謎の装置
仁科家に戻った夜は肩が疼き、寝苦しかった。
熱をはらんだ肩に寝返りも打てない状況で、悶々として天井を睨んだ。
そうしていたら、アイボリー色のクロス地に浮かぶ染みが、波打つように動くような錯覚がした。
痛み止めの副作用かもしれない。
眠れそうで眠れない……。
長い夜になりそうだ、とうんざりした。
ドアがノックされた。
「どうぞ」と返事をすると、凪沙さんが入ってきて、濡れたタオルで肩を冷やしてくれた。
「今日は病院に泊まったほうが良かったね」
どこか自嘲的な声で凪沙さんが囁く。
「いえ、僕が帰るって言ったんですから」
「病院のほうが心配なかったのに、失敗だったわ」
そう言いながら、凪沙さんが僕の肩を優しくさする。
「今日はどうもすみませんでした。お店まで閉めさせてしまって」
「そんなことはどうでもいいの。それより、こんなひどいことをやったヤツを早く捕まえないとね」
「捕まえる?」
「そうよ。危うく大怪我か、命を落とすところだったんだもの。いたずらにしても許せないわ」
「でも、手がかりは?」
「うーん……。米良さんがちらりと男の人を見たらしいんだけど、彼女もあなたのことで、それどころじゃなかったようだし。とにかく目撃者がいないか、警察に調べてもらわないと」
「えっ! そこまで……?」
驚いて大きな声を出しかけ、深夜だと気づき声を殺した。
「だって、本当にあなたの命が狙われてたら大変じゃない」
そんな訳ないですよ、と思わず言いかけたが、良く考えると僕は記憶喪失だったのだ。
記憶を失う前に何かトラブルに巻きこまれていたら……。
いや、記憶を失ったこと自体がトラブルに巻きこまれていた証拠なのかもしれない。
そういえば……。
鏡台の上に置いてある、腕時計型の謎の装置のことを僕は思い出した。
あの機械に何か秘密があるのかも……。
僕が黙りこんだのを見て、凪沙さんは立ち上がった。
「じゃあ、明日は朝一で病院に行きましょう。それと、登下校は今後は必ず平太と一緒にね。わかったわね、香ちゃん」
「はい」と僕は布団の中でうなずいた。
それを確認して、凪沙さんは静かにドアを閉め、出ていった。
凪沙さんの部屋のドアが閉まる音がした。
僕は右肩がなるべく痛まないように体をひねり、布団を出て鏡台へと左腕だけでゆっくりと這っていった。
片腕しか使えないのが、こんなに重労働だとは思わなかった。
鏡台の下まで来たのはいいが、右腕が上がらない。
髪が目にかかって、払いのけたいと思うが、それさえも難しい。
仕方なく一度うつ伏せになったら、肩をひねって激しく痛み、小さく悲鳴を上げた。
その痛みに耐えつつ、左手を伸ばし、鏡台の上を探る。
謎の装置を取ろうとしたのだが、最初に指が弾いたのは口紅だった。口紅は僕の頭の上に落ちてきて、床を少し転がった。
もう一度、腕を伸ばしたが、謎の装置はどうやら奥のほうにあるようで届かない。
僕は諦めて、目の前にある口紅を拾い、ゆっくりと這って布団に戻った。
どうにかこうにか仰向けになり、大きく深呼吸をした。
思いのほか、大変だった。
ほんの数メートルなのに大冒険をしたようだ。
左手に握った口紅を目の前にかざしてみる。
窓からこぼれてくるわずかな光を反射させ、口紅はうっすらと輝く。
それをぼんやりと眺め、昼間の出来事を思い出す。
智晶さんのお兄さんの店で見た、ランプの輝き。
あの輝きはこの口紅の色に似ていた……。
ランプの光を見て、記憶に甦った女の子と、病院で見た夢に出てきた女の子は同じだったような気がする……。
もっと何か思い出せないだろうか。
口紅をじっと見つめたが、何も心に浮かんでは来なかった。
そうしているうちに、なんだか眠くなり、口紅を床に置き、僕は眠りに落ちた。
