香の相談事
緊張に耐えられず、僕は思わず前髪をいじった。
男はしばらく、そのまま僕を見据えていた。
皺を従えた男の目。
その目が、秘かに何かを探っているような気がした。
いたたまれず、僕は思わず「へへっ」と愛想笑いをした。
男はようやく口を開き、笑った。
笑うと、とても人の良さそうなおじさんに見える。
悪いことなんかしなさそうに見えるけど……。
ドアの所に立っていた男が歩いてきて、ソファーに腰かけた。
「これはこれは、向かいの喫茶店のお嬢さんじゃないですか。今日はどういったご用件でしょう?」
ローテーブルを挟んで男と向かい合い、僕は男をもう一度見た。
男は浅い笑みを浮かべ、僕を見ている。
腕には普通の腕時計。
あの装置ではない。
普通といっても、とても高級そうだけど。
スーツも真新しく、仕立ても良さそうだ。
僕はおずおずと切り出す。
「あのう、先ずはお名前を……」
「そういえば、この間はお互い名前を交換していなかったですね」
営業スマイルに、淀みのない丁寧な言葉。
普段からそういった言葉は使い慣れているようだ。
男が小さく頭を下げる。
「私は、な……。長瀬と申します」
「長瀬さん……」
僕が復唱すると、長瀬さんは大きくひとつうなずいた。
「よろしければ、お嬢さんのお名前は?」
長瀬さんは身を少し乗り出した。
「ぼ、僕は、日比野です」
その答えに彼が何度か瞬きしたような気がした。
板に付いていた営業スマイルも消えている。
「ヒビノさんですか……?」
「ええ、そうですけど。何か?」
長瀬さんが訝しげな口調で訊いたので、そう答えると、
「いえ、なんでもありません」と両手を胸の前で軽く振った。
長瀬さんの様子がちょっと変なのも、もしかしたら僕の言葉使いのせいかもしれない。
女なのに「僕」だもんね。
あれ? この間会った時は「僕」って言わなかったっけ?
そんな事を思い巡らした。
長瀬さんの顔には既に営業スマイルが復活して、僕の言葉を待っているようだ。
お店のこともあるし、そろそろ本題に入らないと。
でも、その前に──。
「こういう所の相談料って高いんでしょうか?」
長瀬さんは少し考えてから答えた。
「相談の内容にもよりますけどね。まあ、ちょっとしたご相談ならサービスしておきますよ」
「サービスって?」
「無料で承るということで」
僕はほっとした。でも、僕の相談はちょっとしたことなのかな?
あとから、やっぱりお金がかかります、って言われても困るけど……。
まあ、その時はその時か、と少し開き直る僕。
「実は僕、記憶喪失で昔の記憶がないんです」
長瀬さんは驚くかな、と思い、そこで一度区切った。
顔を見ると、一応驚いたような表情をしたが、割と平静だった。
「それは、いつ頃からでしょう?」と長瀬さん。
「一年くらい前からです」
「何かと大変でしょうね。昔の記憶がないというのも。もしかしたら、お名前も覚えておられないのですか?」
「いえ、名前は多分、日比野で合ってるような気がするんです。字の方が正しいかはわかりませんが」
「どんな字でしょう?」
「日比谷のヒビに野原のノです」
「下のほうのお名前は?」
「香です。線香のコウです」
「日比野香さんね」
何故か、ここで何度も長瀬さんはうなずいた。
「それで、ご相談も記憶喪失絡みのことなのですね?」と長瀬さん。
「はい。実は僕、このまま記憶が戻らなかったらどうしようと悩んでいるんです。今は縁あって、あの喫茶店の家族のお世話になっているのですが、その先のこともありますし。戸籍もはっきりしない僕は社会保障も受けられませんし……」
長瀬さんは腕を組み、うなずきながら僕の話を神妙に聞いている。
彼が弁護士なら、このくらいの相談ならおそらく朝飯前だろう。
僕は話を続ける。
「それで、僕の記憶がもし戻らなかった場合、自分の戸籍を新しく得るにはどうしたらいいんでしょう?」
僕がしゃべり終えると、長瀬さんは天井を仰いだ。
頭の中で法律の条文でも思い出しているのだろうか?
