時空転移症候群
すぐそこに麗ちゃんが立っている。
本物の麗ちゃん(姿は篤なんだけど)を目の前にして、僕は返す言葉に詰まってしまった。
やっと会えたのに、何か話しかけなきゃ、と気が焦るばかりだ。
僕はわさわさと前髪をいじってから、ようやく「やあ」と同じ言葉を返した。
麗ちゃんの姿は、最後に会ったタイムマシンで別れたあの夜と、さほど変わっていない。
すぐに気付く違いは、学生服ではなく、高級そうなスーツを着ていること、それと髪型が変わっていることくらいだ。髪は今はオールバックでまとめている。
姿は変わらないけど、麗ちゃんは僕が知らない五十年をこの世界で生きてきたんだ……。
智晶さんとの再会でも感じたプレッシャーが僕を襲い、戸惑わせる。
かける言葉が見つからず立ち尽くしていると、麗ちゃんが僕の肩を叩いた。
「郁……、郁だよね?」
「うん……、そうだよ」
うなずき、麗ちゃんのスーツの袖を引く。
「長かったなあ……。けど、郁の方はそんなに時間は経ってないんだよね?」
「うん……、ごめんね。一人だけで未来に戻っちゃって」
「郁が謝ることはないよ。僕がそうしたんだし、それに僕にとっては随分と昔のことだしさ」
麗ちゃんの言葉に耳を傾ける。
彼女の言葉は以前のようなオカマ言葉でなく、しっかりした男の言葉になっている。
「郁、ここは暗いから、甲板に上がろう」
麗ちゃんが動いた。僕もそれに続いた。
◇◆◇
甲板に出た。
午後の日差しがとても眩しい。
波の音と風の音。
僕のスカートが風にはためく。
麗ちゃんは眩しそうに太陽を見上げた。
その顔は若々しい。とても五十年もの年月が経過したとは思えない。
これが七瀬の言うタイムマシンの影響なのか──?
いや、これまでの出来事自体が夢だったんじゃ?
そう錯覚してしまう気がするほどだ。
麗ちゃんが向き直り、僕を見た。真っ直ぐに。
「また、郁に会えて嬉しいよ。もう会えないと思ってたからね」
「僕もすごく嬉しいよ。本当に麗ちゃんだよね」
「そうだよ。残念ながら体は篤のままだけどね」
麗ちゃんが苦笑いする。僕の苦手な笑顔だ。
「どう? 郁から見て、僕は昔と変わってる?」
僕は一歩引いて、じっくりと篤の体の麗ちゃんを見回す。
「うーん、びっくりするほど変わってないね」
「そう言う郁も変わってないよ。それにしても、昔の僕ってこんなに小さかったかなあ?」
麗ちゃんが少し膝を折って、僕を眺める。
「篤の体がでかすぎるだけだよ」
「ははは、そうかもね」
麗ちゃんが可笑しそうに笑い、
「でも、篤の体もすっかり僕の体さ」と自分の胸を叩く。
「そういえば、篤はあれからどうしたの?」
僕の質問に麗ちゃんの表情が陰る。
「篤……。それについては、後で詳しく話さないといけないな……」
「何かあったの! もしかして、タイムマシンの影響で一気に老化しちゃったとか?」
「七瀬から聞いたんだね。いや、そういう訳じゃないんだけど……。とにかく後で話すよ」
「ねえ、七瀬の話って本当なの?」
麗ちゃんは大きな掌で、僕の頭を撫でた。
「郁は心配しなくていいよ。テロメアの異常で若いままでいるから、その逆もまたあり得るというのは、現状ではあくまで理論上の話だし。それについては、僕らも研究している」
「僕ら……?」
「そう、クロノスクラブさ」
「ねえ、クロノスクラブって何なの? ある人からミニ国家みたいなものって聞いたんだけどさ」
「クロノス──、それは時を司る時空神。ミニ国家か……。ちょっと大袈裟だけど、僕らは日本の経済にも裏側から関与してたからね。アメリカの力も借りて、以前と違う未来にどうにか導いたけど、経済はともかく科学進歩は21世紀初頭と大差がないのが反省点かな」
「時を司る神様って、タイムマシンのこと? さっき、下で見たのがそうなの?」
「ああ、あれ? 図体はでかいけど、柴久万の作ったタイムマシンに比べれば、おもちゃみたいなものだよ」
