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アズサ  作者: 月野 嘘
本編
3/7

そして、少女は少年を失う。

この世にさよならするのは、一体どちらなのか

結論から言ってしまえば、あれ以降、五月七日、五月二十一日と『怪異』は出続けた。

だが、どれも試験管が数本割れるだの、校庭にミステリーサークルが出現するだの、生徒でも出来そうな悪戯ぐらいな規模のもので特筆できる点などは全くといっていいほどなかった。記録帳にどうやって記そうか悩むぐらいだ。

確かに今年は数は多いのだろう。しかし派手、というほど派手ではない。記録帳からの予想ははずれであった。

そして六月にいたっては何の音沙汰もなく過ぎ去っていった。


♂♀♂


【現在、?】

――酷く眠たかった。

十一年間の月日と共に積もっていった風景写真の山を眺めながら、閉じそうになる瞼を薄っすらと開けている。……その動作だけで今は限界だった。

どうやらここ最近、また、まどろみの中を漂う時間が増えてきてしまっているようだ。

「……どうにも、これは嫌いなんだけどね」

誰もいない部屋に呟きを転がす。

独りには慣れているつもりだが、どうもふとした瞬間に人恋しくなっていけない。

……『僕』の実年齢が三十代を目前にしているから感傷的になってしまっているのだろうか。

『僕』は傍らに落ちていた写真を一枚取り上げた。

「そろそろ、四月になるはずだから、丁度いいのかもしれないね」

今回は新入生の子にしようか、と独り計画を練る。

選ばれてしまう子の不運を思うと涙が禁じえない。

……あぁ、可哀想に。


♂♀♂


【現在、七月三日】

「先輩、このボードはここで良いのですか?」

「うん……あ、もうちょっとだけ左に詰めて。そこにもう一枚張るから」

背のほうからアズサの声が飛んでくる。パネルを少し左に詰めてから留め、梓は一息吐いた。

硝子窓の向こう側を見ると、あちこちに忙しそうにしている人影が見える。――明日からはいよいよ文化祭当日。前日準備に誰もが忙殺されているらしかった。

「……しょっ」

視線を向こう側から外した梓は不安定な足場の机から降りた。丁寧に積み重ねられたパネルの中から一枚手に取る。

上を見上げるようなアングルで撮られた三棟のどこかの階段の踊り場の写真。人は誰も写っておらず、悲しいほどに明るい陽光が妙に退廃した雰囲気を醸しだしている。

……やはり何故こんなところを撮ったのかは理解できない。

梓は顔をほんの少し傾げてから、パネルを固定するための養生テープを手に取った。

「あ」

輪の部分の厚みが薄い。どうやらテープの残りが僅かなようだった。パネルを一枚留めるられるか、無理かといったぐらいしかない。

梓はそれを元の場所に戻し、アズサの背中に声を掛けた。

「養生テープ、切れそうなので一つ貰ってきますね」

「頼むよ」

ちらっと、アズサがパネルを抱えたまま振り返った。

……今日も瞳の澱みは健在なようだった。


♂♀♂


【現在、?】

今回選んだ子は、『僕』に酷く似た子だった。

容姿……というか、滲み出るような色というか、そんな何かが。

世界の裏側を覗いてしまったかのように真っ黒な伏目がちの瞳。

能面のような変化の乏しい表情。

死神を魅せるような独特の負の雰囲気。

故意に薄められているであろう、希薄な存在感。

触れれば壊れそうなほどに儚くて脆そうな身体。

過ごす時間が多くなれば多くなるほどに類似点が見つかる、そんな子だった。

……最近、彼女が薄っすらとした感情を表すたびに、胸が痛む。何故だろう?


