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九条院家の存亡(旧バージョン)  作者: 天川一三
2011年前編
28/107

異変

 部屋中を揺すぶっていた強い振動が止まった。

 周囲を見回したが、置物の位置が少しずれているくらいで、他は特に変化はない。

 窓の外は厚い雲に日射しが閉ざされ、暗いままだ。


 僕は握っていた装置を布団から取り出した。

 おそるおそる、それを眺める。

 音は鳴り止み、ランプが青く灯っている。

 液晶の四つの数値は増減しておらず、それぞれバラバラの数値を示している。

 じっと見つめていたが、もう何の変化も起こらない。


 ぶるっと震えた。

 でも、それは恐怖からではなく、トイレに行きたくなったようだ。

 机の端まで這っていき、椅子に這い上がるようにして、なんとか立ち上がった。

 落ち着いてきたら、肩の痛みをまた感じ始めた。

 トイレに行ってから、ついでに痛み止めをキッチンで飲もう、と思った。


 廊下に出た。

 昼間とは思えないほど、静かだった。

 玄関の外からは何も音が聞こえてこない。

 先ほどまでの騒々しさが嘘のようだ。


 トイレのドアを開けると、玄関の外で誰かが走ってくるような音が聞こえた。

 マンションの通路を蹴る甲高い響きが大きくなる。

 宅配か何かだろうと思い、僕はトイレに入った。

 ジャージと一緒にパンツを降ろしたが、これも利き腕が利かないと割と面倒くさいものだ。

 どうにかずり降ろし、便座に腰かけ、一息ついた。

 すると、インターホンが鳴った。

 体の自由が効かないし、宅配だったら不在連絡票が入るのでやり過ごそう。

 そう思いながら、用を足す。

 しかし、インターホンは執拗に何度も鳴らされた。


 しつこいなあ。今は出られないよ。


 ちょっと腹が立ってきた。

 トイレットペーパーをからからさせていると、玄関のほうから今度はカチャカチャ音がする。

 僕はぞっとした。


 もしかして、泥棒……?

 インターホンでいないのを確かめて、誰もいなさそうなので、押し入ろうとしてるんじゃ……?

 今日はなんて日なんだ……。

 トイレに閉じこもっていたほうがいいかな?

 ふとそう思ったが、仁科家に迷惑をかけられない、とトイレを流し、立ち上がった。


 ドアを開けた。

 黒い影が目の前をよぎる。

 背中に冷たい怖気が走り、僕は固まった。

 トイレに行ってなかったら、失禁しているところだった。

 黒い影が僕に気づく。

 僕は再びトイレに入り、ドアを閉め慌てて鍵をかけた。


「見つけた!」

 トイレの外で声がした。ちょっとくぐもった男の声だった。

 男はトイレのドアを開けようとしている。

 ガチャガチャとドアノブが音を立てる。

 玄関のロックを破ったくらいだ。

 トイレの鍵なんか、いとも簡単に開けるんじゃ……。

 僕は便座にうずくまり、震えた。

 そうしているうちに静かになった。


 諦めたのか?

 それとも何か道具を用意しているのか?


 なんとも生きた心地がしない。

 あの装置は災いをもたらす、パンドラの箱だったんだ。

 僕はボタンを押したことを、ひどく後悔していた。


 と──、ドアがゆっくりとノックされた。

「お嬢様! トイレにこもってないで出てきてくださいよ。早くしないと、外で騒ぎが起きちゃいます」


 お嬢様って、僕のこと……?

 それに外で騒ぎって、なんのことだろう?


 だが、これは泥棒が僕を油断させる手段かもしれない。

 そう思った僕は、「どなたです?」と中から訊いた。


「どなたって……、呼ばれたから来たのにひどいじゃありませんか。マシンのエネルギーも放出されちゃいますから急がないと」

「どなたです。答えないと出ません」

 僕はさっきよりきつい口調で言った。

「なんとも! このダンディーで渋い声をお忘れですか? 九条院総研の柴久万しぐまですよ」


 シグマ……?

 全く憶えのない名前だった。

 けど、その前に九条院そーけんとか言ってたな。

 九条院……、夢の中の女の子の名前、そして今度転入してくる男子の名前だ。


「乱暴なことはしません?」

 気になり始めた僕は外の男に質問した。

「するわけないでしょ。ジェントルマンな私が」

 なんだか調子のいい男だと思ったが、声に毒気を感じなかった。

 僕は立ち上がり、おずおずと鍵を開け、ドアを細く開いた。

 その隙間から男の姿が見えた。

 男はとても背が高く、その顔は……!


