君のトラウマ
常和の話を信じない、を選択した場合の世界
【現在、七月三日】
苔色のリノリウムの廊下には細長い影が二人分伸びている。
橙色に染まった空気が、その周りだけ澱んでいるように重たかった。
「……アズサ先輩が、『怪異』」
「あぁ……正確には『怪異』に初めて取り込まれた人間、らしいが。どのみち、死んだはずの人間だということに変わりはない」
梓の伏せた視線の先には、金色の塵が舞っている。
先程ようやく梓を拘束するのを止めた常和は、所在なさげにそっぽを向いているようだった。
「俺が見つけた日記によると、『怪異』は数年に一度新しい誰かを取り入れないと、核となる人間の自我が保てなくなり、ただの現象に戻ってしまうんだそうだ……それで」
もにょもにょと常和が言い澱む。
困ったように微かに揺れる影を見つめながら、梓は一度大きく瞬きをした。
「それで、今回は、私」
呟くように吐き出した言葉はやけに白々しく廊下に響いた。
ほぅ、と安心したように吐き出される溜息の音が空気を震わせる。
「……。……核の人間が『核』に設定したものを破壊すれば」
再び詳しい説明をし始めた常和の声は、鼓膜だけを虚ろに振動させ続けていて。
梓はもう一度大きく瞬きをすると口許に微かな嗤いを象った。唇の端を舌の先で舐める。
「……だから?」
「っ?」
褪めた声が説明を遮ぎった。空気に奇妙さが混じる。
「……そんな噺、私が信じるとでも思ったの?」
冷え冷えとした声色に常和がたじろぐ気配がした。空気が静かに凍りついていく。梓は頬を引き攣らせた。
「もし本当だったとしても」
そしてゆっくりと顔を上げて真っ直ぐに常和の瞳を見据える。
――あぁ、この目。この眼。まさしくこの瞳だ。
その瞳孔の奥に広がる、怯えともなんともつかない色を見て梓は凄絶に嗤ってみせた。
「私が小鳥遊先輩のことなんて信用するわけないでしょ?」
傷つけ、傷つけ、傷つけ。
それだけを念じながら唇の端を限界まで引き上げる。
「……馬鹿にしないで。三年前を忘れるわけない」
見据えた常和の瞳孔が小刻みに揺れた。
親しき色に侵食されつつある瞳には、人形めいた笑顔の少女が映っている。その瞳に映る少年は恐怖に染まりつつある。
――合わせ鏡のように無限ループする二つの顔が相対的な顔に似たような感情を宿している。
傷つけ、傷つけ、傷つけ、私の望み通りにトラウマを増やして、忘れることが出来なくなればいい。
常和は歪めた顔のまま、何かを振り払うように首を振り――階段の上の方を見てその表情を固まらせた。零れ落ちんほどに目を剥く。
「あ、あずっ」
掠れた声が名前を呼ぼうとする。
喘ぐようなその呼びかけに、嗤いを含ませた声が覆い被さった。
「残念だったね、常和君。……折角の彼女を救うチャンスだったのにさぁ」
纏う響きこそ違えど、聞き慣れた声。
常和の視線を追わずとも持ち主は簡単にわかった。
「……先輩」
呟く。
心の内を撫ぜるような感情は薄ら寒く、しかし何処までも熱く綺麗なものだった。
嫌々、良いよ、嫌、良いよ良いよ、嫌、嫌々、駄目、良し、嫌、良し、駄目、嫌、良いよ良いよ良いの良いの駄目良いの駄目駄目駄目嫌、良いの駄目嫌嫌駄目駄目、良いよ。
――二律背反。
矛盾する想いと予感がぐるぐると梓の思考を犯していく。ぴくりぴくりと左瞼が痙攣を繰り返す。
「それじゃ、彼女は僕が貰っていくからね」
斜め上のほうから嗤いを含ませた声が気障ったらしく台詞を吐き捨てた。
ほぼ同時にガシャン、と硝子の割れる硬質な音が耳朶を打った。
透明な無機物は冷たくて。
切り裂かれた有機物は熱くて。
妙に色鮮やかな景色はぐらりと歪みながら上昇していく。
鮮明かつ酷くゆっくりと、網膜に焼きつく。
「あ、あ、あ、あぁあぁ、あずっ、梓っ」
バグったような音で名を呼ぶ声が、可笑しくて。
ドクドクと流れ出る梓の命は思った以上に生温かい。
「待て、止めっ、お願いだから、嫌だ、嫌だ、いなくならないで、梓、梓、梓、梓――」
視界はブラックノイズに覆われて、もう役目を果たしているとは言えなかった。
どくりどくり、と脈打つ心地好い世界の胎内の音に梓はそっと瞼を閉じた。
途切れ途切れに聞こえる常和の絶叫が堪らなく愛おしい。それは否が応でも三年前の状況を連想させた。
――あぁ、私。
感覚が遠ざかり、世界と同化していくような錯覚が心を満たす。
昏い胎内の中で梓は淡く微笑んだ。
――今行きますね、アズサ先輩。
ここには、耳が痛くなるほどの静寂が満ちている。
永遠の永久の久遠の無音世界。
存在しない声帯を震わせて、梓は音もなく呟いた。
――さようなら、常和。
君のトラウマに、私がなってあげる。