香、法律事務所に忍びこむ
昇降口に降りたら、平太が待っていた。
ポケットに手を突っこみ、下駄箱の脇に寄りかかっている。
「勝手にうろちょろするなよ」
ふて腐れ顔でちらりと僕を見る平太。
僕が無視して前を横切ろうとしたら、腕を引かれた。
「ゴールデンウィークくらいで怒るなよ」
僕は立ち止まる。
平太にしてみれば、確かにゴールデンウィークくらいなんだろうけど──。
僕にしたら、そんな当たり前の事すら、憶えていないのが悔しくて、もどかしい。
「教えるからさ」
平太が僕の腕を揺すぶる。
僕はスカートを翻し、平太に面と向かった。
「教えてくれなくていいよ。今はあまりしゃべりたくないんだ」
言い方がきつかったせいか、平太の顔がしおれた。
「わかった……。でも、店には一緒に行こう。母ちゃんに言われてるし……」
僕は黙ってうなずいた。
僕と平太は店に向かった。
平太は僕の少し後ろをゆっくりと歩いた。
後ろから聞こえる靴音がどこか淋しげだ。
考えてみると、九条院さんの嘘は露骨すぎて許せないが、平太との諍い事は他愛もないことすぎるかもしれない。
頃合いを見計らって、歩み寄ろう。
坂を下り、店が見え始めた頃、僕はそう決めた。
それより、あの法律事務所に一人で入りこむ手段を考えないと──。
僕はひとりうなずいた。
店に着き、仕事に入った。
そして、テラス席に出る度に、法律事務所の窓を見上げた。
今日は始終、事務所の窓は閉まっている。
あの男は今日はいないのだろうか?
給仕をしながら、あの事務所に僕が訪問する口実をなんとか考えついた。
あとは客が空いた頃に、こっそりと店を抜け出そう。
5時前になり、店のほうも手空きになってきた。
僕はテラスを掃除するふりをして外に出た。
店のほうをうかがい、誰も外を見ていないのを確認して一気に通りを渡った。
箒まで持ってきてしまったので、ビルの一階の郵便受けに立てかけた。
もう一度、通りの向こうの店を首を伸ばして見てみたが、特に変わりはない。
僕がいないのに気づいても、店の裏を掃除しているくらいに思うだろう。
僕は狭く薄暗い階段を見上げ、ゆっくりと上がっていった。
途中、右肩を回してみた。
もう、随分と良くなり、ちょっと痛むだけだった。
三階まで上がった。
廊下を見回したが、人影はなく凍り付いたように静かだ。
法律事務所のドアの前に立った。
磨りガラスから中の気配をうかがったが、誰もいないような気がする。
ドアノブを掴み、回すと、何の抵抗もなく動いた。
そろそろとドアを開けながら、頭だけ部屋に入れ「あのー」と小さく声をかけた。
正面の窓際の机には誰もいない。
部屋の左右も首を動かし確認したが、やはり誰もいなかった。
お出かけかな?
体を滑らせ、部屋に入りこみ、そっとドアを閉めた。
軽く深呼吸をして、もう一度部屋を見回した。
ドアの脇の本棚の上には、あのヘルメットがそのまま置かれていた。
近寄ってみたが、シグマが忘れていったヘルメットにどう見てもそっくりだ。
手に取り確かめてみたかったが、かなり高い場所にあり、右肩の事を考えると、諦めざるを得なかった。
踵を返し、窓際の机に向かった。
だが、あの腕時計は今日は見当たらなかった。
机の上には書類が一つあるだけだった。
その表紙を見て、僕は驚いた。
その書類のタイトルは、『九条院FG決算報告書』と書いてあったのだ。
あの男も九条院と関係あるのか?
それとも、顧客の書類なのか?
タイトルの下に目をやると、2061年度と書いてある。
これって誤植だよね。だって、今は2011年だもん。
企業の重要書類みたいだけど、こんな大きな間違いをしてもいいのかな、と僕は首を傾げた。
で、FGってなんだろう?
もちろん、フォーワード、ゴールじゃないよね。
Gは銀行のGかな?
そんな事を考えていたら、後ろでドアノブが音を立てた。
首筋から血の気がすっと引くのを感じた。
慌てて、机から離れ接待用のソファーに座った。
男は僕を見て、面食らった顔をしていた。
僕は立ち上がり、頭を下げた。
「あのう、ご相談があって来たんですけど、ドアが開いていたので勝手に入っちゃいました」
男はまだ黙って僕の顔をじっと見ている。
男の目を見つめ返したら、僕の喉がごくりと鳴った。
逃げ出すなら、今のうちかも。
心で警鐘が鳴り響いた。




