学校へ復帰
結局、九条院家を訪問したものの、僕の正体に至るような成果は得られなかった。
わかったことといえば、僕が会長夫人の若い頃にとても似ていることくらい?
ということは、僕は会長夫人の息子である社長の妾の子という可能性はないかな?
なんてことを考えたが、社長の妾の子が、九条院姓を名乗っているのも妙な気がした。
妙というよりは、図々しい……?
そもそも、シグマの言ってた『九条院そーけん』という会社もないみたいだし、あの男が言ってたこと自体がデタラメなんじゃないだろうか?
いやいや、実は九条院家の跡目を狙って本家と分家の骨肉を分かつ争いが裏舞台で静かに進行してるとか……。
その争いに巻きこまれて、僕は記憶をなくしたんじゃないだろうか?
だとすると、命を狙われていてもおかしくない。
そして、シグマは僕に味方する人間なんだ。
それで、あの謎の装置を使うと、彼がマシンと呼ぶ自動車か単車に乗ってすっ飛んでくるとか……。
けど、それだったら、記憶がない間は装置のボタンを押すな、というのはどういうことだろう?
そんなこんなを、あれこれ考えながら、週末は過ぎてゆき、翌週になった。
仁科家の人たちは、僕の素性がはっきりしなかったことには特に言及もせず、これまでどおりに接してくれた。
九条院家の玄関先に立っていた時に感じた既視感も、やはりそれは単なる錯覚なんだろう、と思うことにした。
九条院さんに、そう言われたから、あの時はきっとそんな気がしただけだ。
とにかく、肩の調子もかなり回復し、今日から学校に行くことにした。
いつもどおり、平太と一緒に仁科家を出て、学校へ向かう。
平太は、僕が九条院家の人間じゃなさそうだとわかり、ちょっと機嫌がいいような気もする。
滅多に吹かない口笛混じりで隣を歩いている。
僕も、実は少しほっとしている。
将来の不安はあるが、今の生活はなんとなく居心地がいい。
九条院さんじゃないが、「記憶が戻れば、全て解決するよ」かな。
そう考え、空を仰いだ。
今日は良く晴れている。一片の雲も見当たらない。
風も暖かく、新緑の香りを心地よく運んでくる。
久しぶりの教室は、どこか懐かしい気がした。
後ろでぽっかり空いた僕の席になんとなく、いとおしさを感じた。
平太と席につくと、天瀬さんが僕に気づき、こっちにやって来た。
先週の頭は彼女に振り回されっぱなしだったのが、色々ありすぎて、随分と昔のことのように思えた。
その天瀬さんが、僕の机にどかりと手をつき、
「あなた、どういう神経してるの?」と僕を睨む。
僕はなんのことかわからず、無言で彼女の顔を見返した。
「お姉様が心配して、何度もこの教室に来たのよ。電話して具合ぐらい伝えたらどうなの」
それを聞き、ぼくは「あっ!」と小さく声を漏らす。
そうか、病院を出た後、智晶さんに何も連絡してなかった……。
電話番号は知らないけど、調べればなんとかなったはずだ。
あれから、既に五日目だ。
僕は慌てて立ち上がった。
三年の教室に行こうと思ったのだ。
そこへ予鈴のチャイムが鳴った。
平太が横から、「行くなら後にしとけよ」と呟いた。
天瀬さんは、「じゃあ、お願いね」とだけ言い捨て、自分の席に戻っていった。
授業中、自分の迂闊さを反省した。
とにかく、短い間に色んな人と知り合ったので、それぞれの人に気が回らず、礼儀を欠いてしまった。
結局、先週と同じように、またそわそわとして、午前中の授業は過ぎていった。
昼休みになり、跳ねるように席を立つと、僕は三階へと駈け上がった。
確か、この教室……。
開いた扉から中をのぞこうとしたら、背の高い男子の胸に頭をぶつけた。
謝ろうと見上げたら、見知った顔で驚く。
一瞬、時間が止まったように、智晶さんのことも忘れてしまった。
「あれ、何しに来たの?」
男子が僕を見下ろして笑う。
どきりとした……。
九条院さんだった。
そうか──、今週から転入するって言ってた。
三年生だったんだ……。
「先日はどうもお邪魔しました」と頭を下げる。
「肩は治った?」と優しく微笑む九条院さん。
気持ちはありがたいけど、どうか笑わないで、と僕は願いつつ、右腕をちょっとだけ持ち上げうなずく。
「それは良かった」と僕の願いも虚しく、九条院さんがまた笑う後ろ、どたどたとせわしない足音が聞こえてきた。
見ると、智晶さんがこっちへ走ってくる。
「香ちゃん、体は大丈夫?」
心配そうに僕を見つめる智晶さんに、「連絡しなくて、すみませんでした」と謝った。