♂♀♂


【現在、七月三日】

養生テープを一つ準備係から貰いうけ、ついでに置いてきてしまった鋏を取りに四棟へと向かった。

他の棟が準備をする生徒達の怒号に満ちているのに比べて、一年生の教室ぐらいしかないここは静かなものだった。まずクラス展を行わないし、この時間帯なら部活の準備がある者以外は帰宅しているので当たり前ではあるが。

手にした鋏と養生テープをぶらぶらとさせながら、その静かな校舎内の階段を下る。日光が入りづらい窓位置の設計のせいか薄暗い。……ふと、写真のパネルを思い出した。

ぺたん、ぺたん、と紅いサンダルは間抜けな音を響かせる。

階段を下る自身の足許を見つめていると酷くくらくらとした。

――二年ほど前に見た景色が、視界に映る今のそれと薄くダブるように透けている。未だに鮮明な痛みが胸を締め付ける。

「……そうか、もう二年経つのか」

苔色のリノリウムが灰色のコンクリートに変わったあたりで無意識の内にそう呟いていた。数歩先のコンクリートには柔らかな金色の陽光が載せられている。

――二年。そう、もう、二年も経つのだ。

ぎゅっと鋏を握り締めた。懐かしい、と思えるまでに遠ざかった鉄の刃の冷やりとした感触が酷く心地好い。

そういえば、あの頃、梓のしたことを知った周りの大人達は、口を揃えてそれを間違ったことだと言ったものだった。そして今もなお梓を留める呪縛のように時折言い続けている。

……だが、未だに梓はその行動を間違っていたとは思ったことはない。むしろ正しかったとすら思っている。心の底に残留していた行為に対する罪悪感は、あの時、梓の決心通りに先に逝ってしまったのかも知れなかった。


♂♀♂

 

【現在、?】

例年通りに『怪異』を出現させた。

……やはり力がまた足りなくなってきているらしく、水溜りの悪戯程度にしか出来なかった。

早くしないと不味いかもしれない。

そういえば、今日はあの子が少し動揺していたようだが、何かあったのだろうか。


♂♀♂


【現在、七月三日】

いつのまにか自身がぼんやりと佇んでいたことに気がついた梓は、瞬きを一回して足を速めた。

……急いで、早く持っていかないと。広い展示室でアズサがすることもなく手持ち無沙汰にしている光景が簡単に思い浮ぶ。

三棟の階段を段飛ばしで駆け上がる。

ぺたぺたが強く連続して、ぱんぱん、という音に聞こえた。

苔色のリノリウムの階段が梓の視界を流れていく。呼吸がほんのりと上がり始め、日頃の運動量の少なさを露呈する。

三階への階段の踊り場を曲がろうとした瞬間だった。

「きゃっ」

「うわっ」

突然の衝撃。二つの悲鳴が重なる。

……顔を伏せていたのが災いしたらしく、誰かにぶつかってしまったようだった。よろける体制を辛うじて立て直しながら、梓は前を見ていなかったことを少しだけ後悔する。誰だか分からないが、迷惑を掛けてしまった。

弾みで放してしまった養生テープが転がっていくのが視界の隅に見えた。辺りには相手が持っていたらしいコピー用紙が数枚散らばっている。……頬がかっと熱くなった。

「す、すみません」

慌ててしゃがみこんで、コピー用紙を拾い集める。恥ずかしさと申し訳なさで身体が酷く火照っていた。一枚、二枚……どうやら何かの掲示物のコピーのようだ……三枚、四枚、


「……あ……梓?」


突然上から聞こえた声に梓の手が止まった。

見開いた瞳の淵で睫毛が震える。

空気が凍る。

時間が止まる。

火照った身体が急速に冷えていくのを感じながら、梓は鋏を持ったままの右手を僅かに震えさせた。

それは、それは――――聞きなれていた、声?

