読書少年の災難
仁科家の喫茶店。
病み上がりで凪沙さんに戦力外通知を受けた僕は、レジで会計係をやっていた。
確かに右腕にはまだ不自由があるものの、左手だけでもコーヒーの一杯くらいは運べるのに。
そんなことを考えながら、お店の外を眺めていたら、見知った顔が通りを横切って、こっちに来る。
道路を渡りながら、本を読むのは危ないよ。
心の中で、そう叫ぶ。
僕はカウンターの平太に、
「モカを一杯入れて」と頼むと、「お前が飲むのか?」と言われた。
それでも、平太はモカを淹れ始める。
僕は外に出て、テラス席に向かった。
霧原君が座るのはいつも同じ席。これは僕が発見した法則だ。
霧原君は綺麗な足取りで、その法則どおりにテラスの端の席に落ち着いた。
早速、僕がオーダーを訊くと、ちらりと僕を見て、定番のモカを注文した。
店に戻りながら、頼んだモカがすぐ出てくると、手を抜いたように思われるんじゃないか、と気づいた。
余計な先回りをしたかもしれないけど、彼ならおそらく何も言わないだろう。
今度から気をつけよう、と反省。
僕は左手にトレーを乗せ、平太の淹れたモカを運んだ。
少しゆっくりめに歩いて、霧原君のテラス席に着く。
右手でコーヒーカップを取り、給仕しようとしたら、突然肩が痛んだ。
思わずカップをテーブルの上に放り出してしまった。
カップは硬い音を立て、テーブルの上を転がった。
僕は真っ青になった。
そこには、ちょうど霧原君が置いてあった単行本があったのだ。
本はモカを吸い上げ、どんどん茶色くなっていく。
「あっ、ごめんなさい!」
慌てて謝り、一緒に持ってきていた布巾で本とテーブルを拭いた。
霧原君はふやけていくテーブルの上の本をじっと見ている。
「モカ娘のたたりだ……」
彼が小さく、そう呟くのが聞こえた。
「弁償しますから! 何て言う本ですか?」と僕は訊ねた。
霧原君は穏やかな顔で、のっそりと僕を見て、
「いいよ。弁償は無理だし」と言った。
「でも、それじゃ……。なんとかしますから」
霧原君は水気を吸って、ぶくぶくに膨らんだ本を閉じる。
「これ廃刊だから、無理」
珍しい本だったんだ……。
僕は申し訳なさでいっぱいになった。
凪沙さんの言うとおりに、大人しくしてればこんな事にならなかったのに……。
「でも一応探してみますので、本の名前を」と言いつつ、表紙を見ると、『マイナス・ゼロ』と書いていた。
「乾けば読めるし」
霧原君は鞄からもう一冊本を出した。
見るとそっちは文庫本で『マイナス・ゼロ』と書いてある。
「それもマイナス・ゼロ……」
僕が不思議そうに見てるのに、霧原君は気づき、
「文庫本で復刊したんだよ。それに何度も読んでるから」と言う。
読書少年の霧原君が何度も読んでいるくらいだ。
よっぽど面白いのだろう。
僕は目の前の本のことが気になり始めていた。
「その本の話を教えてくれません?」
霧原君の向かいに僕は腰を下ろした。
さぼりになっちゃうけど、どうせ戦力外だしいいだろう。
「興味あるの?」
霧原君が初めて僕にまともに声をかけてきた。
「はい、だって二冊も持ってるくらいだし」
霧原君は僕に向き直り、にこりと笑った。
とても優しそうな笑顔だ。
彼は文庫本を手に取り、僕に表紙を見せる。
「この本はね、タイムマシンの物語で、その手の本では不朽の名作と言われてるんだよ。作家の広瀬正は時間をテーマにしたSF作品を多く手がけ、『時に憑かれた作家』とも言われている」
「タイムマシン……」
僕は霧原君の話に、ひたすらうなずく。
そういえば、この間、シグマもタイムマシンとか言ってたような気がしないでもない。
「で、どんな話なんですか?」
僕が訊くと、霧原君は持っていた真新しい文庫本を僕に差し出した。
「それは読んでみるのが一番だね。話すとネタバレしちゃうし。簡単に言うと、一人の男が戦中、戦後、戦前とタイムマシンを通して数奇な体験をする物語だよ。すごいのは、当時の情景や、風俗、文化が詳細に描かれているところかな。そして、締めくくりのタイムパラドックスは、かなり斬新だね。あるミステリーで同じネタのものを読んだことがあるけど、オリジナルはこっちだったんだね」
次々としゃべる霧原君。
本の話になると生き生きするようだ。目の輝きが違う。
僕は圧倒されて、話の半分も理解できなかった。
「タイムパラドックスって何ですか?」
そんなことも知らないのと言われそうで、僕はおっかなびっくり訊いた。
霧原君はしゃべれるのが嬉しいようで、全く気にしていない。
「それはね、例えば君がタイムマシンで昔に戻って、君が生まれる前の母親を殺したとしたら、未来に君はいないはずだろ」
「ああ、はい、そうですね」
「そういった、タイムリープによって矛盾が起こることをタイムパラドックスというんだ。過去で起きたことに未来の人間が介入するのはタブーとする物語は多いね。蝶が一つ羽ばたくだけで、未来が大きく改変されてしまう。これをバタフライエフェクトと言うのは有名だよ」
もう何が何だか……。
僕はうなずくのにひたすら一生懸命だ。
霧原君の話はまだまだ続く。
「でも、僕は未来の人間が過去に戻った時点で、歴史が分岐するという考え方のほうが好きだね。同じ人間が色んな世界で違った運命を生きる。そっちのほうが夢があるじゃない。平行世界、マルチバースっていうのかな」
「あああ……」
僕の脳は飽和状態で唸るばかりだ。
「はい、これ」
テーブルの上、先ほど僕に差し出し置いた本を、霧原君は指で押す。
「君はまだタイムリープものの初心者のようだから、この古典から読み始めるといいよ。わかりやすいし」
「あ、ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げた。
頭を上げ、テーブルの上を見て、
「あっ、いけない! 新しいコーヒーをお持ちしないと!」と取り乱す。
霧原君は苦笑いして、
「もういいよ。それよりレジ袋か何かない?」と濡れた本を指さした。
本はまだびっしょりと濡れている。持ち帰るには袋が要る。
「すぐにお持ちします。あと、お勘定はもちろん要りませんから」
僕は店へ急ぎ、レジ袋を探して持ち出した。
平太が首を傾げて、僕のほうを見ていた。
「じゃあ、これを」
霧原君に袋を渡した。彼は濡れた本を無造作にポンと投げ入れ、立ち上がった。
「君って面白いね。さすがモカ娘だ」
謎の言葉を残し、店を出ていく霧原君。
それを見送ると、僕はテーブルに残された文庫本をじっと見つめた。
タイムマシン……。
タイムマシンが本当にあれば、過去に戻って僕の正体がわかるのに……。
そんなことを、僕はなんとなく考えた。