僕は彼の言葉を待った。
しばらくしてから、長瀬さんは口を開いた。
「それはですね、就籍許可申立を家庭裁判所にしなければなりませんね」
「しゅうせき許可申立ですか?」
「そうです。あなたが日本人として戸籍を得たいという申し立てを家庭裁判所に申請するのです」
「それには何が必要なのですか?」
「住民票と日本国民であることを証明する書類、それと写真が必要だったかな?」
「日本国民であることを証明する書類ですか? 学生証でもいいんでしょうか?」
「いいかもしれませんが、あなたのような記憶喪失の場合は、裁判所もいささか難儀するかもしれませんね」
「でも、それさえ申請すれば戸籍をもらえるんですね」
「そうですよ」
なんだ、そんなことでいいんだ。
先が開けて、僕の心に少しだけ光明が射したような気がした。
僕の顔がほころんだのがわかったのか、
「ご安心されましたか?」と長瀬さんが微笑む。
「はい、来て良かったです!」
元気よく僕は答えた。
「お力になれて、良かったです」
目尻を下げる長瀬さん。
やっぱり、この人は僕を歩道橋から突き落とした人じゃなさそうだ。
優しそうな笑みを見て、僕は確信した。
「あのう、それで、今の僕の相談もちょっとした相談の部類になりますか?」
長瀬さんは鳩が豆鉄砲を食らったような顔を一瞬してから、優しく笑った。
「ご心配なさらなくてもよろしいですよ。お嬢さんのご相談は今回はサービスにしておきますから、お金はいただきません」
「ありがとうございます!」
僕は何度も頭を下げる。
ひとしきり、頭を下げた後、
「実はもう一つ質問があるのですが……」と言った途端、長瀬さんの笑いが止まった。
「えっ、何でしょう?」
ちょっと警戒したような長瀬さんの口調。
僕が身を乗り出すと、それにつられて長瀬さんもローテーブルの上で前屈みになった。
「ゴールデンウィークって何でしょう?」
顔が近くなったせいか、ついつい小声で囁いてしまった。
まあ、他愛もない簡単な質問だろう。
また、長瀬さんはすぐに笑い出すはずだ。
そう思って、彼の顔を見ると──。
「えっ、ゴールデンウィーク……、ですか?」
長瀬さんは眉根を寄せて、顔をしかめている。
首を捻って考え始める長瀬さん。
「もしかしたら、長瀬さんもご存じないのですか?」
長瀬さんは、「はい、聞いたことがありません」と目をしばたかせた。
これは……。
ゴールデンウィークって、もしかして平太の作り話……?
平太は、やはり僕のことをからかっていたのか。
僕はにわかに腹が立ってきた。
九条院さんのみならず、弁護士の長瀬さんまで知らないのは変だ。
「そのゴールデンウィークがどうしました?」
どこか心配そうな顔の長瀬さん。
「いえ、なんでもありません。僕も知らないので何かなと思っただけです」
慌てて手を振り、言い繕った。
「ゴールデンウィークねえ……」
長瀬さんはまだ首を捻っている。
変な質問をしちゃった──。
そう思った僕は、急いで立ち上がり、お礼を言う。
「じゃあ、お忙しいところ、どうもお手数をおかけしました。今日はそろそろ失礼します。本当にありがとうございました」
長瀬さんも立ち上がり、僕の前に立った。
「日比野さんは本当に記憶がないんですよね?」
さっきまでとは雰囲気が異なり、どこか低いトーンの長瀬さんの声。
「は……、はい。ありませんけど」と彼を見返す。
長瀬さんの顔からは表情が消えている。
背筋にぞくりと怖気が走った僕は、彼の横をすり抜けドアを開けた。
後ろから腕をつかまれそうな予感がしたが、何事もなかった。
ちょっと安心した僕は、窓際の机を指さし、
「ちょっと先ほど机の上の書類を見ちゃったんですけど、年を間違っているみたいですよ。2061年は変です」と教えてあげた。
無料で相談にのってもらえたお礼だ。
長瀬さんは振り向いて書類を見てから、僕に訊く。
「ああ、あれはお客さんの書類です。お気づきになったのはそれだけですか?」
「それだけですけど」
「本当に?」
「はい。九条院家が顧客だったらすごいな、とは思いましたけど」
「それはどうして?」
長瀬さんが一歩踏み寄った。
「だって、九条院銀行って大きいんでしょ? テレビでよくCMをやってますし……」
僕の答えに、長瀬さんは「ふっ」と息が漏れるような声を出し、含み笑いを始め、
「そうですね。確かに大きな銀行です」と呟く。
「じゃあ、僕、店に戻らないといけないので、失礼します」
「はい、さようなら。日比野さん」
長瀬さんは軽く会釈をして、ドアをぴしゃりと閉めた。
静かな通路にひとり立つ僕。
傾いた陽が窓をオレンジ色に染めている。
最後のほうは長瀬さんの様子がちょっと変だったけど──。
それはあの書類が部外秘だったから、僕が中を見てないか探りを入れただけかもしれない。
きっとそうだろう。
そう納得し、僕は階段を降りた。
郵便受けに立てかけた箒を持ち、店のほうを見ると──。
平太が店の周りをうろちょろしている。
いけない!
僕を捜しているようだ。
早く戻らないと!
僕は焦った。
こういう時に限って、車がひっきりなしに走ってくる。
歩道の縁石に乗り、たたらを踏み、タイミングを見計らう僕。
下から走ってくる宅配のトラック。
あのトラックが通り過ぎたら、渡ろう。
そう思った時、背中に何かがぶつかった。
僕はよろよろと通りに躍り出た。
慌てて前を向いた。
トラックの運転手が驚く顔が見えた。
逃げなきゃ!
そう思うが、足がすくみ動けない。
突き刺さるようなブレーキの音が、僕の耳をつんざいた。




