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九条院家の存亡(旧バージョン)  作者: 天川一三
2011年前編
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ドキドキの休み時間

 教室に戻り、五限の数学が始まった。


 先ほどまでの憂鬱な出来事はひとまず忘れ、私は授業に専念することにした。

 教師が次々と数式を黒板に書くのを目で追っていく。

 今では、すらすらとそれらを理解できるのがちょっと嬉しい。


 というのも、この高校に転入した昨年の初夏は、記憶喪失の後遺症で勉学するにも支障があり、進学が危ぶまれていたのだ。

 だが、一ヶ月もすると、どういう訳か見違えるほどのスピードで学力が向上し、どの教科も成績は学年トップクラスに入るようになった。

 その様は教師たちの間で、「日比野さんは実はすごいIQなんじゃないか」と噂になるほどだった。


 そのことには私自身も驚いた。

 本当に色んなことが頭にどんどん入り、ほとんど忘れないのだ。

 だが反面、記憶を失う前のことは全然思い出せないでいる。

 今の名前、日比野香ひびのかおるも仮の名前だ。確かこんな名前だったような気もするのだけど、なんとなく字が違うような気もしないでもない。

 でも、いつかはその記憶も戻るだろう。とにかく目の前の授業に集中することだ。


 気を引き締め、教科書に目を落としていると──。

「おい、これ見てみろよ。香」と隣から声。

 横を向くと、いたずら小僧のような茶目っ気のある目で一人の男子がちらちらと私を見ている。

 腹の辺りで小さな紙をひらひらさせながら。


 仁科平太にしなへいただ。


 実は私は彼の家に居候として住まわせてもらっている。

 どうしてかといえば、空き地に倒れている私を最初に見つけてくれたのが、彼の両親だったのだ。

 介抱して私が記憶喪失であることを知った二人はすぐに住所を捜しあてると言ってくれたが、その住所を調べるにも手がかりが、私が憶えている『ひびのかおる』という名前しかなかった。

 それでも彼の両親は役所をあちこち巡り調べてくれたのだが、残念ながら何の結果も得られなかった。

 困り果てる私を見て、二人は施設にあずけるには忍びないと、記憶が戻るまで家に私を置いてくれることにしたのだ。

 そんな訳で、私は平太と同じ屋根の下に暮らしている。

 しかし、二年に進級してクラスが同じな上に席が隣になるとは思ってなかった。


 その平太が教師に見つからないように、手を低く伸ばし、紙を寄こしてきた。

 私が受け取り、それを見ると、『女子がなんか紙を回してるぞ』とクセのある字で書いていた。

 平太の顔をもう一度見ると、彼は私にウインクして、私の前の井原いはらさんの席をこっそり指さした。

 彼が指し示すほうを見てみると──、その井原さんが右隣の女子に紙を回すところだった。 

 そこは平太の席の前で、彼はすかさず身を乗り出し、その紙を井原さんからかすめるように取り上げた。

 井原さんは血相を変えて、取り返そうとしたが、授業中なので騒ぐわけにいかず、すぐに諦め平太を睨みつけた。


 平太はそんな彼女の視線など気にもせず、紙を広げた。

 その途端、彼の大きな声が教室に響いた。


「なんだよ、これは!」


 その声に教師を始め生徒全員の注目が平太に集まった。

 すぐに教師が平太を見とがめ、彼は廊下に立たされることになった。

 その間際、平太は井原さんから取り上げた紙を私に渡してくれた。

 それを見てみると──、


 じゃーん、クラスの女子の皆さん、大スクープです。

 日比野香さんは、なんと、同性愛者なのです。

 ※百合、もしくはレズっていうのかな?

 本人から直接聞いたので間違いなしだよ!

 意外というか、男子諸君はご愁傷様!

 とにかく、この紙を日比野さん以外の女子に回覧すること!


 私は頭を抱えた。予想したとおりの展開だが、もうですか、と正直思った。

 私と平太は一番後ろの席なので、既にほとんどの女子には紙が回ったのだろう。

 そして、その紙の影響は、五限後の休憩時間に早くも現れたのだった。


 ◇◆◇


 休み時間、平太は教師に職員室へ連れていかれたのか戻ってこない。

 私が次の授業の準備をしていると、あちこちから視線を感じた。

 早速女子たちは、私の様子をうかがっているようだ。


 そんな中、一人の女子が私に近づいてきた。

 天瀬青華あませせいかさんだ。

 ちなみに天瀬さんとはクラスが一緒になったばかりなので、私は彼女のことはほとんど何も知らない。

 その天瀬さんが、「日比野さん。一緒にお手洗いに行きません?」と訊いてきた。

 そもそも一緒にトイレに行くこと自体、私は少し抵抗があるし、女子トイレに入ると何故かドキドキする。

 これも記憶喪失のせいだろうか、と思うのだけど、女子トイレがまるで別世界のように思えて仕方がないのだ。

 そんな訳で、返答に窮して躊躇していると、天瀬さんが机の上に置いていた私の手を握り、その手を引いた。


「ねえ、行きましょうよ」

 私はびくりとして、思わず、天瀬さんの顔を見上げた。

 これまで、彼女のことを気にしたことがなかったが、可憐な線の細い美少女といった感じだ。お人形さんのような、さらさらの長い黒髪が良く似合っている。

 優しく握られた手を振りほどくこともできず、仕方なく私は彼女についていった。

 天瀬さんのひんやりした手を、どこかこそばゆく感じながらトイレに入ると、そこは女子でひしめきあっていた。


 ああ、なんか落ち着かない。

 どうして、トイレでこんなに沢山キャピキャピしてるんだよ……。


 私は目のやり場に困って入り口付近で天井を見上げていた。

 すると、天瀬さんが息使いも分かるほど間近に近寄り、

「日比野さん、私のことどう思います?」と今度は両方の手で私の手を包み、じっと見つめてきた。

 どうもこうも、良く知らないし……、と間近に見る彼女の顔に圧倒され、私は息を飲み、返事もできなかった。


 黙りこくった私を見て、天瀬さんは、

「私じゃダメですか?」と握る手に力をこめた。

 返事に困った私は思わず、その手を振りほどいてしまった。

 すると、天瀬さんは、

「やっぱり、日比野さんの好みじゃないんですね」と悲しげな目をした。

 その悲しげな顔になんだかいたたまれなくなり、「いや、別に、そんなことは……」と取り繕ってしまった。

 その途端、天瀬さんの顔が輝き、

「じゃあ、私のことを今後は青華って呼んでください。私も日比野さんのことを香って呼びますから」とまた手を握られた。


 穴が開くほど天瀬さんに見つめられ、たじろぐ私。

 なんだか、すごくドキドキするけど、このドキドキはどういうドキドキなのだろう?

 でも、とにかく今は、ここからすぐにでも逃げ出したい、と思う僕──、いや、私だった。


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