リバース
格納庫に降りると、軍人と話していた七瀬が気付いて、声をかけてきた。
「マスターカオル、積もる話は済みましたかな?」
「それどころじゃないんだ、七瀬。こいつをすぐに動かさないと」
麗ちゃんが、七瀬の横の大きな楕円形の装置を指さす。
「精神再構成装置をですか? 今日は予定が入っていないのでオペレーターは待機になっておりますが」
「じゃあ、とにかく急いで準備して。郁は僕より深刻かもしれない」
「カオル……、ああ、そっちのお嬢さんの方ですね。ややこしいですなあ。しかし、そんな緊急事態なのですか?」
「郁は二回も記憶喪失になっているらしいんだ。いつ時空転移症候群が発症しても不思議じゃない」
「二回も……?」
七瀬は目を丸くした。
それから、僕を不思議そうな顔で見たので、僕は「へへっ」と笑った。
「七瀬、僕も郁と一緒に処置するから、よろしく頼む」
そう言いながら、麗ちゃんは楕円形の装置を操作した。
圧搾音と共にドアが開く。
「マスター、あなたもですか? 万が一のことがあったらどうするのです?」
七瀬は麗ちゃんに駆け寄った。
「大丈夫さ。実用試験はもう随分数をこなしたじゃないか」
「しかし、事故でも起きたら……」
「その時はその時さ。僕にもしものことがあった時は、クロノスクラブのことは君に任せるよ」
楕円形の装置に乗り込みながら、麗ちゃんは七瀬を指さした。
七瀬は苦々しい顔で、
「そうですか。マスターが一度言い出したら引きませんからね。それなら、了解しました」と言ってから、立ち去った。
「さあ、郁もおいで」
麗ちゃんの長い腕が伸び、僕を装置の中へと引き上げた。
装置の中はシグマのタイムマシンとは違い、かなり広く、ベッドが四つ並んでいた。
壁には計器らしい物が埋め込まれており、緑や赤のライトがあちこちで点灯している。
僕は初めてタイムマシンに乗った時を思い出し、かなり不安になってきた。
「ねえ、麗ちゃん。本当にこの装置は大丈夫なの?」
「大丈夫だよ。実用試験は終わってるからね」
「実用試験……? それってどんな試験なの?」
「戦争や事件で心的外傷後ストレス障害、いわゆるPTSDになってしまった人の治療に利用したんだ」
「……うーん、難しくてよくわからないや」
「じゃあ……、えーとね。戦争の恐怖体験で心にトラウマができた人の、そのトラウマ、つまり悪い体験記憶を取り除く、って言えばわかるかな?」
「うん、なんとなく。でも、そんなことってできるの?」
「この装置は記憶の中にある強いストレスを検索して、その記憶に関連する部分を消去するんだ」
麗ちゃんはすらすらと説明するけど、やっぱり僕には難しい。
でも、麗ちゃんの顔を見ると不安そうにしてないし、大丈夫なんだろう。
僕はそう思うことにした。
「とにかく大丈夫なんだね?」
僕がそう訊くと、麗ちゃんは僕の手を強く握った。
「もちろんさ。郁が心配することはない」
真っ直ぐに僕を見つめる麗ちゃん。
「ところでさ、七瀬がマスターカオルって麗ちゃんのことを呼んでたけど、あれは何?」
「ああ、あれね……。実は……この世界では僕の名前は日々之郁にしてるんだ」
「えっ、僕の名前を?」
「そう。勝手に使っちゃってごめんね」
「いいよ。僕も麗ちゃんの名前を使わせてもらってるし。お互い様じゃん」
二人で見つめ合い、笑う。
麗ちゃんが視線を外し、ポツリと呟く。
「思えば、こんな風に郁と二人でタイムマシンに乗った日から、随分経つなあ……」
「まあ、篤が割り込んできたから、二人きりだった時間はかなり短かったけどね」
僕らの非日常が始まった、タイムマシンを初めて見たあの日──。
僕にはそんな昔ではないが、麗ちゃんにとっては五十年以上も前の出来事だ。
麗ちゃんは五十年間もこの世界でどうやって生きてきたのだろう……?
「ねえ、麗ちゃんは今の僕を見てどう思う?」
「そうだなあ……、とても難しいけど、強いて言えば、高校の同窓会で古い親友に会ったような気分かなあ?」
「そうか……、僕にはよくわからないな、そういった気分は。でも、これからはいつでも会えるよね? 僕、九条院グループの経営も勉強しないといけないし」
「そうだね。郁には頑張ってもらわないと」
「麗ちゃん、これからはずっと一緒だよ」
「うん、ずっと一緒だ」
僕は麗ちゃんとまた手を繋いだ。
その時──、装置の計器から甲高い機械音が鳴り始めた。
開いたドアから白衣を着た外人が三人、中に入ってきた。
「じゃあ、郁はそっちのベッドに横になって」
麗ちゃんに指示され、僕はベッドの上に乗った。
隣を見ると、麗ちゃんもベッドに横になっている。
「郁──」
「何、麗ちゃん?」
「もう一度、郁と二人で学校とか行きたかったな」
「僕もだよ。二人で高校に行ってた頃がすごく懐かしいよ」
「本当に──。あの事件の前に戻って、もう一度、郁と学校で勉強したり、遊んだりしたかったな。ただ、二人で一緒にいて、二人で一緒に街を歩いて、二人で一緒にコーヒーを飲んだりして、二人で時を重ねて……」
「ねえ、麗ちゃん。また、二人で学校に行けたりしないかな?」
「そんなことができたら、夢のよう…………」
「本当にできないのかな?」
「…………」
麗ちゃんは何か考えているのか返事がない。
白衣の外人が作業する音だけが、僕たちの間を埋めた。
しばらくして、麗ちゃんが横を向き、僕を見た。
「郁、じゃあまた後で」
親指を立て、ウィンクする麗ちゃん。
絶対に口にはできないが、篤の顔なのでちょっと気味が悪い。
「うん、また後でね」
僕も同じく親指を立てる。
白衣の外人がコードを何本も壁の計器に繋げた後、僕にヘルメットみたいな物をかぶせた。
ヘルメットはすっぽりと頭全体を覆うようになっており、外が見えないし、音も聞こえ辛い。
暗闇の中、僕は考える。
この後、一体僕はどうなるんだろう?
