男の影
すさまじい突風が吹き、僕のスカートを舞い上げた。
「キャーッ!」
黄色い悲鳴が上がり、その時、幸い、平太は智晶さんのほうを向いていた。
智晶さんのスカートも舞い上がったので、彼はちょっと嬉しそうだ。
九条院さんの手の中、謎の装置はけたたましくビープ音を鳴らしている。
それを食い入るように見つめる九条院さん。
「日比野さん、これ何?」
「僕もわかりません!」
風が吹き荒れる。
シグマが来る!
そう直感した僕は、屋上の手すりに飛びつき、見下ろした。
「なんだか、赤いランプが光ってるし、数字が出てきてるんだけど! どうやったら止まるの?」
九条院さんは困り顔で、あれこれ装置をいじっている。
僕は学校に続く道を、首を回して注意深く観察した。
かなり速い乗り物で来るはずだから、見逃すことはないと思うけど。
空を見上げる。
あの時のように、雷が鳴りそうな雲行きでもない。
晴れていて、とてもいい天気だ。
やはり、あの時の雷は偶然だったのか──。
そう確信した。
「ねえ、僕を驚かそうとしておもちゃを渡したんでしょ? 日比野さん、うるさいから、止めてよ、これ」
後ろから九条院さんが嘆願するが、僕は無視して道の監視を続けた。
しかし、いくら見続けても、下界はいつもどおりの平凡な風景のままだった。
怪しい乗り物の姿など見当たらない。
諦めて振り向くと、九条院さんは、ぶんぶんと装置を振り回している。
「あっ、ランプが黄色くなった」
そう九条院さんが言った途端、ビープ音も間隔が長くなり……、やがて止まった。
「香ちゃん、九条院さんにどっきり仕掛けたの?」
智晶さんが茶化すように肘で僕を突いた。
「いや、そんなんじゃないです」
「やっと、止まったよ……」
九条院さんはやれやれ顔で、ため息をついた。
「香、その時計みたいなの何なんだよ?」
平太まで僕に訊いてきた。
「僕にもわからないよ。記憶がないんだし」
「まあ、何でもないんじゃない。うるさかったけど」
九条院さんが僕に装置を戻す。
僕は返された装置をあらためた。
メーターが三分の一ほど減っているが、ランプも付いてないし、元に戻ったようだ。
「もう、冗談は止めてよね」と九条院さんは苦笑いした。
「そういうつもりじゃないんですけど……」と僕は小さくなった。
「なんだか疲れたし、今日はお客さんが家に来るから、僕はもう帰るよ」
九条院さんが歩き出そうとするのを、袖を引いて、止めた。
「じゃあ、これは見覚えありませんか?」
ポケットから口紅を取り出し、彼に渡す。
男に口紅を渡しても、覚えなどあるはずはないけど、装置の件でかなり誤解されてしまったようだし……。
九条院さんの大きな掌の上で口紅が転がる。
「口紅……?」
きょとんとする九条院さん。
「僕、男だしなあ。こんなモノに見覚えがあるはずが……」と言いながらキャップを外した。
やっぱり何もないか。
まあ、最初からわかってたけど。
僕がそう思い、九条院さんを見ると──。
彼は口紅の先を一心不乱に見つめていた。
「何か思い出しました?」
僕が訊いても、返事もしない。
「九条院君、香ちゃんが、話しかけてるよ!」
智晶さんが九条院さんの背を叩いた。
「あっ……」と声を漏らし、やっと彼は僕のほうを見た。
「で、それを見て、何か思い出しました?」
「い、いや」と九条院さんは首を振った。
やっぱりな、と僕は口紅を返してもらおうと手を出した。
だが、九条院さんは手に持ったまま返してくれず、
「これ、借りてもいいかな? 今は何も思い出せないけど、なんだか気になるんだ」と言った。
「いいですよ。どうせ、僕は使いませんから」
「ありがとう……」
九条院さんが微笑み、口紅のキャップを閉め、制服の内ポケットに大事そうにしまった。
「香、話は終わり?」と平太。
「うん、終わりだよ」
「じゃあ、店の手伝いに行こうぜ」
それを聞いて、智晶さんがそわそわし始める。
「僕も香ちゃんのお店に行こっかな〜」
「いいですよ。おごりませんけど」
「じゃあ、カバン取ってくる!」
智晶さんは飛ぶように昇降口に駆けこんだ。
「僕も帰るよ。またね」
九条院さんは先ほどの騒動で疲れたのか。元気がない。
「どうも、ありがとうございました」
お礼を言って、僕は彼を見送った。
結局、何もわからなかったか……。
僕はもう一度、手すりから下を眺めた。
下校する生徒が三々五々、正門から出て行くのが見えた。
シグマが来そうな気配は全くない。
調子のいいあいつは一体、何者だったんだ……?
そもそも、あの時の出来事は何だったんだろう……?
