二人の九条院レイ
翌朝、9時を過ぎた頃、凪沙さんは早速九条院銀行に電話をした。
右肩のせいで、今日も学校を休んだ僕は、キッチンで彼女が話すのを聞いていた。
最初のうちは受付の行員と揉めている様子が見て取れた。
いたずらだと思われたのだろう。
門前払いにされまい、と粘る凪沙さん。
凪沙さんの「だから」と言う言葉が、何度もキッチンを飛び交った。
行員は根負けしたのか、電話を社長秘書に回すことになったらしく、凪沙さんは僕を見て、Vサインをした。
僕はそれに、ちょっと苦笑いをしながら、秘書とまた揉めるんだろうな、と思った。
秘書に電話が通じたらしく、とげとげしかった凪沙さんのトーンが和らいだ。
しかし、話のほうは「認知がどうした」とか「社長と凪沙さんはどういう関係か」という方向に進んでいるみたいで堂々巡りしているようだった。
しばらくして、凪沙さんが、
「ですから、うちのほうで九条院レイというお嬢様をお預かりしているんです」と言った途端、様子が変わった。
「はい、九条院レイです。名前の字のほうは……」
凪沙さんが、僕に視線を向ける。
僕はふるふると首を横に振った。
「本人は事故か何かのせいで記憶に一時的な障害があるようで、字はわからないそうです」
記憶喪失だなんて、これで怪しまれてアウトだな、と僕は思った。
ところが──。
「はい、はい、記憶喪失で昔の記憶が一切ないようです。はい、九条院レイで間違いありません」
どうしたことか、話が進展しているような雰囲気だ。
「えっ! 今日ですか? 午後ならかまいませんが、あいにく本人は今、右肩を痛めており、動き回れないものですから」
「こちらに迎えに来ていただける? じゃあ、店の住所を教えますので、そちらに来ていただければ……」
なんだか、とんとん拍子だ。
どうしたんだろう?
凪沙さんが受話器を置いた。
彼女は僕のほうを微妙な表情で見ている。
「どうなったんですか?」と僕が訊くと、
「記憶喪失の話になった途端、先方の対応が急変したのよね。どうしたのかしら?」と凪沙さんは首を傾げた。
「変ですね」と僕も首を傾げる。
「まあ、とにかく今日の午後、うちの店まで秘書の方が来てくださるそうだから。香ちゃんも一緒にお店で待ちましょう」
僕はそれにうなずく。
「肩の具合はどうかしら?」
そう言われ、右腕を少し持ち上げてみた。
「昨日より良くなった感じです」
その答えに凪沙さんは微笑み、「じゃあ、後で一緒に着替えましょうね」と言い、キッチンを出た。
午後、凪沙さんと店に出た。
ちょうど、お昼時だったので凪沙さんはすぐに仕事に入った。
僕はレジの後ろの椅子に腰かけ、平吉さんと凪沙さんが忙しく動くのをぼうっと見ていた。
学校の制服を着ているので、授業をさぼっているように見えるかもしれない。
でも、とりあえず左手だけで、レジの勘定くらいはできた。
迷惑かけっぱなしなので、このくらいはしないと、と思う。
ちょっと、ぎこちないのでお客さんが心配げに僕を見た。
僕は、「へへっ」と笑ってごまかした。
お昼時が過ぎ、客も減り、暇になった。
スカートのプリーツをいじりながら、これからどうなるのだろう? と考えた。
もし、本当に僕が九条院の人間なら、このまま仁科家とはお別れなのかな?
せっかく今の暮らしにも慣れてきたのに……。
しんみりとした考え事をしていたら、眠くなってきた。
椅子の上でうつらうつらしてたところ、凪沙さんに呼ばれた。
「香ちゃん。どうやら来たみたいよ」
外を見ると、黒塗りの車が店先に止まっている。
スモークガラスで車の中は見えない。
と、車のドアが開き、グレーのスーツを着た細身の男性が出てきた。
男性は店にまっすぐ歩いてくる。
カランとカウベルの音が鳴った。
男性はカウンターのほうに目をやり、「朝方電話をいただいた九条院銀行の者です」と言った。
凪沙さんが、すぐに飛び出ていき、男性を席に座らせ、自分も向かいに座った。
そして、僕を手招きして呼んだ。
「このお嬢さんが、九条院レイさんです」
凪沙さんの横に立った僕を彼女が紹介した。
男性は僕の頭から足の先までをゆっくりと見回した。
どことなく値踏みをしているような目つきだったので、ちょっと嫌だった。
男性はひとしきり僕を見た後、「私は見覚えありませんね」と言い、それから、
「ただ……」と付け足した。
「ただ、どうしました?」と凪沙さんが訊く。
「会長夫人のお若い頃に良く似ているような気がしないでもない」
「えっ、本当に?」
凪沙さんは目を丸くして、男性に顔を寄せる。
男性は、それには答えずスーツの内ポケットから名刺を取り出し、テーブルに差し出した。
「私は九条院銀行社長秘書の三池と申します」
凪沙さんはそれを両手で恭しく取り上げ、会釈した。
三池さんは、今度は黒い鞄をテーブルの上で開き、一枚の紙を取り出した。
それを、テーブルの中央に差し出す。
見ると、それは写真だった。
僕は、それを見て驚く。
それに気づき、凪沙さんが、「どうしたの?」と訊く。
その写真に写っているのは、今度転入してくる九条院さんだった。
「ご存じですか?」と三池さんが僕を見る。
「はい、知ってます」
「以前から?」
「いいえ、つい最近知り合ったばかりです」
三池さんはそれを聞き、ため息をついた。
「変な話があるものですね……」
三池さんの言葉に、僕も凪沙さんも固唾を飲んだ。
三池さんは、コップの水を一杯飲んでから、言葉を継いだ。
「この男性を九条院家で現在世話をしているのですが、彼も九条院令と名乗っており、やはり昔の記憶が一切ないんですよ」
「彼も九条院レイ!?」
僕の視線は再び写真に吸い寄せられた。




