嘘をつく九条院さん
午後の休憩時間、教室から見上げる空。
真っ青なキャンバスに、綿毛のような白い雲が少し。
今日もいい天気だ。
昨晩、九条院さんは僕のお願いを快諾してくれたし、上手くいけば、あの法律事務所から僕の素性が解明できるかもしれない。
あの男が僕を歩道橋から突き落とした人物かもしれない、というリスクはあるが、今のところ、あの事故と男を結びつける物は何もない。
とにかく、僕は将来のためにも自分の素性を明らかにしなければならない。
今のままでは戸籍すらないので、社会保障も受けられない。
こうやって学校で勉強できているのも仁科家のお陰に他ならない。
まあ、僕は結婚はしないかもしれないけど、働いたり引っ越したりするには、身元や住所の証明が必要だ。
そのための突破口をなんとか自分で見つけないと──。
物思いにふける僕に、 隣の席から平太の声が届く。
「香、何ぼうっと考えてるんだ? 今度のゴールデンウィークのことか?」
「えっ! ゴールデンウィークって、何それ?」
「お前、そんなことも忘れちゃったのかよ。ゴールデンウィークと言ったら、ゴールデンウィークだろ」
平太があきれ顔で僕を見る。
そんな目で見られたって、知らないものは知らないし。
「だから、ゴールデンウィークって何? 教えてよ」
「マジなのか?」
平太の顔が近づき、僕の顔をのぞきこみ、
「マジなんだよな……?」と念を押した。
異星人でも見るような目の平太に、僕は何度もうなずく。
平太はぱしんと自分の膝を打ち、僕に向き直ったところでチャイムが鳴った。
次の授業の先生が早くも教室に入ってきた。
「じゃあ、後で教えるよ」と小声で囁く平太。
僕の頭の中では、はてなマークが乱れ飛んでいた。
ゴールデンウィークって何だろう?
おそらく、金の週ってことだよね。
お金に絡んでるのかな?
もしかしたら、お金をもらえるのかな?
ウィークってことだから、一週間だよね。
一週間、毎日、お金がもらえると確かに嬉しいよね。
そんな他愛もないことを考えていたら、先生に当てられた。
全然聞いてなかったので、もちろん答えられなかった。
しばらく、その場で立たされた僕を、また平太があきれ顔で見ていた。
ゴールデンウィークが気になってしょうがない僕は、授業が終わり、早速平太に訊ねた。
「やっぱ、放課後な」
軽くいなされた。
でも、平太の目が少し意地悪だ。
これは僕をからかううつもりだな、と思い、
「放課後は九条院さんに会いに行かないといけないから」と言い返した。
それを聞いた平太は、
「ちぇっ、また、九条院さんかよ。じゃあ、家に帰ってからだ」と顔を背けた。
僕が見てるのに、平太はもうこっちを向かない。
その態度に、僕もちょっと腹が立ってきたので、
「いいよ。九条院さんに訊くから」とそっぽを向いた。
放課後になり、平太と一緒にいる気がせず、一人で九条院さんの教室を訪れた。
扉からのぞくと、運良く九条院さんが気づいてくれた。
自分を指さす九条院さんに、僕はうなずいた。
「やあ、日比野さん。今日は何の用?」
笑顔で訊いてくる九条院さんの顔をなるべく見ないようにして──。
あれ?
今、「何の用」って九条院さん、僕に訊いたよね。
昨夜の電話のこと忘れちゃったのかな?
僕は九条院さんの顔を見上げた。
特に何の変哲もない、いつもの九条院さんだ。
ただ、ど忘れしただけだろう。
「昨晩、電話でお話しした件ですけど……」
僕の期待とは裏腹に、九条院さんは即答した。
「昨晩は日比野さんと電話なんかしてないよ、僕」
ええーっ!
僕は振りかぶるように、九条院さんから視線を逸らした。
彼に背中を向け、考える。
一晩寝たら、もう忘れちゃったのかな?
いくらなんでもそれは……。
だいいち、九条院さんから僕に電話してきたのに……。
あり得ないよ。
あまりにも、バカすぎる……。
そこまで考えて、僕は閃いた。
これは、おそらく……。
僕はまた九条院さんに向き直った。
「九条院さん、昨日の腕時計型の装置のこと、僕のいたずらだと思ってません?」
「あのこと? あれは日比野さんのいたずらでしょ?」
ほら、やっぱり。
頭の中でポンと手を打つ僕。
「あれはいたずらじゃないですよ。だから、意地悪してとぼけないでくださいよ。昨晩、九条院さんから僕に電話をくれたじゃないですか?」
九条院さんは少し困ったように、「ええっ」と声を上げ、
「本当にしてないから」と手を顔の前で振った。
「そんなあ。法律事務所に行ってみましょう、って言ったじゃないですか?」
「法律事務所? なんだかさっぱり話が見えないよ。日比野さん」
そう答える九条院さんの顔は、どう見ても真顔だ。
しかし、僕には彼が昨日のいたずらの仕返しをしているようにしか思えない。
だって、昨日の今日だよ。
昨日はポンポン答えを返してきてたのに、それを今さら知らないなんて……。
いい人だと思ってたのに……。
僕はもう一度だけ訊いてみる。
「本当に憶えてないんですね?」
「うん。間違いない」と断言する九条院さん。
がっかりした僕は、電話の件は諦め、話題を変えた。
「九条院さん、ゴールデンウィークって知ってます?」
九条院さんは大きく首を傾げた。
「今日の日比野さん、なんか変だよ。言ってることが全然わからない。ゴールデンウィーク……? 何それ?」
ここに至り、僕は確信した。
平太と同じで、九条院さんも僕に意地悪してる。
九条院さんの後ろ、また教室の女子たちの目が僕に集まっている。
智晶さんの忠告どおりだ。
長居は無用──。
「もう、いいです。僕、ちょっと九条院さんに失望しました。じゃあ、さようなら」
くるりと身を返し、教室を去る僕。
後ろから、僕を呼ぶ九条院さんの声がしたが無視した。
法律事務所には、やっぱり自分一人で行くことにしよう。
自分のことは自分で、だ。
階段を降りながら、そう決心した。
九条院さんとも、会わないようにしよう。
虚しいような悲しいような気持ちが、僕の心に広がっていった。




