校内探索
翌朝。
窓を開けてみると、まずまずの天気。
僕は伸びをして、ひとつ大きく深呼吸し、新しい朝の香りを堪能した。
パジャマ代わりのジャージのまま廊下に出た。
この格好、凪沙さんには女の子のくせに色気がないと叱られるが、僕は楽で好きなのだ。
洗面に行くと、同じくジャージ姿の平太が肩や腕を変な泳ぎをするように、左右交互にぐるぐる動かしている。
「どうしたの?」と声をかける。
「いやさ、昨日のせいで、あちこちが筋肉痛」
「五両君への教育ってやつ?」
「そうそう」
「平太がそんなじゃ、よっぽどのことだったんだね?」
「やっぱり運動部に入って、鍛え直したほうがいいかなあ? 高校に入って体がなまっちゃってるよ」
平太は中学の時は野球部だったらしい。
レギュラーで四番だったそうだが、高校に入ってからは店を手伝うため、野球は自分から辞めてしまったのだ。
「そうしたら? 店のほうは僕が頑張るから」
「いや、そういう訳にはいかないさ」と僕を見てから、平太は歯ブラシをくわえた。
仁科家揃っての朝食。
仁科家は家族全員で必ず食事をとる。
毎朝、凪沙さんと僕で食事の用意をして、平吉さんは経済新聞を読んでいる。
平太はといえば、ぼうっとテレビのスポーツニュースを眺めていることが多い。
テーブルに料理が揃ったのを見計らい、平吉さんが新聞をたたみながら、つぶやく。
「不景気なんだね。どの銀行も決算が悪いし、次の株主総会はどこも大変だろう」
「嫌だわ。商工会の会長さんも、今年は厳しくなるだろう、って言ってたし」
凪沙さんはそう言い、椅子に座ると、ため息をついた。
「うちみたいな客商売は直接響くからなあ」と平太がぼやきながら、トーストにジャムを塗る。
「ああ、やだやだ。朝からこんな暗い話はやめましょう」と凪沙さんは自分に渇を入れるように背筋を伸ばした。
「香ちゃん、そういえばさ」と平吉さん。
「何ですか?」
「昨日、店先で高校生くらいの男子と話してたよね。あれ、誰?」
その言葉に平太が一瞬固まったが、すぐに知らん顔でトーストをかじり始めた。
「今度うちの高校に転入してくる男子みたいです。九条院さんとか言ってたかな」
「九条院……。珍しい名前だな。九条院銀行と関係あるのかな?」
平吉さんはおっとりとあご髭をひとなでした。それから、悪戯っぽい目で平太を見てにやりと笑う。
「背が高くてなかなかの好青年だったね。平太もうかうかしてると、香ちゃんを取られるぞ」
「あら! それは大変」と思い出したように凪沙さんが間の手を入れ、横目で嬉しそうに平太を見た。
平太はからかわれているのがわかっているようで、ふて腐れてそっぽを向き、テレビのアニメを眺めている。
こういうやり取りが苦手な僕は黙々と山羊のようにサラダをかじるのだった。
仁科家のマンションを出て、いつもの通学路を平太と学校へ向かっていたら──。
また、あいつがいた。
五両君だ。
だが、前を歩いている五両君はなんだか様子がおかしい。
歩き方がぎこちなく、どこか壊れた人形みたいだ。
あっという間に僕らに追いつかれた彼は僕を見た。
だが、昨日のようなギラギラした表情は見せなかった、というより元気がない。
「敦さ、お前も節々が痛いんだろ」と平太が声をかける。
さすが、男の子同士。
もう名前で呼んでるのか、と僕は感心した。
「はい、平太さん」と力なく答える五両君。
あれ? 平太のほうは『さん』付けなの?
