二度目の事故
思わず僕は目を閉じた。
衝撃を覚悟した刹那──。
襟元をもの凄い力で引かれた。
道路の側溝に転がる僕。
眼前にはトラックの車輪。
鼻をつくゴムの焼ける臭い。
一瞬、どうなったのかわからなかった。
「大丈夫?」
僕の耳もとで声がした。
それになんだか、体が重い。
誰かが僕の上に覆い被さっているようだ。
「誰?」
道路側に向いた顔を回そうとしたら、
「あっ、ゴメン」と声がして、体が軽くなった。
倒れたまま、その人を見上げた。
九条院さんだった。
九条院さんは僕に手を差し出し、起こそうとしてくれた。
その体が横へ飛んだ。
「あぶねえだろうが! ふざけんじゃねえ!」
通りに大きな声が響く。
びっくりして見ると、作業衣を着た大きな男が、九条院さんに掴みかかっている。
トラックの運転手だ。
止めなきゃと思い、慌てて起き上がる。
右肩が痛んだ。また、ぶつけたようだ。
九条院さんは無抵抗で男のなすがままに、揺すられている。
僕は男の太い腰にすがりついた。
「なんだ!?」
女の僕が腕ずくで止めに入り、男の勢いが削げた。
男は九条院さんの胸ぐらを掴んだまま、しばらく顔を睨んだ後、彼を解放した。
冷静になり、周囲を見回すと、会計事務所の人や、通行人がこっちに注目している。
男はバツが悪そうに、
「二度とふざけた真似するんじゃねえぞ」と捨て台詞を残し、トラックに戻っていった。
僕らを威嚇するようなアイドリングをしてから、トラックは去っていった。
表に出ていた会計事務所の人は中に戻り、通行人も何事もなかったように、また歩き始めた。
すかさず、僕は通りの向こうを見た。
案の定、仁科家の人たちもこっちを見ていた。
まずい! と思った僕は九条院さんの手を引き、木の陰に隠れた。
そこで改めて九条院さんの顔を見たら、頬骨の辺りが腫れていた。
運転手に殴られたようだ。
「ごめんなさい! あの男に殴られたんでしょ?」
申し訳なくて、僕は謝る。
九条院さんは僕を見下ろし、笑った。
「この体、結構丈夫みたいなのよ」
なのよ……?
九条院さんは殴られたせいか、ちょっと混乱しているようだ。
しゃべり方が変だ。
「それより、香は大丈夫?」
そう訊かれ、僕は自分の体を確かめた。
膝を擦りむいているようだが、スカートで隠れる場所だ。
あとは右肩の痛みがぶり返したくらいか?
僕は服に付いた砂埃を払いながら、
「はい、お陰様で大丈夫みたいです」と答えた。
「そう、良かったわ」
僕を見つめて、うなずく九条院さん。
やっぱり、しゃべり方が変だ。
心配になった僕は訊いてみる。
「しゃべり方が変ですよ。九条院さん。頭とかぶつけてないですか?」
「大丈夫だったら。でも、香はそのままなのね……」と苦笑いする九条院さん。
「そのまま……?」
「まあ、いいわ。じきに治るでしょう」
じきに治るって?
もしかしたら、九条院さんは記憶が戻ったのかな?
僕が訊ねようとしたところ、後ろから声がした。
「おい、香。お前、店ほったらかしにして何やってんだよ。こんな所で?」
声でわかったが、振り向いたらやっぱり平太だった。
「いや、これは……」
返答に窮する僕に、九条院さんが、
「日比野さんを見かけたから、通りを急いで渡ろうとしたら、トラックにぶつかりかけて死にそうになったよ」と助け船を出してくれた。
あの騒ぎまで揉み消してもらって、本当に申し訳ない、と思った。
「ああ、さっきの騒動はそのせいだったんですね」と平太は唇を突き出し小さくうなずく。
「俺はまた、香が車に轢かれでもしたかと……」
実はそうなりかけたんだけどね……。
僕は笑うに笑えない気分だった。
「九条院さんもご存じのように、この間の件もあるし、こいつを外で一人にしとくのは心配なんですよ」
その言葉に、九条院さんは平太を黙って見返した。
それから、九条院さんは平太に近づき、やおら手を取った。
「何をするんですか! 九条院さん!」
男に手を突然握られたせいか、平太が素っ頓狂な声を上げた。
しかし、九条院さんはその手を離さない。
平太の目を見つめ、
「ありがとう。香のことを大事にしてくれて」と彼の手を揺すぶった。
「ああ、はい」
平太はちょっと迷惑そうにそれに答えた。
「じゃあ、僕はそろそろ帰るね。日比野さんには夜にでも電話をするよ」
平太の手を離し、去る九条院さんに、僕は頭を下げた。
平太は彼と僕を交互に見て、
「お前ら、仲良さそうだな」とぼやいた。
考えてみると、学校では喧嘩別れをしちゃったけど、もうそれも随分昔のことのような気がする。
平太との喧嘩も、もうどうでもいいや。
それより──。
歩道橋の事故に続き、僕はまたしても危険に遭遇してしまった。
僕の背中に何かがぶつかったのは、故意なのか偶然なのか──?
通りをぐるりと見回す。
だが、そこにはいつもと変わらない風景があるだけだった。
僕は雑居ビルの三階を見上げた。
法律事務所には既に明かりが灯っていた。
まだ、仕事をしているのだろうか?
長瀬という男。
やはり、彼を用心したほうがいいのだろうか?
でも、いくらなんでも、自分の事務所の真ん前で……。
一度消えかけていた疑念が、また僕の心にくすぶりつつあった。




