君は僕のモノ
展示室に行く、を選択した場合の世界
【現在、七月三日】
保健室の中は死んだような静けさが満ちていた。
目の前に置かれた硝子のコップから視線を時計へと移すとそろそろ八時半を過ぎようとしている。
常和が救急車で搬送されてからどのくらいの時間が経ったのだろうか。……膜で覆われてしまったかのように、時間の経過に対する認識が酷く不鮮明だった。
ゆっくりと瞬きをする。
時計からコップへ視線を戻すと、硝子の表面に張り付いた水滴が滑り落ちるのが見えた。
――あぁ、何かを忘れてる。
不意に浮かんだ核心に梓はふるりと身を震わせた。
私、何か、何か、忘れてる。
やらなきゃ、いけないもの。
忘れちゃいけないもの。
何だっけ。
何だっけ。
なんだっけ。
ナンダッケ。
不透明な何かを思い出そうと梓は眉間に皺を寄せた。
大事なこと。
ナンダッケ、なんだっけ。
なんだっけ、何だっけ。
何だっけ、何だっけ。
ここまで出掛かっているのに、どうして思い出せないのか。
思い出そうとすればするほど何故だか気持ち悪くなる。込み上げる嘔吐感に梓は口許を押さえた。
思い出せ、思い出さなきゃ。
私、私が、やらなきゃいけないこと。
何だっけ、何だっけ、何だっけ、何だっけ、何だっけ――。
酸っぱい胃液、走る悪寒。背筋を丸める。梓の薄い身体が強張る。
「ぁ」
伏目がちな瞳が大きく見開かれる。漆黒の瞳孔は僅かに収縮したような――気がした。
「ぁ」
ガタン、と大きな音を立ててパイプ椅子が倒れる。まるで糸で吊り上げられているような動きで梓は項垂れていた顔を上げた。
虚ろな視線が宙を彷徨う。
「核」
いらだったように振り回された左手が硝子のコップを弾き飛ばす。
パリン、と場違いなほどに涼やかな音が保健室に響いた。
飛び散った水飛沫が梓の黒いタイツに数滴かかる。
「……あぁ」
かくり、かくりとしたぎこちない動作で梓は保健室の出入り口へと向かう。
血の気が引いた唇が誰に聞かせるともなく呟いた。
「取り敢えず、展示室へ行こう」
♂♀♂
【現在、七月三日】
煌々と灯りが灯る会議室とは対照的に校舎は不気味なほどに静まり返っていた。
作業半ばのままに放り出された文化祭の備品が、やり切れなさを訴えている。――多分、今年の文化祭は延期か、最悪中止になりそうだ。
散乱する風船やダンボールの切れ端を踏み越えながら、梓は独りで三棟三階を目指して歩を進めていた。
ふらふらと頼りなく揺れる視界が、まるでテレビの映像を見ているかのように他人事めいていた。
――さながらホラー映画の幽霊の少女目線といったところか。
笑えない冗談をぼんやりと思った瞬間、梓は何かに躓いてバランスを崩した。
「っ」
ぐらり、とぶれる視界。何とか立て直そうとした足が縺れる。
梓は条件反射で両手を前に突き出した。
「――ぁ」
全体重を支えるべきその両手は、冷たいリノリウムの感触を捉える――はずだった。
しかし左掌が捉えたのは、ゾッとするまでの冷たさの違和感。
どこか懐かしい感じがするその違和感を巻き込んだまま、梓は床へと倒れこんだ。
どさっ、と重くて鈍い音が静かな校舎の中で響く。
だが、強かに打ちつけた身体よりも真っ先に熱を訴えたのは、他でもない、左手だった。
「っ、あ、いっ」
右側へと横転するようにして向きを変える。
汗とは違うぬめりに左手は震えていた。
痛い、痛い、鮮明な、この、この、痛み、部位は違えど忘れえぬこの、鮮やかな、生きてる、安心する、あぁ、あぁ――。
僅かな月明かりに掌を曝す。
「あ、は、はは」
思わず漏れた笑い声は空虚に鼓膜を揺らした。
――ざっくりと、いっそ小気味が良いほどに鋭い裂傷。滲む、と言うか既に垂れるといったほうがいい量で流れ出る血液。梓の命。愛しい愛しい紅い液体。美しき証。
一滴、梓の蒼白い腕に垂れ落ちて。
……仕舞い忘れのカッターか何かでも落ちていたのだろうか。それに偶然梓は倒れこんでしまったのだろうか。
いや、違う。
こんな偶然、起こり得るはずがない。
「その通りだよ、梓君」
不意に背後から聞こえてきた声に梓はゆっくりと振り返った。
「――アズサ先輩」
暗がりの中で少年――アズサはにっこりと微笑んだ。
銀縁眼鏡が反射してその瞳の奥は窺い知れない。しかしそれが何時にもまして澱んでいるだろうことは容易に想像することが出来た。
「やっぱり、君には紅色がお似合いだね」
にっ、と嗜虐的に歪められた唇の端から白い歯がほんの少し覗く。
所謂、捕食者たちが浮べる類のその笑みに梓は身を竦めた。
何とかしてその値踏みをするような視線から逃れよう、とじりじりと後退をしていく。
点々と廊下に滴っている紅色は、掌ではただの不快感しかもたらさない。懐かしいはずのその感覚に梓は眉を顰めた。
少しずつ、少しずつ。ゆっくりと、ゆっくりと。
止血をしていないせいか、視界がぐらぐらと頼りなく揺れてきている。
込み上げる吐き気に思わず梓は目を瞑った。
瞬間。
ガシャン、と。
耳元で聞こえた硝子の割れる音に梓は肩をびくつかせた。
夕方の鮮明な記憶が脳裏にくっきりと映し出される。
「――っぁ、と、常和」
思わず呟いてしまった名前に自身が驚くよりも先に、不愉快そうな声が舌を鳴らした。
「なんで、――なんであいつなんだよ」
でも、まぁ……いいか、とその後に続いた言葉のトーンの違いに背筋に悪寒が走る。
梓は瞼を恐る恐る開いた。
周囲の飛び散った硝子片。血潮でべたつく掌。つまらなそうにこちらに掌を向けている少年。薄暗い暗闇。黒点が明滅し、混濁とした視界の中でそれらが混ざり合って見える。
逃げなくては、と思った。
逃げなくては、と焦った。
逃げないと――どうにかなってしまう、核心があった。
しかし痛みと血液不足で朦朧とした意識は言うことなど聞かなくて。
痺れたように動かない身体では、低く呻いて見せるのが関の山だった。
少年が掌をグーパーと動かす。
「君は」
呪縛のような言葉が梓を蝕む。鎖のように蛇のように梓の何かを縛り、蹂躙していく。
「僕のモノ」
振られた掌が残像を残しているかのような錯覚が見える。
「だから」
ガシャン、とさっきよりも近くで硝子の割れる音が鳴り響いた。
スローモーションのようにゆっくりと流れゆく時間。
雨のように身体に降り注ぐのは、雫と呼ぶにはあまりにも鋭利過ぎる煌きだった。容赦なく貫かれる身体が酷く、酷く熱い。
熱くて、熱くて、どうしようもなくて。
「愛してるよ、梓」
空っぽな告白の言葉が、虚ろな言葉の羅列が、哀しくて。
――どうして、どうして。
霞む現実の視界にはアズサの姿。
痛覚の見せる幻には常和の姿。
――あぁ、私には紅色が似合うのだろうなぁ。
ぷつん、と命が途切れる音がした。