九条院おじさんと僕
夕方、九条院家に戻ったところ、血相を変えた千春さんの熱烈な出迎えがあった。
「お嬢様! また、勝手に出歩いて! ほんと、困ります!」
相当怒っているようで、喋る度にふわふわした髪がゆさゆさ揺れる。
「ごめんよ。急ぎの用事があったんだ。今後は気をつけるからさ」
「もうっ! 騙されませんよ。いつもそうなんですから! 今度、勝手に出歩いたら一緒にお風呂ですからね!」
「え──っ、何それ?」
言ってる意味がよくわからないが、一緒にお風呂が罰ゲームらしい。
それより考えたいことがあるので、千春さんのお小言に付き合ってる暇はない、と二階に上がろうとしたら──。
「お嬢様、米良さんという女の方からお電話がありましたよ」と千春さん。
そういえば、智晶さんにも、会長さんにクロノスクラブのことを聞くように頼んでいた。
おそらくその件だろう。
千春さんが折り返しの連絡先を承っていたので、メモをもらい、部屋に上がった。
智晶さんに電話したところ、すぐに彼女が出た。
「もしもし、智晶さん。麗……じゃなくて、えーと、香です」
『ああ、香ちゃん? 帰ってきたんだ。でさ、この間の件なんだけどさ……』
「クロノスクラブについてわかったんですか?」
『うーん、ご免。やっぱり、関係者じゃない人には絶対教えられないって。まあ、この間も言ったように政治連盟の会長さん自身も直接クラブを知っている訳じゃないしね』
「確か、顧問弁護士さんに取り次いでもらっている、って話でしたよね?」
『そうそう、だから、ご免ね』
「じゃあ、七瀬さんでしたっけ? その弁護士さんの事務所って教えてもらえません?」
『えっ! 香ちゃん、どうするの? その事務所に香ちゃんが行くの?』
「はい。誰から教えてもらったとか絶対に言いませんから、お願いします!」
『どうしても、九条院君に会いたいんだね。香ちゃん』
「はい、絶対に会いたいです」
『わかったよ。ちょっと待ってて……』
智晶さんは名刺かアドレス帳でも見に行ったのだろう。通話が途切れた。
しばらくして、僕は七瀬弁護士がいる法律事務所の住所と電話番号を教えてもらった。
事務所は九条院銀行の本社からほど近い日比谷にあるようだ。
「じゃあ、智晶さん、また時間ができたら会いに行くね」
『うん、楽しみにしてるよ。じゃあね』
受話器を置き、今日得た情報を整理してみる。
クロノスクラブはミニ国家のようなもの。関わらないほうが良い。
クロノスクラブは区内にある。
僕はその場所を、幼い頃、麗ちゃんと社長ごっこをやった有明のビルではないかと思っている。
そのビルには三十三階が存在するが、エレベータではその階には行けない。
偶然見た、そのビルの屋上に着陸した謎のヘリコプター。
クロノスクラブと古美術商政治連盟との間を取り次いでいる七瀬という弁護士。
その弁護士の事務所は日比谷にある。
「よし! 次は弁護士事務所だ。絶対に見つけるよ! 麗ちゃん!」
拳を握り締め、気合を入れた。
それから、洋服ダンスを開き、
「ジャージ、ジャージ、あれ、ジャージがないよ?」
って、そういえば、ここにはそんな物は元々なかった。
仕方なく部屋着に着替えた。
ベッドにごろりと転がり──、
麗ちゃんの顔を思い浮かべる。
とはいえ、思い浮かべるなんて、実際は必要ない。
鏡を見れば、それが麗ちゃんの顔なのだから。
けど、探している麗ちゃんは五稜篤の姿。
麗ちゃんの心はそこにある。
想像の中で、ニヤリと麗ちゃんが笑う。
それは、僕のとても苦手な顔だった。
◇◆◇
九条院のおじさんが帰ってきて、夕食が始まった。
おじさんは娘の記憶が戻ったと思っているせいか、どこか上機嫌だ。
「麗、記憶も無事戻ったことだし、学校にもまた行かないとな」
「うん、おじ……、いやお父さん。僕も学校に行きたいよ」
「そうか、そうか。学校にも行って、その言葉遣いも千春に直してもらったら、全ては元通りだな」
「旦那様、そうですね」と千春さんはおじさんにワインのお替わりを注いだ。
僕はそれを見ながら、ちょっと気にしていることを訊く。
「ねえ、お父さん、僕は九条院銀行を継がないといけないのかな?」
「そうだなあ。お前のお爺さんは、そうすべく厳しくお前に教育してきたんだが……」
おじさんはワイングラスを置くと、神妙な顔をした。
「私はお前が元気なのが一番だ。今回の件でそれが身にしみた」
「じゃあ、僕は銀行を継がなくていいの?」
「まあ、大学にでも行って、経営の勉強をしてから考えなさい」とおじさんは微笑んだ。
「大学かあ……。受かるかなあ……」
現実的に考えて、そういう問題もあるのか……。
勉強嫌いな僕はちょっと憂鬱になった。
「千春。給金ははずむから、麗の受験勉強もよろしく頼むぞ」
いきなり振られた千春さんは大慌てだ。
「いや、あの、私にお嬢様の教育なんて無理ですよ!」
「そう言わずに、千春。麗のことは信頼できるお前にしか頼めん。よろしく頼んだからな」
「……あっ! はい! この千春、精一杯頑張らせていただきます!」
もの凄い勢いで頭を下げる千春さん。遅れてふわふわした髪が落ちてくる。
大財閥の社長にこうまで言われては、受けざるを得ないだろう。
その様子を見てひとしきり笑った後、大事なもう一つの気がかりについて切り出す。
「ねえ、お父さん。お父さんはクロノスクラブって知ってる?」
おじさんのフォークを動かす、その手が止まる。
「お前、その名前をどこで?」
「友達から聞いたんだけど、ちょっと気になって。お父さんは知ってるの?」
「まあ、大会社の経営者なら名前くらいは聞いたことあるだろう。どうせ、M資金のような都市伝説みたいなものだろうさ」
おじさんの目をじっと見たが、知っているとも知らないとも言える微妙な感じだ。
あまり、僕の方を見ようとしない。
「ねえ、M資金って何?」
「ああ、M資金は会社に莫大な資金を融資するから、紹介料を寄越せという詐欺話さ。たまにそういった詐欺に引っかかる経営者もいるんだから、お笑い種だよ。噂では戦後の略奪財宝を原資に使った巨大な資金が実際にあるとも聞くが、そんな上手い話があるものか」
「へえー、そんな話もあるんだ」
僕は退院したばかりのおじさんにこれまでみたいに心配をかけたくないので、話はそこまでにした。
七瀬という弁護士を捕まえて情報を聞き出すこと、これが優先事項だ。
食事を終え、食堂を出ようとすると、おじさんが声を掛けてきた。
「麗、クロノスクラブだったか? あまり、そんな話に構うな」
振り向き、「うん、わかったよ」と僕は笑って答えた。