一緒にいてあげる
アズサを引っかかない、を選択した場合の世界
【現在、七月三日】
ガラリ、と戸を勢い良く開けた。
壁一面に大量の写真が展示されているのはどうやら変わっていないようで、真っ暗な室内に学校中の風景が張り巡らされている。
「やぁ、待ってたよ、梓君?」
唐突に闇の中からアズサの聞き慣れた声がした。
どうやら部屋の中央に置いた机に腰掛けているらしく、ぼんやりと見える人影がひらりと手を振る。浮べている表情は見えないが、きっといつもの能面顔ではないはずだ。
「……こんばんは、アズサ先輩」
後ろ手に写真を隠しながら、梓も闇の中へと言葉を返した。
そっと室内へと入る。
「……もう少し、警戒したほうが良いと思うよ」
呆れたようなアズサの声が響く。
微かに眉根を寄せた梓のすぐ後ろで、バンッと盛大な音を立てて戸が閉まった。
「っ」
「もう開かないよ?」
振り返りかけた梓の先を読むように闇から笑いを含んだような声が聞こえた。
「まぁ、出してあげる気もないけどね」
ということはやはり、これもアズサの仕業なのか。
「あぁ、こんなに暗いと梓君には何も見えなくなっちゃうのか」
独り言が聞こえたかと思うと今度は唐突に蛍光灯の灯りが点いた。
暗闇に慣れてきていた瞳に強烈な白い光は眩しく、梓は目を細める。
霞む視界の中、アズサがゆっくりと近づいてくるのが見えた。
それはまるで終焉を告げる死神のようで――。
「ち、近づかないでくださいっ」
反射的に梓は写真の隅と隅をいつでも破けるようにして持ちながら前へと突き出していた。
回復した視界の真ん中でアズサの動きが凍りついたように止まるのが見えた。その顔が心底傷ついたように、歪む。
「――君は僕をいらないというんだね」
「ちがっ――」
間違えた、失敗した。
取り返しのつかない失態に梓の身体から血の気が引く。
こんなはずではなかった。
ちゃんと話して、納得して――それで。
思考が停止する。目の前がくらりと歪んだ。
――――それで、私は、アズサ先輩に何を告げようと言うの?
前に突き出していた手が唐突に浮かんだ冷たい疑問に竦む。
「なら、」
それを見咎めたアズサが素早く近寄って梓に手を伸ばした。
「僕と一緒に怪異に取り込まれてくれよっ」
悲痛と憤怒。紅くて蒼い叫び声と共に梓の視界がぐらりと一変する。
何が起きたのかすぐには理解できなかった。
「なんで? 君なら、君なら……」
上のほうから降ってくる声。
後頭部と背中がずきずきと鈍く痛んだ。
「僕のことを理解してくれると思ってたのに――」
細い、しかししっかりとした大きさの少年の手が、緩く梓の首筋に触れる。
そこでようやく梓は自分の身体に馬乗りになったアズサが、自分の首を絞めようとしていることを認識した。
「ぁ」
×へと恐怖をちらつかせる瞳の中を見て満足そうにアズサは嗤う。
レンズの向こう側の瞳はいつも以上に底なし沼のような暗さだった。
光が、全く、ない。
「馬鹿だね、何で見つけてすぐに破かなかったのさ? 常和君の話聞いたんだよね? 今の僕は『怪異』そのものといって差し支えない存在なんだよ?」
じわじわと梓を甚振るように少しづつ指は絡まってくる。
「まさか、一緒に取り込まれにきてくれたの?」
艶消しを使ったかのような瞳に僅かな悲壮の色が浮かんだ瞬間、梓は不意に決断した。
――終わらせよう。自己満足でいい。自分勝手でいい。そう。私が終わらせなければ。
「違うか。まぁ、当たり前――」
褪めた瞳で見下ろすアズサの視線の先で梓は首を横に振った。
アズサの言葉が半ばで途切れる。信じられないものを見た、という風に顔が歪む。
「……嘘だよね」
「いいえ」
掠れた声で、明滅し始めた世界に囁く。
「私、アズサ先輩と一緒に『怪異』に取り込まれてもかまわないです」
その言葉に戸惑うようにアズサの指が梓の首を引っかいた。
「本当に?」
「えぇ」
「本当に?」
「えぇ、……私が一緒にいてあげます」
ただ、と梓は付け足した。
「なるべく、苦しくないように早めにお願いします」
ぎゅうっ、と首を絞める力が無言のままに強まった。
どうやら先程まではかなり力加減をしていたらしい。いきなり襲いかかってきた圧迫感に梓は苦しげに眉根を寄せた。
世界の色がチカチカと明滅し、変化、胎動するかのようにドクドクト脈を打つ。……いや、この脈動は世界のものではなくて梓自身の生命のものなのか。どちらにせよ心地の良い音に、梓は残された空気を吐き出した。
「……ありがとう、梓」
意識が途切れる寸前、囁く声を聞いた気がした。