「お互い辛いよな。じゃあ、また学校でな」
平太は五両君の背中を平手で思い切り叩いた。五両君は歩道の上でつんのめってよろけた。
いずれにしても、あの彼が一日で大人しくなってしまうとは、平太の教育は効果てきめんだったようだ。
五両君を追い越すと、次は天瀬さんの後ろ姿が見えた。
「おはよう、天瀬さん」と挨拶したら、彼女は恨めしげな目つきで僕を見た。
まるで餌をおあずけされっぱなしの犬の目のようだった。
「どうしたの?」と訊くと、「どうせ、私なんか」とぶつぶつ独り言をつぶやいている。
なんだか怖いので、「じゃあ」と平太と二人、先を急いだ。
「天瀬どうしたの?」と平太は後ろを振り返りながら、僕に訊く。
「さあ」と僕はかぶりを振った。
昨日、一昨日の出来事はなんだったの? と言いたくなるほど何事もなく、放課後を迎えた。
久々に授業にも集中できたような気がする。
なんとも小市民的な穏やかな一日だった。
今日は店の手伝いは休みの日だ。
凪沙さんの知り合いが不規則だが週に何回かはバイトに来てくれるのだ。
僕は昨晩思い立った事があり、帰り支度をしている平太に、
「先に帰ってて。僕はまだ用があるから」と伝えた。
「俺、敦が気になってさ。あいつと一緒に帰るわ」と平太は五両君を見た。
なんだか教育しすぎたのを気にしているようだ。
五両君、一日中、うつむいたままだったし。
平太ってやっぱり優しいんだ、と見直す。
平太と廊下で別れ、僕はちょっとした冒険に出る。
校内探索だ。
記憶喪失のせいで、仁科家と自分の教室の往復という、大人しく当たり障りのないルーチンワーク的な生活をしてきた僕だが、もっと積極的な自分になろうと思うのだ。
二年に上がったばかりで、タイミング的にも良さそうだし。
今日の僕のテーマはちあきさん探し。
もう帰っちゃったかもしれないけど、いてもいなくてもかまわない。
ただ、いつもと違う体験をしてみたいのだ。
僕は帰宅時の反対方向へと一歩を踏み出した。
違うクラスの前を歩く。
僕のクラスはA組で二階では昇降口に一番近い。
理科室や美術室がある棟へも一番近いので、反対方向へはあまり行くことがない。
なんだか、ちょっと心細いような、それでいてわくわくするような不思議な感覚が僕を襲う。
太陽系を初めて出て行く探査船の乗組員はこんな気持ちなのかもしれない、なんて思う。
──って、ちょっとたとえが大袈裟かな。
廊下ですれ違う男子が時々、僕のことをじっと見ている気がするが、良くあることだ。
僕は気づかないフリをする。
こうやって歩いていると、同学年のフロアでも見知った顔にはなかなか当たらない。
一年の時に同じクラスになった生徒もいるはずなんだけど、ずっと帰宅部で他の知り合いがいないせいかもしれない。
そんなことを考えていると、良く見かける顔の男子が歩いてきた。
綺麗な足取りで、廊下の真ん中をまっすぐ歩いている。
文庫本を読みながら。
テラスで必ずモカを注文する読書少年だ。
本を読みながらでも、器用に人をよけ、しかも姿勢は崩さず歩くテンポも乱れることがない。
いつもなら、このまま何事もなくすれ違うのだが、今日の僕は昨日までの僕ではない。
向かってくる彼に近寄り、小さく深呼吸をしてから、
「あ、あの……」と声をかけた。
慣れないせいで、遠慮がちで中途半端な呼びかけになっちゃったけど、彼は気づいてくれたようだ。
本から視線をはずし、僕をちらりと見て立ち止まり、彼は言った。
「モカ」
だが、そう言ったきりで、その視線は僕に向いておらず、彼は既に読書に専念しているようだ。
先ほどとの違いといえば、立ち止まっていることくらいだろうか?
もしかしたら、いつもの喫茶に来た、と勘違いしているんじゃないだろうか?
僕はちょっと手を上に伸ばし、彼の肩を叩いてみた。
すれ違う女子から変な目で見られつつ、数度同じ事を繰り返すと、やっと彼の表情が変わり、僕を見た。
「あっ、君は確か──」
そこで言い淀む、彼。
ゆっくりと僕から目をそらし、「モカ娘だよな。何故、モカ娘がここに……?」と囁くようにつぶやいた。
僕は、彼の中ではモカ娘らしい。
なんだ、そりゃ?
