放課後
休み時間のトイレでの出来事の後、なんだか授業も上の空だった。
教科書に目を落としても、黒板に目をやっても、経文でも眺めるような感じで、文字が頭に入ってこないのだ。
平太は教室に戻って以来、私の様子を妙に気にしているようだが、それどころじゃなかった。
右隣の列の真ん中ほどに天瀬さんの後ろ姿が見えた。
彼女の頭の傾きが黒板と机の間を交互し、さかんに腕が動いている。
どうやら黙々と授業に集中しているようだ。
私はこれまで彼女のことは全く気にしたことがなかったが、握られた手の柔らかな感触を思い出すと、今にも天瀬さんがこっちを振り向きそうな気がして、落ち着かなかった。
落ち着かないといえば、記憶をなくしてからというもの、自分の体が自分のものでないような、ふわふわとしたどこか居心地の悪い感触がずっとある。
あと少しで一年になるが、未だにその感触との折り合いがとれていない自分がいる。
窓の外に目を向けると、春のくすんだ青空にはぐれ雲がひとつ、所在なさげに浮かんでいる。
そのさびしげな雲の様子が、どこか自分とだぶるような気がした。
言葉づかいも、平太の母親がしつけに厳しい人で無理して女の子らしくしているが、ついつい自分のことを男の子みたいに「僕」と言ってしまう。なんとなく、そのほうが自分に馴染むのだ。
僕はいったい何なのだろうか?
僕はどこから来たのだろうか?
言葉づかいはもしかしたら、男兄弟の多い家庭で育ったせいかもしれないし、漫画かドラマの登場人物の影響を受けたのかもしれない。
そんなこんなをあれこれ考えていたら、授業終了のチャイムが鳴った。
続くホームルームも、担任の言葉は右から左に聞き流すだけだった。
ホームルームが終わるやいなや、平太が椅子に横座りになり、
「お前さ、あの紙に書いていたこと、本当なのか?」と訊いてきた。
平太の家に世話になった時から、彼が何かにつけ私に気をつかってくれることは気づいていた。
けど、どうしても平太には男友達以上の感情を抱くことはできなかった。
平太は率直で裏表がないので、人としては好きになれても、男として好きになるというのは無理だった。
私はとりあえず、「いや、そんなことは……」と言葉尻をにごして、この場はごまかすことにした。
平太は便所に駆けこんで腹痛から解放されたかのように、幸せそうに大きくため息をついた。
ゴメン、平太。
でも、私は君のことを親友以上の存在には考えられないよ。
彼の安堵の表情を見ながら、心の中で頭を下げた。
平太が「さあ、とっとと帰ろうぜ。今日は店の手伝いだし」と言い、教科書をカバンに放りこむ。
私もまた何かあると面倒なので、そそくさと帰り支度を済ませ、彼と一緒に席をたった。
扉のところで教室を振り返ると、天瀬さんがこっちを見ていた。
私は平太の陰に隠れるようにして、慌てて廊下に飛び出た。
飛び出たところで背の高い女子にぶつかったと思ったら、八島さんだった。
彼女は私を見下ろし、「あなた、女子にも人気あるみたいだから、明日から大変かもね」とふくみ笑いした。
平太が怖い目で彼女を睨んだので、それっきりだったが、彼女が教室に入ると中で何人かの女子の笑い声が聞こえたような気がした。
昇降口に向かう廊下で平太は、「あんなの気にするな。お前が男子にもてるんでやっかんでるだけだし」と吐き捨てるように言った。
「私がもてるなんて、それは平太の思い違いだよ」
彼の早足に小走りになりかけながら否定してみたが、実はこの高校へ転入して以来、男子から交際を申しこまれたことはかなりあった。
憶えているだけでも、両手の指じゃ足りないくらいはある。
おそらく、それが平太の耳にも入ったのだろう。
「まあ、お前がつきあってる男子がいないのは俺がよく知ってるけどな」と平太は鼻を掻いた。
「そうだね」とそれに答える。
一つ屋根の下に暮らしているのだ。
日頃の行動を見ていれば、自ずとわかるだろう。
昇降口で靴を履いている時、平太がぽろりと言った。
「それよりさ。お前、しゃべり方が女っぽくなってきたよな」
「そ……、そうかな?」
「うん。なんか女が板についてきた、って言うと変だけど。そんな感じ」
「だ、だって、女だし。へ、変なこと言わないでよ」
先に靴を履き終えた平太がじろじろと見るので、少したじろいでしまった。
「うちの母ちゃんのしつけのたまものだけど、俺は昔のしゃべり方も新鮮で好きだったぞ」
「本当に?」
「ああ。なんか、あの頃のほうがお前らしかった」
私より頭一つ分は背の高い平太の顔を見上げながら、彼の言葉を反芻した。
あの頃のほうが私らしかった?
その言葉が頭の中でリフレインする。
と、私の頭にある考えがひらめいた。
懸念事項はあるが、自分を取り戻すためには実行するしかない。
「そう、ありがとう」
ちょっと遅れて、私は平太にお礼を言い、笑った。
平太はどうして私が笑ったのかをわかりかねたようで、困ったような表情をした。
優しくて、ちょっと鈍い。
それが平太という人間だ。
二人はすっかり花の散ってしまった桜並木の道を抜け、校外へと出た。