顔を伏せたままゆっくりと瞳だけを動かすと、相手の足許が見えた。

サンダルの色は蒼。その甲の中央に無愛想に書かれた苗字は――小鳥遊。……あぁ、やっぱり。

唾を嚥下する音が妙に大きく聞こえた。

「梓、だよな?」

聞きなれた声の問い掛けに、常和、という言葉が喉に絡まる。

言えない。どうしても。

言葉は刺さった小骨のように喉から先には出てこようとしない。

黙って俯いたままの梓の胸中に、戸惑いとどす黒い思いが渦巻き始めた。

……何故、話しかけてくるのだ。

もう二度とそんな事はしないでくれと、お前が望むなら俺はもう話しかけないし干渉もしないから、と言ったのではではなかったか。

歯を食いしばる。――小鳥遊 常和。元幼馴染。世界で一番……《大嫌い》な、少年。

途中まで拾い集めたコピー用紙を脇に放置し、転がっていた養生テープを掴むと、梓は無言で俯いたまま立ち上がった。

「梓」

固く口を閉ざしたまま、少年の横を通り過ぎる。

何の用かは知らないが口を利く気は全くなかった。

常和は梓に二度と干渉しない。梓はそんな事は二度としない。――そう、お互い言ったのだから。

「……待てよ」

なのに、なのに。二年前までは聞きなれていた、あの頃より少し大人っぽくなったような気がする声が静かに梓を引きとめようとする。

その脇を通り過ぎようとしていた梓は一瞬だけ動きを止め……その声を黙殺した。

少年は返事がないことを承知しているようだったが、先を続けた。

「お前、写真部に入ったんだよな」

何かを含んだような物言い。

背を向けたまま、梓は立ち止まった。

――何故かここから先を聞いてはいけない気がした。


「……小鳥遊先輩には関係ない」


冷たい拒絶の声を発する。

能面のような表情の奥で、常和を傷つけるという明確な意思が蠢いてた。……彼の言葉を止めないと、というわけの解らない焦燥がその胸の裏側を焦がす。

「もう、二度と話しかけないで」

こう言えば律儀で臆病な彼は引き下がるだろう、と梓は思った。

……それに、しつこくしたのだから精々傷つけば良いのだ。傷つけば彼の性質上、同じ轍は踏むまい。

ぺたん、とわざと音を立てるようにして歩を進める。梓は静かに目を伏せた。――あぁ、終わったのだ、と思った。

だから、


「……ふざけんなっ」


激情の声と共に腕を強く掴まれて引き寄せられた時、梓は咄嗟になんの抵抗も出来なかった。

常和に無理やり引っ張られた、ということを認識した時には拘束されるようにしっかりと抱き締められていたのだ。

カッ、トン、という鋏と養生テープの落下音が虚しく梓の鼓膜を震わせる。

突然身体を覆った、慣れない他人の体温に、梓は赤面した。

「……っ、離しっ」

顔を歪めながら必死に身を捩る。常和の身体はびくともしないどころか、逆に梓の動きを封じるように拘束する力が強くなった。

生温かい息が梓の耳を擽る。

「――嫌だね、断る」

感情を押し殺したような低い声色にぞわり、と皮膚が粟立った。

思わず震えそうになる声を何とか張り上げて梓は抵抗を続ける。

「だから、関係っ」

「あるんだよ、少しは話を」

「嫌」

「……」

ぎり、と常和が歯を食いしばる音がした。その音に身を竦ませた梓の様子に気づいたのか、僅かに腕の力が弱くなる。

ふっと、溜息が梓の耳にかけられた。

「……じゃあ良い、俺が勝手に話す。だけどお前がちゃんと聞く気になるまではこのままでいるからな」

常和はゆっくりと話しだす。

「写真部に関守アズサっていう二年がいるだろう?」


♂♀♂


【現在、?】

アイロニー、というべきなのか。

……日記が、見つかった。


♂♀♂


【現在、七月三日】

苔色のリノリウムの廊下には細長い影が二人分伸びている。

橙色に染まった空気が、その周りだけ澱んでいるように重たかった。

