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九条院家の存亡(旧バージョン)  作者: 天川一三
2011年前編
37/107

疑心暗鬼

 通りを渡る前にもう一度、向かいのビルの三階を見上げる。

 窓はまだ開いているが、それらしき男の姿は見えない。

 平太は既にビルの中に入ったようで姿は見えない。


 トラックが通り過ぎるのを待ち、通りを小走りで横切った。

 横切ったところで、もう一度ビルを見回した。

 ビルは四階建ての小さな雑居ビルで、築二十年以上は経っていそうだ。

 税務署が近いせいか、一階には会計事務所が数軒テナントを出している。

 階段はテナントの横に口を広げており、誰でも出入りできる。

 僕はそこにあった郵便受けを見てみた。

 三階には四部屋、入居者がいないのか、どこも名前が表示されていないし、鍵もかかっていない。


 とにかく、平太を追いかけないと。


 狭い階段を駆け上がった。僕の靴音が静かなビルに鳴り響いた。

 三階に着くと、振り分けで左右に通路が続いていた。

 右には一軒、左には三軒だ。

 奥行きのないビルで、通路の片側は全部窓だった。

 狭い通路の左を向くと、平太が通路をうろうろしていた。

 平太が僕を見つけた。


「こら、香は来るなって。危ないだろ」

「でも、平太ひとりじゃ心配だし。それより何してるの?」

 平太は頭を掻いた。

「いや、露骨に怪しいヤツがいるんだろうな、と思って、勇んで来たけど……。ここ事務所だろ。どうしたものかと思ってたんだ」

「でも、ここだよね」

 僕は磨りガラスの入ったドアを指さした。


「窓が開いてたのはここのはずだけど」

「出入り口は、この階段しかなさそうだし。誰か上に上がっていくような気配はした?」

「いいや、多分してない」

 平太は首を横に振った。

「じゃあ、先ずこの部屋を確かめないとだね」

「ああ、そうだな」

 平太がうなずく。


 僕がドアをノックしようとしたら、「お前は下がってろ」と平太が僕の前に割りこんだ。

 平太は咳払いを一つして、ドアをおもむろにノックした。

 返事はなく、人が動く気配も感じられない。

 平太は擦りガラス越しに中の様子をのぞきこんだ。

 だが、そこからは明るい外の日射しがモザイク模様にきらめくだけで、中の様子はうかがえない。

 平太がもう一度ノックしようとしたら、磨りガラスの光がかげった。


 ドアががちゃりと開き、一人の男が現れた。

「はい。うちに何かご用ですか?」

 落ち着いた口調で男が喋る。

 僕と平太は男の姿に注目した。

 年齢は四十後半か五十代だろうか?

 中肉中背で、白髪交じりの髪はオールバック。

 銀行員か公務員といった感じの風貌だ。

 男は柔和な目で僕らを見ている。


 僕は返す言葉が見つからず、「へへっ」と笑った。

 平太がすかさず僕をフォローする。

「向かいの喫茶店の者ですが、ちょっと宣伝に来ました」

 男は後ろの窓のほうをちょっと振り向いた。

「ああ、あの喫茶店の」と小さくうなずき、「チラシか何かあるんだったら受け取るけど」と手を伸ばした。

「いえ、あいにくチラシを切らしちゃったんで」と平太が頭を下げる。

「お店のほうをずっと見ていらしたので、興味があるのかな、と思って……」

 僕がおずおずと言うと、余計なことを言うなとばかりに平太が肘で小突く。


 男は僕を見た。どう見ても僕の知らない顔だ。

 まあ、記憶がないから、それはあてにならないことだけど。

「ああ、君はあの店の子だね。高校生くらいなのに良く働くなあ、とおじさんは感心して見てたんだよ」

 平太が唇を尖らせ、それに神妙にうなずく。

 ああ、そういうことだったのか、という顔つきだ。


「ところで、ここは何の事務所ですか?」

 僕は部屋をドアからのぞきこんだ。

「あ、ああ。法律事務所だよ。まだ開業準備中だから何もないけど」

「法律事務所ですか。弁護士さんなんだ。すごーい。ご近所のよしみで、中に入ってもいいですか?」

「お、おい、香……」

 急に図々しくなった僕に平太が戸惑っている。

「いいけど、何もないよ」

 そう言われた時には、僕は中に入っていた。


 部屋は十二畳くらい。

 がらがらの本棚とスチール机、それに応接セットのソファーとローテーブル。

 法律事務所だと言われれば、確かにそんな感じだ。法律事務所なんて、行ったことないけど。

 僕は部屋をぐるりと見回した。

 机の上には腕時計のようなものが置かれている。僕はそれに近づいた。

「おい、香。もういいだろ。何もないし」

 平太が袖を引く。

「君たち、もう、いいかな? そろそろお客さんが見える頃だし」

 男が手で僕を制した。

「あ、はい。ありがとうございました」

 僕は振り返り、一瞬足を止めた。

それから、「儲かるといいですね」」とお辞儀をして部屋を出た。

「ああ、ありがとう。せいぜい頑張るよ」

 男は笑い、バタンとドアを閉めた。


 平太を見ると、むすっとして階段の下を指さしている。

 とにかく降りろということだろうか。

 ちょっと態度が横柄だ。

 とりあえず、僕らは下へ降りた。


 一階に下りたとところで、平太が、

「怪しいヤツが香を見てるとか、誰が言ったんだよ?」と突っかかってきた。

「僕は、男が僕を見てるとしか、平太には言ってないよ」

「そうだったっけ? でも、お前のあの慌てようじゃ誰だって勘違いするぞ」

「別に勘違いじゃないよ。あの時はそう思ったんだ」

「まあ、いいか。ただの労働女学生を愛でるおじさんだったことがわかったし」

 平太はそう言い、通りを渡る。

「あっ! そういえば、凪沙さんが警察を呼ぶとか言ってたよ」

 それを聞き、平太が慌てた。

「あっ、母ちゃんのバカ! 止めないと」

 平太は猛スピードで走っていった。


 僕は通りを渡ったところの歩道で、もう一度あの窓を見上げた。

 窓は既に閉ざされ、夕方の低い陽の光を反射し白く輝いていた。

 僕はそれを見て、気を引き締める。


 霧原君の教えてくれたことは間違いじゃない。

 だって──。

 帰ろうとした時、僕が見た入り口脇の本棚の上。

 そこにあったのは、シグマが忘れていったヘルメットと同じ物だった。

 それに、僕を制した左手には腕時計が付けられていた。

 机の上に置いてあった腕時計は──。

 僕が今持っている装置に似ているような気がした。


 僕はズボンのポケットに手を入れ、装置の硬い感触を確かめた。

 平太は僕の持っているヘルメットのことは知らない。

 ただ、あのヘルメットが市販のありきたりの物だと、怪しくも何もないし……。

 けど……、あの男は何かを隠している……。

 僕はそんな気がした。


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