疑心暗鬼
通りを渡る前にもう一度、向かいのビルの三階を見上げる。
窓はまだ開いているが、それらしき男の姿は見えない。
平太は既にビルの中に入ったようで姿は見えない。
トラックが通り過ぎるのを待ち、通りを小走りで横切った。
横切ったところで、もう一度ビルを見回した。
ビルは四階建ての小さな雑居ビルで、築二十年以上は経っていそうだ。
税務署が近いせいか、一階には会計事務所が数軒テナントを出している。
階段はテナントの横に口を広げており、誰でも出入りできる。
僕はそこにあった郵便受けを見てみた。
三階には四部屋、入居者がいないのか、どこも名前が表示されていないし、鍵もかかっていない。
とにかく、平太を追いかけないと。
狭い階段を駆け上がった。僕の靴音が静かなビルに鳴り響いた。
三階に着くと、振り分けで左右に通路が続いていた。
右には一軒、左には三軒だ。
奥行きのないビルで、通路の片側は全部窓だった。
狭い通路の左を向くと、平太が通路をうろうろしていた。
平太が僕を見つけた。
「こら、香は来るなって。危ないだろ」
「でも、平太ひとりじゃ心配だし。それより何してるの?」
平太は頭を掻いた。
「いや、露骨に怪しいヤツがいるんだろうな、と思って、勇んで来たけど……。ここ事務所だろ。どうしたものかと思ってたんだ」
「でも、ここだよね」
僕は磨りガラスの入ったドアを指さした。
「窓が開いてたのはここのはずだけど」
「出入り口は、この階段しかなさそうだし。誰か上に上がっていくような気配はした?」
「いいや、多分してない」
平太は首を横に振った。
「じゃあ、先ずこの部屋を確かめないとだね」
「ああ、そうだな」
平太がうなずく。
僕がドアをノックしようとしたら、「お前は下がってろ」と平太が僕の前に割りこんだ。
平太は咳払いを一つして、ドアをおもむろにノックした。
返事はなく、人が動く気配も感じられない。
平太は擦りガラス越しに中の様子をのぞきこんだ。
だが、そこからは明るい外の日射しがモザイク模様にきらめくだけで、中の様子はうかがえない。
平太がもう一度ノックしようとしたら、磨りガラスの光が翳った。
ドアががちゃりと開き、一人の男が現れた。
「はい。うちに何かご用ですか?」
落ち着いた口調で男が喋る。
僕と平太は男の姿に注目した。
年齢は四十後半か五十代だろうか?
中肉中背で、白髪交じりの髪はオールバック。
銀行員か公務員といった感じの風貌だ。
男は柔和な目で僕らを見ている。
僕は返す言葉が見つからず、「へへっ」と笑った。
平太がすかさず僕をフォローする。
「向かいの喫茶店の者ですが、ちょっと宣伝に来ました」
男は後ろの窓のほうをちょっと振り向いた。
「ああ、あの喫茶店の」と小さくうなずき、「チラシか何かあるんだったら受け取るけど」と手を伸ばした。
「いえ、あいにくチラシを切らしちゃったんで」と平太が頭を下げる。
「お店のほうをずっと見ていらしたので、興味があるのかな、と思って……」
僕がおずおずと言うと、余計なことを言うなとばかりに平太が肘で小突く。
男は僕を見た。どう見ても僕の知らない顔だ。
まあ、記憶がないから、それはあてにならないことだけど。
「ああ、君はあの店の子だね。高校生くらいなのに良く働くなあ、とおじさんは感心して見てたんだよ」
平太が唇を尖らせ、それに神妙にうなずく。
ああ、そういうことだったのか、という顔つきだ。
「ところで、ここは何の事務所ですか?」
僕は部屋をドアからのぞきこんだ。
「あ、ああ。法律事務所だよ。まだ開業準備中だから何もないけど」
「法律事務所ですか。弁護士さんなんだ。すごーい。ご近所のよしみで、中に入ってもいいですか?」
「お、おい、香……」
急に図々しくなった僕に平太が戸惑っている。
「いいけど、何もないよ」
そう言われた時には、僕は中に入っていた。
部屋は十二畳くらい。
がらがらの本棚とスチール机、それに応接セットのソファーとローテーブル。
法律事務所だと言われれば、確かにそんな感じだ。法律事務所なんて、行ったことないけど。
僕は部屋をぐるりと見回した。
机の上には腕時計のようなものが置かれている。僕はそれに近づいた。
「おい、香。もういいだろ。何もないし」
平太が袖を引く。
「君たち、もう、いいかな? そろそろお客さんが見える頃だし」
男が手で僕を制した。
「あ、はい。ありがとうございました」
僕は振り返り、一瞬足を止めた。
それから、「儲かるといいですね」」とお辞儀をして部屋を出た。
「ああ、ありがとう。せいぜい頑張るよ」
男は笑い、バタンとドアを閉めた。
平太を見ると、むすっとして階段の下を指さしている。
とにかく降りろということだろうか。
ちょっと態度が横柄だ。
とりあえず、僕らは下へ降りた。
一階に下りたとところで、平太が、
「怪しいヤツが香を見てるとか、誰が言ったんだよ?」と突っかかってきた。
「僕は、男が僕を見てるとしか、平太には言ってないよ」
「そうだったっけ? でも、お前のあの慌てようじゃ誰だって勘違いするぞ」
「別に勘違いじゃないよ。あの時はそう思ったんだ」
「まあ、いいか。ただの労働女学生を愛でるおじさんだったことがわかったし」
平太はそう言い、通りを渡る。
「あっ! そういえば、凪沙さんが警察を呼ぶとか言ってたよ」
それを聞き、平太が慌てた。
「あっ、母ちゃんのバカ! 止めないと」
平太は猛スピードで走っていった。
僕は通りを渡ったところの歩道で、もう一度あの窓を見上げた。
窓は既に閉ざされ、夕方の低い陽の光を反射し白く輝いていた。
僕はそれを見て、気を引き締める。
霧原君の教えてくれたことは間違いじゃない。
だって──。
帰ろうとした時、僕が見た入り口脇の本棚の上。
そこにあったのは、シグマが忘れていったヘルメットと同じ物だった。
それに、僕を制した左手には腕時計が付けられていた。
机の上に置いてあった腕時計は──。
僕が今持っている装置に似ているような気がした。
僕はズボンのポケットに手を入れ、装置の硬い感触を確かめた。
平太は僕の持っているヘルメットのことは知らない。
ただ、あのヘルメットが市販のありきたりの物だと、怪しくも何もないし……。
けど……、あの男は何かを隠している……。
僕はそんな気がした。