モカを注文してるのはあなたでしょうに、と呆れたが──。
まあ、今日名前を教えればいいか、と思い直し、
「よくうちの店に来ますよね」と微笑んでみる。
「う、うん……」
彼はそう答え、照れたのか目を伏せた。
店では始終同じ顔なので、初めて見る表情だった。
「僕は日比野香っていいます」
「あ、ああ、ひびのさんね」と開いた本のページを指でなぞる彼。
僕の名前をカタカナか平仮名で書いているのだろう。
彼にとっては文字のほうが頭に入りそうな感じだし。
僕が男言葉なのは、全く気づいていないようだ。
「あなたは?」と僕が訊ねると、自分のことじゃないとでも思ったのか、彼は左右を見て、誰もいないのを確認してから、「えっ? 僕?」と驚いたように言った。
僕は無言でそれにうなずく。
「霧原遼一」とぶっきらぼうに答える彼。
彼の目は開いた本に向いており、一秒でも早く読書を再開したい、という空気を漂わせている。
これでも男子に人気はあるんだけどな、と珍しくこの時ばかりは思ってしまった。
なんだか、お邪魔みたいなので、
「じゃあ、またお店に来てくださいね」と言って別れる。
霧原君は何も言わず、本を読みながら片手でひらひらと手を振り、歩いていった。
あまり感動的な邂逅ともいえず、ちょっとだけがっかりしたが、メインの目的はちあきさん探しだ。
もたもたしていては、会える可能性も限りなくゼロに近くなってしまう。
僕は急いで階段を上り、三年生のフロアへと足を踏み入れた。
このフロアになると、ほぼ全員が知らない人ばかりで、それに加え上級生ということで余計に緊張した。
端の教室から、おっかなびっくりに開いた扉や廊下側の窓から教室をのぞいてみるが、ちあきさんらしい人は見当たらない。
生徒もまばらで、既に帰宅したか、部活に行ってる人が多そうだ。
そう考えてみると、ちあきさんは運動ができそうな気がするので、部活なのかもしれない。
イメージからすると陸上部かな、なんて考えていたら、突然後ろから肩を叩かれた。
先生かもしれない、と焦って振り返ったら、見知った顔。
久遠加奈さんだった。
「なにしてるの? こんなところで」
加奈さんの人懐っこそうな顔を見て、緊張が一気にとける。
「いえ、なんでも」と僕は手を振ったが、加奈さんは、したり顔で僕を見た。
「はーん。さては智晶に会いに来たんだな。彼女の昨日の熱い抱擁が忘れられないのかな?」
「いや、そんなことは……」
僕は首を振って否定したが、半分は当たっているも同然だ。
「ちょっと、ついておいで。いとしい智晶はB組だから」
「いとしいなんて……」と言葉を濁しながらも加奈さんについていく僕。
なんか、バレバレな感じだ。
B組の前に着き、加奈さんは開いてる扉から中をのぞきこんだ。
「智晶はいるかな、っと……、あっ、いたいた! 智晶ぃ〜!」
僕も加奈さんの横からのぞくと、ちあきさんは窓際でクラスメイトの女子と一緒に話しこんでいた。
加奈さんの声が聞こえたのか、ちあきさんは首を伸ばし、こっちの方を見た。
きりんがゆっくりと遠くをうかがうような仕草だったが、突然立ち上がり、こっちに猛ダッシュしてきた。
そのあまりの勢いに僕はびっくりした。
加奈さんは、「馬が人参見つけたみたいだ」と笑った。
ちあきさんは扉の脇の柱に手をあずけ、呼吸を整えてから、
「香ちゃんじゃない。来てくれたんだ。嬉しいよ!」と笑った。
その屈託のない笑顔を見て、この人とやはりつきあってみよう、と僕は決心した。




