2062年6月──九条院家
このところずっと雨。
日本の景気も2010年前後から、ずっと雨降りばかりで、経済大国といわれた、かつての面影は見つけるのが難しい。
とはいえ、僕は景気が良かった頃の日本を全く知らない。
父さんから聞いた話では、値上がりしそうな土地を買いまくって、転売転売で不動産長者がたくさん生まれ、高層ビルやマンションがあちこちに建った時代もあったらしい。
ところが、今じゃ不動産を所有していることはリスクに他ならない。
少子化による人口減少に加え、富裕層のみならず中間所得層までが海外流出し始めているから、買い手がいないのだ。
都心部さえも日に日に空き地と廃ビルが目立つようになり、じきに東京が丸ごとゴーストタウンになってしまうんじゃないかと思うほどだ。
これじゃ、富裕層の国外流出防止のために、五十年も前に政府が復活させた華族制度も台無しだ──、って?
あれ? 僕は何を話しているんだ?
日本の経済問題なんか語っている場合じゃなかった。
僕にとっては、今日のこの土砂降りの雨と、麗ちゃんの機嫌のほうがよっぽど重大な問題だった。
とにもかくにも外は、ここのところまれなひどい雨。
殴りつけるように降る雨が窓を叩き、誰もいない九条院家の応接間に響いている。
その広い応接間の大きなテーブルの隅に独りぽつんと座っている僕こと、日々之郁。
この応接間は九条院家での僕のホームポジションだ。
昔は家政婦さんや来客がひっきりなしに出入りして、ここも賑わっていたけど、今はほとんど僕専用になってしまっている。
この部屋を初めて見た幼稚園児の時は、お金持ちって本当にいるんだ、と感動しまくりだったのに。
壁に掛けられた僕の身長よりはるかに大きな柱時計や、そこかしこにさりげなく置かれた不思議な形をしたとても美しい電灯──、それらがアールヌーボの有名な作品と知ったのは随分と後なんだけど、そんな物が無造作に転がっている家に住む麗ちゃんを心から凄いと思った。
今思うと、偶然幼稚園で一緒の組になった僕と麗ちゃんが、高校に入っても、まだ付き合っているのはなんだか不思議な気がする。
麗ちゃんの家は華族だけど、うちは世間並みの平凡な家庭だ。
それに麗ちゃんの好みも、僕とは正反対のしっかりした行動力のある男のはず。
自分で言うのも情けないが、僕は優柔不断の四文字が額を付けて歩いているような男だ。
追随型人間ともいうけど、人のやる事に同調するばかりで、自分から事を始めることがほとんどない。
でも、「優柔不断」って額に入れると、ちょっと立派に見えそうな気もしないかな。
「柔よく剛を制す」、それにどこか、よく似た雰囲気がするかも……。
あっ、また話が逸れてる!
まあ、逆に考えると、そんなところが僕とは正反対の性格の麗ちゃんと上手く折り合っている理由なのかもしれない。
と考えたところで、別に恋人でもなく、ただの親友程度なんだから、とりたてて不思議と思うほどでもないか、と自分ながら得心し、暗い応接間で独りうんうんと頷く僕だった。
そこへ、応接間の電気が点いた。
自分の世界から現実の世界に戻り、居住まいを正す僕。
ドアが開き、誰かが入ってくる。
「郁。あなた、こんな暗い部屋で何してるの? 電気くらい点ければいいのに」
麗ちゃんだった。
彼女がいると、どこにいても場がきりりと引き締まる。
死んだような応接間も、にわかに活気づいたような気がする。
「あ〜、ちょっと節電でもしようかなと思ってさ。この部屋、僕ひとりで使うには広すぎるし」
麗ちゃんの切れ長の目が僕を真っ直ぐに見据えた。
今日の彼女は唇に淡いフロスティピンクの紅。この色は彼女の勝負色だ。
「なに貧乏くさいこと言ってるの。目でも悪くしたらどうするの」
はいはい、どうせうちは君の家に比べりゃ貧乏ですよ。
ってそんな卑屈なこと考えてないで──。
「それより、麗ちゃんは準備できたの?」
麗ちゃんは不機嫌そうに腕組みをした。
「そんなの、見ればわかるでしょ」
見ると、確かに黒のフォーマルスーツに、ネックレスやイヤリングの装飾品も万全で抜かりがない。
彼女は小柄ながら、何を着ても見栄えがする。
「うん、用意できてるみたいだね。じゃあ、行こうか?」
そう言い、立ち上がる。
と、麗ちゃんが早足で近づいてきて、腕を強く引くので、よろけてしまう僕。
「ちょっと! 危ないよ」
「しっかり正装したんだから、郁の感想くらいきちんと言いなさいよ!」
「感想って、麗ちゃんの格好は普段から立派だし」
「なんでもいいから、とりあえず言ってみなさい!」
麗ちゃんが一度言い出したら引き下がることはまれだ。
長いつきあいの僕は、もう嫌というくらい知っているはずだけど、それでも上手く対応できていない僕なのだ。
こういう時は考えてるフリをするのが一番なんだっけ?
僕は少し距離を取り、彼女の全身を眺めた。
顎に手を添えて、スタイリストがモデルの出来映えを吟味してるようなポーズをしてから、一言。
「んー、ばっちり」
麗ちゃんの表情が固まり、沈黙した。
窓を叩く雨風の音が、二人だけの会議室に妙に響く。
それから、一呼吸ほど置いてから、一際甲高い声。
「郁ってば、ボキャブラリー・ゼロなの!」
「だって、ばっちりだよ。非の打ちどころがないし……」
「ふん!」
麗ちゃんはそっぽを向いて、踵を返し、すたすたと歩き始めた。
「さあ、行くわよ! もたもたしないの!」
どうやら、怒っちゃったらしい……。
「悪かったよ! 僕のボキャブラリーが足りなくてさ。ああ……、そ、その口紅、今日は麗ちゃんにとって大事な日なんだね」
あたふたと追いすがる僕を、横目で見ながら麗ちゃんが答えた。
「当たり前でしょ。今日は九条院家の命運がかかってるんだから。郁も心を引き締めなさい!」




