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九条院家の存亡(旧バージョン)  作者: 天川一三
2011年前編
18/107

香、男言葉に戻したいの巻

 閉店時間が過ぎ、客がいなくなった喫茶店。

 照明も半分以上落とされ、食器を洗う音だけが店内に響く。

 食器を洗っているのは私と平太だ。

 平吉さんは街灯に照らされたテラス席で掃除と片づけをしている。


 で、私の目当ての、凪沙さんはといえば──、レジで今日の売り上げを確かめているところだ。

 食器を洗いながら、横目で彼女の様子をうかがう。

 細身で身長の割に背が高く見える彼女は、こめかみの辺りを親指の背でこすりながら、伝票を見ている。

 今日の売り上げはやや少なめといったところだろうか。

 ちょっとだけピリピリした表情が離れていても見て取れる。


「今日はイマイチだったようだな」

 横から平太が声をかけてきた。

 彼にしてみれば珍しいことでもないので、なんとも思わないだろうが、今日の私には彼女の機嫌はちょっとした問題だ。


「そうみたいだね」と生返事を返した。

「とっとと終わらせて、早く帰ろうぜ」

 平太がにわかに手を早める。

 彼の家はここから徒歩二十分くらいの場所にあるマンションだ。

 帰り着くのは9時半といったところだろう。

 それから、宿題をやったり、お風呂にはいったりするのだが、平太の目当ては夜のスポーツニュースだ。


「悪いけど先に帰ってて。私はおばさんと話があるから」

「なんの用だよ?」

 平太が手を止め、私を見た。

 とっさに答えられず、というか事情が複雑すぎて説明するのが億劫で、私はそれを無視してわざと大きな音をたてて洗い物に集中しているふりをした。


「ちぇっ、無視かよ。女同士の話なんだな。じゃあ、いいよ先に帰るから」

 ふて腐れたのか、乱雑に洗い物を終えると、平太はさっさと着替えに倉庫に向かった。

 怒らせちゃったかもしれないが、まあ仕方がないな、と私はその背中を見送った。


 凪沙さんを見ると、レジに姿はなく、傍らのテーブルで帳簿を付けていた。

 私は、今だとばかりに、洗い物もそこそこに彼女の所へ歩み寄った。

 凪沙さんが私の気配を感じ、ペンを握る手を止め顔を上げる。

 細く形のよい眉が片方だけ跳ね上がり、その後、

「なに? かおるちゃん」と実年齢の割に若い声で訊いてきた。


「あ……、あの、お話が……」

 ちょっと声が上ずってしまった。

 なんといっても、彼女は私の母親代わりのしつけ役だ。

 私が一年足らずで少しは女らしくなったのも、全て彼女のお陰なのだ。

 これから切り出す話は、そんな彼女の苦労を台無しにするのだから、考えただけで緊張してしまう。


「まあ、そこに座って」とペンを持った手で指し示され、私は彼女の正面席に腰をおろした。

 凪沙さんはすっかり仕事を中断し、首を少しだけ傾げ、私の言葉を待っている。


「あ、あ、あ、あの……」

 彼女の視線を浴びまくり、さっき以上に声が上ずった。

「もう! しゃきっとなさい! 言いたいことがあるならハッキリ言う」

 ついに叱られてしまった。

 三代続く江戸っ子の凪沙さんは、煮え切らない態度が大嫌いなのだ。

 私は少し長くなってきた前髪を触り、気持ちを落ち着かせようとした。

 どうも、自分は緊張すると前髪をいじるクセがあるようだ。

 だが、あまり待たせると凪沙さんもへそを曲げて、話を聞いてもらえなくなる。


 思い切って、本題をストレートにぶつけよう、と前髪から指を離し、

「私のしゃべり方なんですが、元のしゃべり方に戻しちゃダメですか?」と一気に言い、上目づかいに彼女の表情をうかがった。


 鳩が豆鉄砲を食らったような顔で私を見る凪沙さん。

 良くそういうけど、鳩といわず、鳥の表情っていつも一緒に見えるけど。


「香ちゃん。あなた、今なんて言いました?」