 思わずドアを閉める。

 鍵をかけようとしたが、男がドアを引き、うまく施錠できない。

 ドアの内と外で引き合いをやった結果、左手しか使えない女の僕は、外に引き出されてしまった。

「もしかして、これを見てびっくりしました?」

 男が自分の顔を長い指でさした。

 改めて僕は、その顔を見上げる。

 男は黒いレザーのジャンパーにフルフェイスのヘルメットをしていたのだ。

 これは強盗以外の何者にも見えない。


 男はヘルメットを脱ぎながら言う。

「これはね、やっと開発できた記憶障害から脳を守る装置ですよ。これがなければ、私も過去に来たはいいが、訳のわからない状況になるでしょうからね。とはいっても、これがなければ私はマシンに乗ったりはしませんけどね。ははは」

 男はぎょろりとした目で僕を見て、笑った。


 僕は何のことかわからず、ただただ男を凝視した。

「私があまりにイケメンなんで、驚いてるんですね。お嬢様。良く気づきましたね。眼鏡からコンタクトにしたんですよ。ヘルメットを被るのに邪魔ですから」

 ペラペラと良く喋る男だ。

 けど、何のことを言ってるのかほとんど理解できない。


「シグマって、あなたの名前ですか?」とりあえず訊いてみる。

「そうですよ、お忘れですか? いや、もしかしたら、まだ記憶障害が治ってない?」

 記憶障害って記憶喪失のことだろうか?

 僕はうなずいた。


「やはり、そうでしたか。私も記憶障害の間にボタンが間違って押されることも予見していたのですがね……」

「ボタンって、あの腕時計のような装置のですか?」

「そうですよ。お嬢様が押しちゃったから、急いで来たんですよ。とはいっても、タイムマシンなので呼ばれた時点の時間に行けばいいだけだから、急ぐ必要はないんですけどね」


「タイムマシン!」

 僕の驚きに、シグマという男は気の毒そうに僕をのぞきこむ。

「それすらも憶えてないんですか……」


 この人は何か知っている。

 そう感じた僕は、彼に訊ねる。

「僕は誰ですか?」

「誰って、お嬢様でしょう」

「お嬢様って?」

「そりゃ、九条院麗お嬢様でしょう。まさか、自分の名前すらも忘れてしまわれた?」

 そう言い、シグマは大きな手で顔を覆った。

「僕は日比野香じゃないんですか?」

 ぎょろりとシグマが僕を睨む。

「それはお嬢様と一緒にいた、ガキ……、あっ、いや、お坊ちゃんですよ。どうやら記憶を混同されているようですね」

「じゃあ、僕は日比野香じゃないんですね」

「もちろんです」

 シグマは大きくうなずく。


「とにかく、お嬢様がこんなじゃ、九条院家の窮地を救うというミッションは完了していないようですね。これは出直すしかないですな」

 シグマは引きつったような顔で笑った。

 その時、外でパトカーのサイレンの音がした。その途端、シグマがそわそわし始める。

「あああ、駐禁の道路に勝手にマシンを置いてきたから、通報されたかな……。じゃあ、私は帰ります。あ、それから、今後このようなことがないように、これを」

 シグマがポケットから何かを取り出し、僕に渡した。

 見ると、僕が持っている謎の装置に似ていた。でも、それは微妙に違っていた。

「とにかく、レッカー移動されてしまったら厄介なので、私はこれで」

 シグマは大慌てで玄関から飛び出ていった。

 途中、通路でつんのめったのか、バタッバタとテンポが乱れた慌ただしい音が鳴り響いた。


 僕は静かになった廊下にぺたんと座りこみ、突然の珍事を思い返していた。

 すると、またマンション全体が重苦しい音を上げ、揺れ始めた。

 それと同時にパトカーのサイレンの音が大きくなった。

 うるさくて耳をふさごうとしたが、右腕は痛んで上がらず、片方しかできなかった。

 しばらくして、どっちの音も鳴り止んだ。

 マンションは元の静寂を取り戻したようだ。

 この揺れも、シグマが言うマシンのせいだったのだろうか?


 気を取り直し、廊下を見ると、シグマの被っていたヘルメットが転がっている。

 慌てて飛び出ていったので、忘れたようだ。

 拾おうとしたが、丸っこくて左手だけでは持てなかった。

 それになんだか重い。

 こんなものが転がっていては、凪沙さんに怪しまれるので、座り歩きで転がして自分の部屋に、ヘルメットを入れた。


 部屋に戻り、シグマからもらった装置をもう一度見てみた。

 ほとんど同じだが、ボタンのところに書いている文字が違った。

 細かい字で読み辛いが──、『記憶が戻らないうちは絶対押さないこと』と書いてある。


 なんだかなー。

 僕は少し呆れた。


 いずれにしても、この装置を押すと彼が来るようだ。

 それが、わかっただけでも収穫かも。


 それに……。

「僕の本当の名前は、九条院レイらしい」

 夢で見た女の子の姿が、僕の脳裏に浮かんだ。


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