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九条院家の存亡(旧バージョン)  作者: 天川一三
2011年前編
42/107

二度目の事故

 思わず僕は目を閉じた。

 衝撃を覚悟した刹那──。

 襟元をもの凄い力で引かれた。

 道路の側溝に転がる僕。


 眼前にはトラックの車輪。

 鼻をつくゴムの焼ける臭い。

 一瞬、どうなったのかわからなかった。


「大丈夫?」

 僕の耳もとで声がした。

 それになんだか、体が重い。

 誰かが僕の上に覆い被さっているようだ。


「誰?」

 道路側に向いた顔を回そうとしたら、

「あっ、ゴメン」と声がして、体が軽くなった。

 倒れたまま、その人を見上げた。

 九条院さんだった。

 九条院さんは僕に手を差し出し、起こそうとしてくれた。

 その体が横へ飛んだ。


「あぶねえだろうが! ふざけんじゃねえ!」

 通りに大きな声が響く。

 びっくりして見ると、作業衣を着た大きな男が、九条院さんに掴みかかっている。

 トラックの運転手だ。

 止めなきゃと思い、慌てて起き上がる。

 右肩が痛んだ。また、ぶつけたようだ。


 九条院さんは無抵抗で男のなすがままに、揺すられている。

 僕は男の太い腰にすがりついた。

「なんだ!?」

 女の僕が腕ずくで止めに入り、男の勢いが削げた。

 男は九条院さんの胸ぐらを掴んだまま、しばらく顔を睨んだ後、彼を解放した。

 冷静になり、周囲を見回すと、会計事務所の人や、通行人がこっちに注目している。

 男はバツが悪そうに、

「二度とふざけた真似するんじゃねえぞ」と捨て台詞を残し、トラックに戻っていった。

 僕らを威嚇するようなアイドリングをしてから、トラックは去っていった。


 表に出ていた会計事務所の人は中に戻り、通行人も何事もなかったように、また歩き始めた。

 すかさず、僕は通りの向こうを見た。

 案の定、仁科家の人たちもこっちを見ていた。

 まずい! と思った僕は九条院さんの手を引き、木の陰に隠れた。

 そこで改めて九条院さんの顔を見たら、頬骨の辺りが腫れていた。

 運転手に殴られたようだ。


「ごめんなさい! あの男に殴られたんでしょ?」

 申し訳なくて、僕は謝る。

 九条院さんは僕を見下ろし、笑った。

「この体、結構丈夫みたいなのよ」


 なのよ……?


 九条院さんは殴られたせいか、ちょっと混乱しているようだ。

 しゃべり方が変だ。


「それより、香は大丈夫?」

 そう訊かれ、僕は自分の体を確かめた。

 膝を擦りむいているようだが、スカートで隠れる場所だ。

 あとは右肩の痛みがぶり返したくらいか?

 僕は服に付いた砂埃を払いながら、

「はい、お陰様で大丈夫みたいです」と答えた。

「そう、良かったわ」

 僕を見つめて、うなずく九条院さん。

 やっぱり、しゃべり方が変だ。

 心配になった僕は訊いてみる。


「しゃべり方が変ですよ。九条院さん。頭とかぶつけてないですか?」

「大丈夫だったら。でも、香はそのままなのね……」と苦笑いする九条院さん。

「そのまま……?」

「まあ、いいわ。じきに治るでしょう」

 じきに治るって?

 もしかしたら、九条院さんは記憶が戻ったのかな?

 僕が訊ねようとしたところ、後ろから声がした。


「おい、香。お前、店ほったらかしにして何やってんだよ。こんな所で?」

 声でわかったが、振り向いたらやっぱり平太だった。

「いや、これは……」

 返答に窮する僕に、九条院さんが、

「日比野さんを見かけたから、通りを急いで渡ろうとしたら、トラックにぶつかりかけて死にそうになったよ」と助け船を出してくれた。

 あの騒ぎまで揉み消してもらって、本当に申し訳ない、と思った。


「ああ、さっきの騒動はそのせいだったんですね」と平太は唇を突き出し小さくうなずく。

「俺はまた、香が車に轢かれでもしたかと……」

 実はそうなりかけたんだけどね……。

 僕は笑うに笑えない気分だった。


「九条院さんもご存じのように、この間の件もあるし、こいつを外で一人にしとくのは心配なんですよ」

 その言葉に、九条院さんは平太を黙って見返した。

 それから、九条院さんは平太に近づき、やおら手を取った。

「何をするんですか! 九条院さん!」

 男に手を突然握られたせいか、平太が素っ頓狂な声を上げた。

 しかし、九条院さんはその手を離さない。

 平太の目を見つめ、

「ありがとう。香のことを大事にしてくれて」と彼の手を揺すぶった。

「ああ、はい」

 平太はちょっと迷惑そうにそれに答えた。


「じゃあ、僕はそろそろ帰るね。日比野さんには夜にでも電話をするよ」

 平太の手を離し、去る九条院さんに、僕は頭を下げた。

 平太は彼と僕を交互に見て、

「お前ら、仲良さそうだな」とぼやいた。


 考えてみると、学校では喧嘩別れをしちゃったけど、もうそれも随分昔のことのような気がする。

 平太との喧嘩も、もうどうでもいいや。

 それより──。

 歩道橋の事故に続き、僕はまたしても危険に遭遇してしまった。

 僕の背中に何かがぶつかったのは、故意なのか偶然なのか──?


 通りをぐるりと見回す。

 だが、そこにはいつもと変わらない風景があるだけだった。


 僕は雑居ビルの三階を見上げた。

 法律事務所には既に明かりが灯っていた。

 まだ、仕事をしているのだろうか?


 長瀬という男。


 やはり、彼を用心したほうがいいのだろうか?

 でも、いくらなんでも、自分の事務所の真ん前で……。

 一度消えかけていた疑念が、また僕の心にくすぶりつつあった。


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