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九条院家の存亡(旧バージョン)  作者: 天川一三
2011年前編
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くつろぎのひととき

 仁科家のマンションに帰り、自分の部屋──、といっても間借りの居候なんだけど、とにかくその部屋に入ると、僕はふうと深いため息をついた。


 部屋は玄関脇で間取りは四畳半。

 窓際には平太の使い古しの木製勉強机と、僕が女の子だからということで、凪沙さんはその横に鏡台を置いている。

 この部屋は、僕が来る以前は大きなタンスが置かれていて、ほとんどクローゼット代わりに使われていたらしい。

 そこを僕のために空けてくれたわけだ。


 時計を見ると既に10時。

 凪沙さんと話した分、いつもより帰り着くのが遅くなってしまった。

 これから宿題もしないといけないし、お風呂にも入らなくちゃいけない。

 ドアの外からは仁科家の人たちが慌ただしく動く音が聞こえてくる。

 でも、僕は凪沙さんをどうにか説得できた安心感からか、まだ動く気がせず、ぺたんと鏡台の前に座りこんだ。

 その鏡台の上には、僕が記憶喪失で倒れていたときに持っていた物が二つ並んである。

 二つとも僕がそのとき履いていたジーンズのポケットに入っていたものだ。


 一つ目は、腕時計のような正体不明の機械。


 外観は角形の男性腕時計のようだが、時間を表示する機能はなく、液晶画面にバッテリー残量か何かを示すメーターと、その下に『CAUTION』と黄色い刻印のある大きめのボタンがあるだけだ。

 あとは液晶面上部にLEDランプのようなものが一つだけ付いているが、光っていない。

 ボタンに書いてるのは『注意』という意味だと思うので、押したことはない。

 押すと悪いことが起きそうな、なんだか嫌な予感がするのだ。

 手にすると結構な重みがあり、小型の爆弾だと嫌だなと思ったりもしている。

 メーターの目盛りは残りあとわずかといったところだ。

 メーターがゼロになったら、ドカンなんてこともあり得るので、本当は捨ててしまえば安全なんだろうけど、本来の僕に繋がるわずかな手がかりの一つなので捨てられないでいる。


 二つ目は、口紅。


 これは普通の口紅らしく、金色の小さな円筒型をしている。

 キャップをはずすと、弾丸のような流線型のスティックが現れる。

 色は桜の花びらのような上品なピンク色だ。

 僕が倒れていた時も、この口紅を塗っていたそうだ。

 とりあえず、学生の僕は使う機会もないので、まったく減っていない。


 僕を取り戻すための手がかりはこの二つっきり。

 腕時計型の機械には、何も感じることはないが、口紅の色を見ていると、なんだか懐かしい人に逢ったような、そんな気がする。

 口紅を手にして、鏡台の鏡面を開いてみる。

 自分で言うのもなんだが、良く整った顔がそこに映り、僕を見る。

 ちょっと伸ばしすぎた前髪をかき分けると、形の良い細い眉と切れ長の目が顕わになる。

 口紅を小さく結ばれた口もとに持っていくが、どうしても紅のひき方を思い出せない。

 結局、何もせずに口紅をまた鏡台の上へ静かに戻し、鏡を見つめた。


 どういう訳か、僕がいちばん心ときめくのは、鏡に映る自分の姿を見るときだ。

 その顔を見ていると、鏡の中の彼女が怒った顔、笑う顔、泣く顔、喜ぶ顔が、脳裏をよぎる。

 自分の顔なんて自分には見えないはずなのに、どうしてだろう、と思う。

 もしかしたら、僕はナルシストなのかもしれないな、とも思う。

 僕が男子に興味を持てないのは、そのせいなのかもしれない。


 そんなことをひとり考えていたら、ドアがノックされた。

「香ちゃん、お風呂あなたの番よ」と凪沙さんの声。

「はい」とすぐに答え、押し入れダンスから着替えを取り出し、浴室へ向かった。


 浴室前の脱衣所に立つ。

 前の人が残した、ぬるい空気をまといながら、服を脱ぐ。

 実は鏡に映る自分の姿を見る以上に、ドキドキするのはこの瞬間だ。

 自分の体なのに、見ちゃいけないような、なんとなく気恥ずかしい感覚。

 でも、脱がないとどうしようもないので、脱いじゃうんだけど、のぞいてはいけないものを見てしまった罪悪感が僕を襲うのだ。

 それと同時にこの体を大事にしないと、という思いもこみ上げてきて、お風呂の時間はいつも長めだ。


 体を洗う時なんかは気恥ずかしさを通り越して、気が遠くなりそうだ。

 見るのと触るのでは別次元なのだ。

 腫れ物でも触るかのような感じで、滑らかな肌を僕は丁寧に洗い上げていく。

 どこまで自分が大事なんだ、やっぱり僕はナルシストなのかな、と再確認するひとときでもある。

 爪先まで洗い上げ、洗い流すと、湯船に口まで浸かりぶくぶくと泡を立ててみる。


 このまま記憶が戻らなかったら、どうなるのだろう?

 永遠に僕は自分が何者だかわからぬまま生きていくことになるのだろうか?

 出生もわからず、家族もなく、ずっとこのままで──。

 そうなってしまったとき、僕はいったい、どんな気持ちなのだろう?


 そんなことを考えるとちょっとだけ憂鬱になるが、今の暮らし自体には特に不満はない。

 だが、それは仁科家の好意に僕が甘んじてるだけなのだが。


 心の迷いが、泡と一緒にはじけてしまえばいい。

 勢いよく湯の中に頭まで沈めてから、立ち上がり、浴槽を出た。


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