「……アズサ先輩が、『怪異』」

「あぁ……正確には『怪異』に初めて取り込まれた人間、らしいが。どのみち、死んだはずの人間だということに変わりはない」

梓の伏せた視線の先には、金色の塵が舞っている。

先程ようやく梓を拘束するのを止めた常和は、所在なさげにそっぽを向いているようだった。

「俺が見つけた日記によると、『怪異』は数年に一度新しい誰かを取り入れないと、核となる人間の自我が保てなくなり、ただの現象に戻ってしまうんだそうだ……それで」

もにょもにょと常和が言い澱む。

そこまで言われれば流石の梓にもそれが一体どういうことなのか、というのは理解できていた。

「今回は、私」

「……。……核の人間が『核』に設定したものを破壊すれば、核の人間は消えてリセット、になるらしい」

「……」

「核は基本思い入れのある何か、になるらしいが……」

「……」

「……」

「……」

伸びた影の片方が、躊躇いがちにもう一方へと手を伸ばした。

梓の黒髪が頼りなげに揺れる。


「っ!」

……常和は梓の手首を掴んだ。


「常和?」

驚いて顔を上げると、常和は目を見開いて階段の上の方を見ていた。

その視線を追う。

――人影が一つ。


「……ぁ」


掠れた声が梓の声帯を震わせた。微かに見開いた左瞼がぴくぴくと痙攣する。

二人の視線の向かう先――独りの少年はその反応を見てにやっ、と顔を歪ませた。

「……随分と遅いんじゃないかな、梓君」

「せ……ん、ぱい」

いつもは虚ろな澱みしかない瞳が、冷ややかな光を宿して二人を見下ろしている。それはまるで、視線で刺し止めようかと言わんばかりの鋭さだった。

氷のような沈黙。

「……まぁ、全部知られちゃっても」

能面顔に戻ったアズサが、ふっと鼻で息を吐いてから、緩慢な動きで左手を持ち上げる。橙色の陽光がきつくなったせいか銀縁の眼鏡が反射して、瞳が二人のどちらを見据えようとしているのかを伺い知ることは出来なかった。

アズサの唇が虚ろに嗤う。

「僕としては同じなんだけどね」

首の辺りまで持ち上げた左手は一旦停止して……首の右から左へと、掻き裁くように勢い良く動かされた。

「……!」

ほぼ同時に、梓は勢い良く左側へ引き寄せられた。

強い、既視感。

反射的に閉じると、硝子の割れる硬質な音が酷く鮮明に聞こえた。

ガシャン、どころではない。

もはや連続音。

恐怖を堪えて瞼を薄く開くと、アズサが心底苛立ったような顔をして何処かへと去っていこうとするのがスローモーションで見えた。

――行ってしまう。

だが竦みきった手足は全く動こうとはしてくれない。

引き寄せられて、抱きとめるようにして支えられた体制を維持するのがやっとだった。

「うぎゅっ」

押し殺した呻き声がすぐ近くで、した。


……呻き声?


見下ろせば、細かい硝子片が周囲に飛び散っている。

肩に重たい何かが圧し掛かってきている。

酷く曖昧で。酷く不明瞭で。酷く霞んで。

――現実感がない。

橙色の景色がセピア色とモノクロノイズで覆われていく。

何が、何が、誰、何がどう、私、何で、私私、重たい? 何で? 硝子片? どうして? 何故、何が、私、私、え、あ、何、え、何―――――?


……麻痺して鈍重にしか動かない意識が状況を正しく認識したのは、数秒遅れてだった。

「゛あ……ぐ……ぁ」

「…………常和? 常和、ねぇ、常和」

状況が認識出来たところで動揺状態なのには変わりなく、梓はただただ圧し掛かる重みに耐えながら、震える声で名前を呼んでいた。


――異常な音を聞きつけたのか、誰かが走ってくる足音が近づいてきた。


♂♀♂


【現在、?】

あの子は『怪異』の……即ち『僕』への贄なのだ。

だから、あの子は、――『僕』のもの?


