が聞こえてくる。
その陽気な響きが、僕の心を少しだけ軽くしてくれた。
宿題もする気になれず、ぼうっとしていたら電話が鳴った。
平太はまだお風呂のようなので、僕はキッチンに行き、受話器を取った。
「仁科さんのお宅でしょうか?」
聞き覚えのある声だ。
しかも、ちょっと前に聞いたばかりの声。
「もしもし、九条院さん?」
「そうだけど、仕事はもう終わったの?」
「肩が痛むので、帰ってきました」
「そうなの? 大丈夫?」
「まあ、数日前くらいの具合に戻っただけです」
「留守電にでも入れておこうと思ったんだけど……」
九条院さんのしゃべってる感じは、夕方のまんまだった。
つまり、いつもの九条院さんとはちょっと違う。
「何をですか?」
「ふふふ。ゴールデンウィークがわかったのよ」
笑い方が奇妙だった。強いていえば、オカマっぽい。
まあ、それは今はいいや。
「で、何だったんですか?」
「あのね、家の者に聞いたところ、どうやら四月下旬から五月上旬の連休のことを、そう呼ぶらしいの」
「連休?」
「そう。お休みがたくさんあるからゴールデンウィーク」
「なんだ、そんなことだったんですか」
「私たちが知らないのも当然よね。そんなもの、とっくに廃止になってたもの」
「廃止って? 言ってることがよくわからないんですけど」
「だから、私たちがいた時代にはもう無くなってたのよ」
僕は受話器を少し離し、考えた。
記憶喪失になる前には無かった、ならわかるんだけど……。
「もしもし」と何度も受話器から九条院さんの声が漏れ聞こえるので、また受話器を耳にした。
「香、私の言ってることわかった?」
「いえ、全然わかりません」
僕はきっぱり断言した。
「もう、香、あなた。理解力ゼロなんじゃないの?」
しゃべり方も変だが、僕のことを「香」って呼び捨てにするし、妙に馴れ馴れしい。
九条院さんは、運転手に顔を殴られて、ちょっと頭が変になっちゃったんじゃないだろうか?
「九条院さん? 頭とか痛くないですか?」
「ああ、ちょっと痛むわね。どうも記憶が戻ると偏頭痛がするの」
「えっ! 記憶が戻ったんですか?」
僕は九条院さんの言葉に驚いた。
「ええ。けど、あまり長くもたないみたいなの。この間もあなたから預かった口紅を眺めていたら、無意識に少しだけ戻ったみたいだけど」
「それで、九条院さんと僕は記憶喪失になる前から知り合いなんですか?」
「香がそんなことも忘れてるなんて、なんだか悲しくなっちゃうわね」
「じゃあ、知り合いだったんだ……」
九条院さんは少し間をおいて、
「ええ、そうよ」とはっきり答えた。
「じゃあ、九条院さんは僕の本当の名前を知ってるんですか?」
「もちろん。あなたは日々之郁よ」
僕の名前は、やっぱり日比野香──。
間違ってなかったのか。
九条院さんに訊きたいことが、次から次へと頭に浮かんでくる。
それを整理するのがやっとだ。
「九条院さんは僕の住所はご存じですか? 僕、戸籍を見つけたいんです」
「あなたの住所は品川区だけど、戸籍は見つからないわ」
戸籍が見つからない?
住所がわかれば、見つけるのは簡単なのに……。
ああ、でも、良く考えると、住所がわかれば、家に帰れば済むだけだった。
それにしても、九条院さんは何を言ってるんだ?
「どうして、僕の戸籍は見つからないんですか?」
「それは、私たちがこの時代の人間じゃないからよ」
「僕たちが、この時代の人間じゃない?」
「そう。私たちは……」
九条院さんの声が途切れた。
「もしもし、九条院さん?」
受話器に呼びかける僕。
だが、九条院さんは答えない。
何度も呼びかけ、やっと九条院さんは話し始めたが、様子が変だ。
「……香。頭痛がひどくて……、また記憶を……」
苦しそうに話す九条院さん。
「あなたと……、早く……、戻して……」
そこまで言ったところで、通話が切れてしまった。
受話器から聞こえてくるのは、鳴り続ける発信音のみ。
受話器を置き、しばらく待ってみたが、電話は鳴らなかった。
こっちからかけてみようか、と思ったが連絡先を聞いていない。
それに、九条院さん、ひどく苦しそうだったし……。
電話の前に突っ立っていたら、風呂から出た平太にはち合わせた。
平太は裸で腰にタオルを巻いただけだった。
僕がじろじろ見てたら、
「着替えを忘れちゃってさ……」と照れくさそうに平太。
「いいから、そんな物見たくないし、早くあっち行って」
考え事をしていた僕は、平太を追い払った。
「それより、電話、誰からだった?」
濡れた髪から湯気を立ち上らせ、平太が訊いてくる。
「九条院さんだよ」
「なんだ、やっぱ、仲がいいな。お前たち」
ちょっと鬱陶しい平太を、僕は今度は足で追い払う。
「いいから、あっちで早く着替えろよー」
平太は「はいはい」と面倒くさそうに言いながら、ゆっくりキッチンを出ていった。
今は電話で聞いたことを整理して考えたい気分だ。
キッチンにいると、また平太から絡まれそうなので、僕は部屋に戻った。