僕はひとり首をひねった。
学校を出て、平太、智晶さんと三人で店に向かった。
智晶さんは平太に、「君って、香ちゃんの彼氏じゃないよね?」とまた訊いていた。
よほど気になるらしい。
すらりとした智晶さんと、体格ががっしりとした平太。
後ろから二人を見ていると、背丈もちょうど釣り合ってお似合いのカップルに見えるのにな、と僕は思った。
坂を下り、喫茶店に着いた。
テラスには既に読書少年の霧原君がいた。
昨日は僕の失態でモカを飲み損ねたから、また来たのだろう。
いつもの席でカップ片手に本を読んでいる。
智晶さんが僕の視線に目敏く気づく。
「あっ、学食で本読んでた男子だ。あいつもここに来るんだ」
「はい、結構来ますよ」
「まさか、あいつも香ちゃんを狙ってるんじゃ? これは確かめないと──」
そう言い捨て、智晶さんは霧原君の隣のテーブルに陣取った。
智晶さんはちらちらと霧原君の様子をうかがっている。
けど、どう見てもばればれだ。
智晶さんは探偵にはなれそうにないな、と思った。
まあ、それは置いておいて、とにかく着替えて、手伝わなきゃ。
僕は平太と店に入った。
智晶さんは僕がオーダーを取りに行くと、じっくり時間をかけてメニューを選んだ。
僕を見るなり、モカと即答する霧原君とは大違いだ。
お店に戻ろうとしたら、名残惜しそうな目で僕を見る。
「仕事ですから」と僕がさとす。
「仕方ないけど、淋しいなあ……」
未練たっぷりの智晶さんを残し、僕は店に戻った。
レモンティーにクラブサンド──。
智晶さんのオーダーが揃った。
平太にこれを持って行かせたら、智晶さんはどんな顔するかな、と意地悪心が頭を持ち上げたが、可愛そうなので止めた。
それより、昨日みたいにひっくり返さないようにしないと。
智晶さんに無事給仕が終わり、また戻ろうとしたら、呼び止められた。
「ねえねえ、香ちゃん。あいつ、やっぱり香ちゃんのこと見てるよ」
智晶さんはちらりと霧原君のほうを見た。
「まさか。彼は本以外は興味ないみたいですよ」
「でもね、本当なんだ。あっちと香ちゃんのほうをずっと交互に見てるんだ」
テーブルの下でこっそりと智晶さんが指さしたのは、通りの向かいのビルだった。
「どうして、あのビルなんか見てるんだろ?」
「さあ、僕にはわからないけど」
智晶さんは手を広げた。
僕は向かいのビルをもう一度見た。
何の変哲もない四階建ての雑居ビルだ。
「しかし、あいつも香ちゃんに気があるようだったら、僕は許せないな」
智晶さんはそう言い、クラブサンドにがぶりとかぶりついた。
なんだか気になり始めた僕は、昨日のお詫びも兼ねて、霧原君の席に向かった。
「あのう、昨日はすみませんでした。それとあの本、ありがとうございました」
「別に気にしてないから」
僕に一瞥もくれず、霧原君は本を読んでいる。
「本はもう少し貸しておいてくださいね」
霧原君は無言でうなずいた。
「じゃあ、ごゆっくり」と僕が去ろうとした時──。
「あのビルの三階から、男がモカ娘のことずっと見てるよ」と小さく霧原君が呟く。
「えっ、本当に?」
「一つだけ開いてる窓があるだろ、あそこから」
見ると、確かに一つだけ開いた窓がある。
「男の目的はわからないけど、一応気をつけたほうがいいよ」
低く沈んだ霧原君の声。
その声に、昨日の右肩の痛みを思い出す。
もしかすると──。
慌てて店に入った。
平太の姿を探した。
彼はカウンターでコーヒーを淹れていた。
彼に駆け寄る。
「平太! 向かいのビルから男が僕のこと、ずっと見てるって」
「お前のことを男が見てる? 何だそれ?」
平太はピンと来ないようで、怪訝な目で僕を見た。
平太の隣にいた凪沙さんが声を上げた。
「それって、この間、香ちゃんを歩道橋で突き落としたヤツじゃない!?」
「あっ!」
平太の手が止まり、僕を見た。
「おい、香! 男がいるのは向かいのビルのどこだ?」
「三階の窓が開いてる部屋」
「俺、行ってくる!」
平太はカップを放り出し、店を飛び出ていった。
僕もそれを追った。
後ろから凪沙さんが僕を呼ぶ。
「香ちゃんはダメ! 平太に任せなさい! 私は警察を呼ぶから」
でも、平太ひとりにはしておけない。
僕は凪沙さんの言葉を無視して、店を飛び出た。
「香ちゃん! どこに行くの!」
走る僕の耳に、智晶さんの叫ぶ声が聞こえた。