「シグマに作らせればいいんじゃない? あいつ、ビューティーサロンみたいなのやってるだけだし」
「いや、あいつにはもうタイムマシンは作れないんだ……」
また、麗ちゃんの顔が曇る。
「どうして? 絶好調で暢気そうにしてるのに」
「あいつは自分の記憶の一部を消してしまったんだ。タイムマシンの設計に関する記憶をね。自分の作った装置で」
麗ちゃんのスーツが強い風にたなびく。
その後ろ、戦闘機が爆音を轟かせ走り抜けた。
「えっ、そうなの? 僕、あいつに会ったんだけど、そんな風に見えなかったけど」
「だろうね。あいつ、あんな風だけど本当に天才で、記憶の一部だけをスポットで消すことに成功したんだ」
「でも、タイムマシンの技術応用で、アンチなんとか……、アンチエージングだっけ? をやってるって聞いたんだけど」
「それは詐欺だね。そうじゃなきゃ、あいつがそう思い込んでるだけさ。あいつの頭からタイムマシンを作る記憶だけはすっかりなくなってるはずだよ」
「どうしてまた、そんなことを?」
「スパイに命を狙われたりするからだよ。あいつ以前の未来からも、その理由で過去に逃げてきたよね」
そういえば、タイムマシンで僕が未来に帰る夜、そんな事を言ってたような気がする。
「小心者なんだか、大胆なんだか良くわからない奴だね。柴久万は」
呆れ顔で麗ちゃんがため息をつき、それから腰をかがめ、僕の顔をじっくりと見た。
「ところで、郁はいつこっちの世界に戻ってきたんだい?」
「うーんと、一年くらい前かなあ。僕それからずっと記憶喪失だったし」
この言葉に、麗ちゃんは酷く驚いた顔をした。
「えっ! また記憶喪失になってたの? どうして?」
僕は頬を掻きながら答える。
「ああ、帰りのタイムマシンでヘルメットをしなかったんだ。相変わらず、僕っておっちょこちょいだと思うでしょ?」
ここで麗ちゃんは笑うと思ったが、見るからに困惑した顔をしている。
「どうしたの、麗ちゃん? 変な顔してるけど」
麗ちゃんが僕の両肩を掴む。
「郁。落ち着いて聞きなさい」
「うん。何?」
「実はタイムマシンの影響は、老化に関するテロメア異常だけじゃないんだ。人格の入れ替わりがあった人間には記憶の混濁という現象が起きるんだ。そういったタイムマシンによる人体への影響を、僕らは時空転移症候群と呼んでいる」
「時空転移症候群? 記憶の混濁? それって、どういうこと?」
麗ちゃんの掴む肩が痛い。
「篤は今、記憶の混濁で病院で寝たきりになっているんだ……」
篤、その姿は昔の僕。
その篤が、病院で寝たきり?
「それっていつ頃からなの?」
「昨年の五月くらいだったかな? 訳のわからない事を言うようになったと思ってたら、突然倒れたんだ」
「篤に会えるかな?」
「篤に会うって、それよりあなた、二度も記憶喪失になってるし、とにかく早急に処置しないと」
「ええーっ! 麗ちゃん、処置ってできるの?」
僕の問いかけに、麗ちゃんは大きくうなずいた。
「うん。さっき話した、記憶の一部を消す柴久万の装置を使えば症状を止めることができる。脳に二つの人格があることで負荷がかかっているのが原因だろうというのが、クロノスクラブの研究結果なんだ。だから、記憶の一部を消してその負荷を軽減するのさ」
「麗ちゃんは大丈夫なの? 心配だよ。処置は済んだの?」
「いや、僕はまださ。柴久万はこの装置の設計も記憶から消しちゃったので、装置を米軍で解析して、最近になってようやく実用可能になったのが、下のあの大きな装置だよ」
「あれって、タイムマシンじゃないんだ?」
「図体はでかいけど、記憶を消すだけの装置なんだ」
「とにかく手遅れになったら終わりだし、急ごう!」
麗ちゃんが僕の手を引く。
「麗ちゃんも処置するの?」
「もちろんさ」
力強くうなずく麗ちゃん。
唐突な話に不安でいっぱいだったが、麗ちゃんも一緒ならと僕は腹をくくった。
陽光溢れる甲板から、僕らは再び仄暗い格納庫に降りた。