 眉根をつりあげ、凪沙さんが睨む。

 ペンをテーブルに置き、帳簿も閉じた。

 これは説教モードに突入だ……。

 一重まぶたの彼女に睨まれると、かなり威圧感を感じる。


「あ、あの。私のしゃべり方を昔のに戻したいと……」

 途中まで言ったところで、凪沙さんがテーブルを平手でピシャリと叩いた。

「ダメです。あなたは女ですよ。男みたいなしゃべり方をしちゃいけません。女の子が『僕』なんてとんでもありません」

「で、でも、そのほうがなんだか自分に合ってるような気がするんです。その他のことはおばさんの言いつけを守りますから……」

 そこまで言って、凪沙さんを見ると、もう彼女は私のほうを見てなかった。

 目を伏せて、てんで話にならない、って感じでまたペンを握り帳簿を開いている。


「どうか、お願いします!」

 私はテーブルにおでこがくっつくくらいに頭を下げた。

 垂れた前髪が彼女の帳簿にかかり、かさりと軽い音をたてた。


 凪沙さんは帳簿の端をコンコンとペンで叩き、

「頭を上げて、香さん。私が、あなたのしつけを厳しくするのは、どう見てもあなたが良いところのお嬢様に見えるからよ。気品というのかな。なんとなくあなたの全身からそれを感じるの。記憶喪失になって、しゃべり方が変になっちゃてるけど、いずれ家族が見つかった時に、そんなじゃ私たちが先方に対して申し訳ないでしょ」

 私はゆっくりと頭を上げた。

 これまで彼女が私のしつけに厳しかったのに、そんな理由があったことを初めて知った。


 けど……。

「でも、おばさん。今の私は私じゃないような気がして、どうにも窮屈で仕方ないんです!」

「いくらあなたのお願いでも、ダメです。女の子は女らしく。その考えを私は曲げません」

 やっぱりダメか、と思い、私が肩を落としかけたとき──。


「母さん。いいじゃないか。俺は前の香のしゃべり方のほうが、彼女が生き生きしてたような気がしたぜ」と横から声がした。

 平太だった。それに、いつの間にか平吉さんも私の後ろに立っていた。

「なあ、お前。香ちゃんがこんなにお願いしてるんだから、無理強いしないで、彼女の好きにさせてみてはどうかな?」

 私の肩を叩きながら、平吉さんが穏やかな声で言った。


 凪沙さんは、突然現れた伏兵たちに一瞬戸惑いの表情を見せたが、

「誰がなんと言おうと、私は私の考えを譲りませんよ。前のしゃべり方に戻れば、学校でもきっと問題になるに決まってます」とかたくなな表情に戻ってしまった。

 平太は凪沙さんの肩をさすり、「学校では俺がそんな事はないように監視してるからさ」と言い、

平吉さんは「私も前の彼女のほうが元気があったような気がするな」と遠い目であご髭をさすった。

 ここは攻めどころだと思った私は、「どうかお願いします。その他のことは前にも増して女らしくしますので」と頭を勢いよく下げたら、テーブルに思い切りおでこをぶつけ大きな音がした。

 その音に凪沙さんの含み笑いが聞こえた。それから、

「前にも増して女らしく、ってなんか変よね。しゃべり方が戻っちゃえば、台無しなのに」とぼやいた。


「なあ、お前。ここはひとつ折れてやってくれないか?」

 平吉さんの懇願に、凪沙さんは疲れ気味の声で答える。

「二人が、以前の彼女のほうが生き生きしてたというのなら、無理強いはできませんね」

 私はぶつけたおでこをさすりながら、顔を上げ、凪沙さんを見た。

 彼女は呆れたような顔で私を見ていた。


 痛いけど、嬉しい──。

 私が笑うと、その顔が少し変だったのか、仁科家の三人も笑った。

 ついに、私──、いや、僕は凪沙さんにしゃべり方を男言葉に戻して良いというお墨付きをもらった。


 しかし、その事が彼女の言うとおり、学校でちょっとした波紋を呼ぶことになるとは、この時は思ってもみなかった。


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