翌朝、凪沙さんと駅前の病院に行った。
先生から、四人部屋なら空いているから数日間入院してもいいよ、と言われたが、丁重にお断りした。
僕は記憶喪失で、身元も不明なので健康保険が効かないのだ。
昨日の治療代も全額実費で仁科家に支払ってもらっている。
入院なんてとんでもない。
凪沙さんはお金より体のほうが大事だと入院を勧めてくれたが、僕は頑なに拒否した。
湿布薬だけ出してもらい、病院を出た。
それだけでも結構な出費だろう。仁科家にはお世話になりっぱなしだ。
今日は学校も休むことにした。
お店を手伝おうかとも思ったが、右腕が思うように動かないのでは邪魔になるだけなので、家で大人しく寝てることにした。
そんな訳で、ひとり家でごろごろしているというか、そのごろごろも痛むのでままならないのだけど……。
布団に入る前に、今度は鏡台の上の謎の装置を枕元に持ってきておいた。
それを手に取り眺める。
腕時計型の装置。
メーターの目盛りは以前見た時から増えも減りもせず、あとわずかのようだ。
液晶面上部のランプも光っていない。
自由に身動きもできない布団の中。
その装置のCAUTIONと書かれたボタンをじっと見る。
もし、この装置のせいで僕の命が狙われているのなら……。
このボタンを押せば、何かがわかるんじゃないか?
左手の親指で、そっと力をこめて触る。
少しだけボタンが動いたが、思い直して指を離す。
やはり、嫌な予感がする……。
カーテンが開かれた窓のほうを見ると、四角く区切られた青空が見える。
そのうららかで平和な光景をぼんやりと眺めていたら、自分が考えていることが馬鹿馬鹿しく思えてきた。
ただの高校生の僕が、命を狙われるなんて──。
あり得ないし。
単なるいたずらか人違いだろう。
この装置だって、おもちゃなんじゃないの?
親指でボタンに力をこめる。
あと、少し力を入れれば……。
きっと、何にも起こらないさ。
顔の前に装置をかざし、僕はついにボタンを押した。
その瞬間、装置のランプが赤く灯り、ビープ音が鳴り響いた。
液晶画面には四つの数字が現れ、その数値がめまぐるしく変化している。
「何、これ!?」
うるさく鳴り響く音を止めようと、もう一度ボタンを押した。
だが、音は一向に鳴り止まない。
「やっぱり、爆弾だ!」
僕は慌てて、装置を布団の下に押しこめた。
痛みをこらえ、必死で布団から這い出て、部屋の隅で左手で頭を抱え丸くなる。
装置は布団の中、くぐもった音で、まだ鳴り続けている。
部屋を出たほうがいいかな……?
頭を上げ、ドアのほうを見る。
けど、迷惑かけっぱなしの上に家まで爆破されちゃ、仁科家は……。
いっそ、ここで死んでしまったほうが……。
そう思った瞬間、耳をつんざくような大音声が鳴り響いた。
爆発した!
思わず目を閉じる。
だが、体には熱も風も感じない。
目を開け、おそるおそる周囲を見回す。
ゴロゴロと外で重い音がする。
窓を見た。
空には灰色の雲が渦を巻いていた。
なんだ、雷か……。
でも、さっきはあんなに天気が良かったのに……。
ほっとため息をつく。
部屋に目を戻すと、装置のビープ音は鳴り止んでいることに気づいた。
やっぱり、なんでもない装置だったんだ。
装置を取り出そうと、布団にまた戻ろうとした。
空が曇ったせいか、部屋の中は暗く、夕方のようだ。
薄闇の中、布団にたどりつき、その下に手を伸ばし、装置を握った。
その途端、窓の外で稲妻が何度も光った。
狂ったように明滅する窓。
と同時にガラスがビリビリと震え、重苦しい震動が部屋全体を包んだ。
「雷の次は、地震!?」
なに、これ?
もしかしたら、全部この装置のせい?
次々と起こる不可解な出来事に、僕はただただ混乱するばかりだった。