思いがけない展開で、少しの不安は残っている。
けど、隣に麗ちゃんがいるだけで、未来に戻る時の絶望感に比べたら、今は百倍マシだ。
麗ちゃんと歩んでいくこれから、僕の人生はどうなるのかな?
ドアの圧搾音が聞こえたような気がした。
そのすぐ後、僕の頭の中は真っ白になった──。
◇◆◇
「お嬢様! 急がないと! 講義に遅れちゃいますよ!」
千春さんが大騒ぎだ。
僕は着慣れないタイトスカートとグレーのスーツに手こずっている。
「ねえ、千春さん。大学ってこんな服じゃないとダメなの? もう入学式は終わったのにさ。タイトスカートは歩きにくくて苦手なんだけど」
「ダメです。九条院家のお嬢様がだらしない格好なんか、この千春が許しません!」
千春さんは鼻息も荒い。
僕が今年どうにかこうにか大学に進学することができたのも、千春さんが面倒を見てくれたお陰だけど、毎日こんな格好じゃ息苦しい。
「はい、用意できましたよ! バッチリです!」
千春さんが僕のスーツの両襟をピッと引く。
「ありがとう、千春さん。でも、僕もっとカジュアルな服がいいなあ、なんて……」
「ダメです! 絶対ダメ! そんな格好を勝手にしたら、一緒にお風呂ですからね」
いつの頃からか、千春さんと一緒にお風呂がすっかり罰ゲームになっている。
でも、罰ゲームじゃなくても最近は一緒に入ってくるクセに……。
呆れた僕が部屋を出ようとしたら、千春さんに呼び止められた。
「おっと、大事なことを忘れてました。お嬢様、これこれ!」
千春さんの手にはフロスティピンクの口紅。
この口紅は僕の大事な行事には欠かせない一品となっている。
「今日は大学最初の講義ですからね。お嬢様、じっとしててください」
千春さんが口紅を塗る。
「お嬢様、どうしていつもアヒル口になるんですか! 塗りにくいですよ!」
「だって、なんか口紅って慣れなくてさ」
そんなこんなで、どうにか口紅を引いてもらい、僕は姿見で自分の顔を確かめる。
うん、なんだか気合い入った!
「では、では、お嬢様、今日も勉学に励んでくださいましね。九条院の将来はお嬢様にかかっているのですから」
メイド姿の千春さんに玄関先で見送られ、僕は車に乗り込む。
「お嬢様、最近の千春はなかなか手厳しいですな」と運転手の大間さんが笑う。
疲れた顔で僕はそれにうなずく。
そして、車は九条院邸を出て、大学へと向かう。
◇◆◇
大学で初めての授業。
階段みたいに後ろの方が高くなっている講義室に入る。
生徒はまだあまり来てないようで、みんな離れて座っている。
僕はどこに座るか迷ったが、記念すべき最初の授業だし、一番前に座ることにした。
一番前の列には、一人だけ女子生徒がいた。
わざわざ離れて座ると毛嫌いしてるみたいだし……。
友達も作らないと──。
そう思い、僕はその女子の隣に座った。
人の良さそうな感じのその女子は、ペコリと無言で頭を下げた。
「僕、九条院麗って言うんだ。これからもよろしくね」
僕の挨拶に、女子が驚く。
「僕……?」
「あああ……、僕、ちょっと変な口癖があってさ。おかしいかな?」
千春さんも直せなかった僕のこの言葉遣い。
初めての人は戸惑う人もいる。
「いえ、おかしいというか……、ちょっと面白いですね」
その女子は口に手を添え、小さく笑う。
おかしいと面白いってどう違うんだろう?
けど、優しそうな人だ。
友達になれるといいなあ。
そんなことを考えた。
それから、僕らは少し話した。
しばらくすると、講義室は人でいっぱいになった。
振り返り、後ろを見上げると、見るからに女子生徒が多い。
男子生徒は肩身が狭そうに端に集まっている。
柔らかい音でチャイムが鳴った。
講義室の喧噪がすっと引いていく。
横のドアから、先生が入ってきた。
男の先生だ。すごく背が高い。
先生が教壇に立つと、女子生徒がざわめいた。
僕は一番前にいるので顔もよく見える。
俳優みたいな超イケメンの先生だ。
これじゃ、女子生徒も騒ぐはずだ。
もしかしたら、女子生徒が多いのもこのせい?
部屋が騒がしいので、先生は咳払いを一つして、
「はい、みんな静かにして! これから君たち最初の経営学の講義を始めるよ」と教壇を叩いた。
先生が前を向いた時、僕ともろに目が合った。
先生は僕を見ると、一つ頷いてから、真っ白な歯を見せ爽やかに笑った。
しかし、どういう訳か、僕はその笑顔がすごく苦手な気がした。