「香ちゃんが大丈夫ならいいから、気にしないで」と言い、智晶さんは僕を押すように廊下のほうへと戻す。
どうしたんだろう、と僕が思っていると、智晶さんは僕の耳もとで囁いた。
「九条院君、格好いいからクラスの女子が狙ってるようなんだ。彼と一緒にいると変な噂を立てられるから」
ちらりと九条院さんを見てから、「えっ、そうなんですか?」と小声で訊き返した。
九条院さんはまだ扉の所に立っていた。
「でも、僕は大丈夫。女好きってみんな知ってるからね。彼と一緒にいて危ないのは香ちゃんだよ」
「危ないって、そんな……」
「先輩女子の嫉妬は怖いよお」
智晶さんの顔は冗談のような本気のような、微妙な表情だった。
でも、九条院さんは確かに女子に人気がありそうだ。
僕は笑顔だけはどうにも苦手だけど。
「とにかく、学食でも行かない? ここにいても邪魔なだけだから」
智晶さんが僕の袖を引く。僕は九条院さんに頭を下げ、智晶さんについて学食へと向かった。
少し出遅れたせいで、学食では席がなかなか見つからなかった。
見回したが、二人で座れるテーブルがない。
どのテーブルもみんな食事をしながらのおしゃべりでかなり騒々しい。
ランチが載ったトレーを手に、喧噪の中、二人で突っ立っていた。
「あっ! あそこ二つ空いてる。詰めてもらえば座れるよ」
隅のほうのテーブルを智晶さんが指さした。
早足で二人は、そのテーブルに向かった。
「あっ!」
目的のテーブルに着き、思わず声が出た。
そこに座っていたのは、読書少年の霧原君だったのだ。
彼の両隣は空席で、本を読みながら、黙々とカレーを食べていた。
カレーも食券を買う際に、言葉が短くて済みそうだ。
いつもカレーなんだろうか、と僕は想像してしまった。
「君、ちょっと席を詰めてもらってもいいかな?」
智晶さんの声に霧原君は顔も向けず、黙って席を動いた。
「ありがとうね。さあ、香ちゃん座って」
智晶さんは僕に席を勧めた。
霧原君に頭を下げ、隣に座った。
霧原君は僕に一瞥もくれず、相変わらず読書と食事に集中している。
「うちの学食、狭いよね」
座るなり、智晶さんはぼやいた。
「パンや弁当の人が結構いますから」
「まあ、それだから狭いんだろうけどさ。でもさ、もっと優雅にランチを楽しみたくない?」
「それはそうですけどね」と答えた途端、ぽろりと箸から芋の煮っ転がしがこぼれた。
「香ちゃん、左手で食べてるの?」
「はい、まだ右腕を上げると少し痛みますから」
「じゃあ、僕が食べさせてあげるよ。ほら、あーんして、あーん」
智晶さんの箸が僕の目の前に伸びてくる。
僕は恥ずかしくなり、周囲を見回した。
隣の霧原君は気にする様子も見えないが、向かいの席の女子たちの視線がどこか冷たい。
「自分で食べますから!」と乞うように断ると、
「ちぇっ、せっかくの機会だったのに」と智晶さんは少し膨れた。
のんびりとカレーを食べている霧原君を見て、僕も食べやすいカレーにすれば良かった、と思った。
「香ちゃん、ごめんね」と智晶さんが謝る。
「ひとりで食べられますので、気にしてませんから……」
「いや、そうじゃなくて」
「じゃあ、何をです?」
僕は箸を止め、智晶さんを見た。
智晶さんはテーブルに視線を落とし、表情もどこか暗い。
「あの時、香ちゃんを突き落とした男の顔を僕が良く見てなくてさ……」
「そんな……、智晶さんは僕を助けようとしてたから仕方がありませんよ」
「僕は許さないよ。香ちゃんを突き落とした男をさ」
「僕もぼうっとしていて不注意だったんですよ。それにいたずらかもしれないし」
「いたずらにしちゃ悪質すぎるよ」
智晶さんは箸を置いた。そして、やおら僕に向き直った。
「僕と一緒にいる限り、香ちゃんをもう二度とあんな目に遭わせないよ!」
智晶さんの言葉はとてもありがたかった。
けれど、場所が場所なだけに、ひどく気恥ずかしい。
智晶さんの声が大きかったので、今度は離れたテーブルまで声が届いたようだ。
こっちを振り向いている生徒が、結構いた。
「みんなに聞こえてます」と小声で囁くと、智晶さんは慌てて辺りを見回し、赤くなった。
そんな智晶さんを見て、僕は思った。
僕は智晶さんや平太に守られている。
あの事故の犯人は確かにわかりそうにない……。
でも、智晶さんや平太が僕の不安や心細さを消してくれる。
僕も、そんな人たちを大事にしないと──。