♂♀♂


【現在、七月三日】

保健室の中は死んだような静けさが満ちていた。

目の前に置かれた硝子のコップから視線を時計へと移すとそろそろ八時半を過ぎようとしている。

常和が救急車で搬送されてからどのくらいの時間が経ったのだろうか。……膜で覆われてしまったかのように、時間の経過に対する認識が酷く不鮮明だった。

ゆっくりと瞬きをする。

時計からコップへ視線を戻すと、硝子の表面に張り付いた水滴が滑り落ちるのが見えた。

――あぁ、何かを忘れてる。

不意に浮かんだ核心に梓はふるりと身を震わせた。

私、何か、何か、忘れてる。

やらなきゃ、いけないもの。

忘れちゃいけないもの。

何だっけ。

何だっけ。

なんだっけ。

ナンダッケ。

不透明な何かを思い出そうと梓は眉間に皺を寄せた。

大事なこと。

ナンダッケ、なんだっけ。

なんだっけ、何だっけ。

何だっけ、何だっけ。

ここまで出掛かっているのに、どうして思い出せないのか。

思い出そうとすればするほど何故だか気持ち悪くなる。込み上げる嘔吐感に梓は口許を押さえた。

思い出せ、思い出さなきゃ。

私、私が、やらなきゃいけないこと。

何だっけ、何だっけ、何だっけ、何だっけ、何だっけ――。

酸っぱい胃液、走る悪寒。背筋を丸める。梓の薄い身体が強張る。

「ぁ」

伏目がちな瞳が大きく見開かれる。漆黒の瞳孔は僅かに収縮したような――気がした。

「ぁ」

ガタン、と大きな音を立ててパイプ椅子が倒れる。まるで糸で吊り上げられているような動きで梓は項垂れていた顔を上げた。

虚ろな視線が宙を彷徨う。

「核、『怪異』、常和の言ってたことが、日記が本当なら……思い入れ、可能性としては、何?」

いらだったように振り回された左手が硝子のコップを弾き飛ばす。

パリン、と場違いなほど涼やかな音が保健室に響いた。

飛び散った水飛沫が梓の黒いタイツに数滴かかる。

「……あぁ」

落ち着きなく彷徨っていた瞳がしっかりと据わった。だれともなく囁くように梓は吐息を漏らす。

「部室、行かなきゃ」


♂♀♂


【現在、?】

あぁ、何で、何で、上手くいかないのだろう。

今までは上手く言っていたのに。今回はなかなか上手くことが進まない。

……でも、本当はこの方が。


♂♀♂


【現在、七月三日】

煌々と灯りが灯る会議室とは対照的に校舎は不気味なほどに静まり返っていた。

作業半ばのままに放り出された文化祭の備品が、やり切れなさを訴えている。――多分、今年の文化祭は延期か、最悪中止になりそうだ。

部室棟でもそれは同様で、運動部が用意していたであろう模擬店の看板があちこちに立てかけられており、妙に薄気味の悪い雰囲気が漂っていた。


その一階、東側奥から三つ目。


通いなれた部室のノブを掴み、梓はそっと溜息をついた。

これを開けてしまえば何かが決定的になってしまうような気がして酷く恐ろしかったのだ。

ノブを掴んだ手が小刻みに震える。

「多分、カメラ、ちがったら――」

ノブを捻る。

キィと軋んだ音を立てて戸が開いた。もちろん鍵などかかってはいない。……もちろん。

「っ」

あぁ、やはり。

上げそうになる声を飲み込む。

アズサがこの世の者ではないと教えられた瞬間から引っかかっていたことではあったし、少し考えれば容易に辿り着く予想でもあった。

ただ、やはり目の当たりにするのとただ予想しているだけなのとは違うわけで。

「……」

まだ暗さに慣れていない目で見ても、部室の中がいつもとは全く違うことぐらいは解った。

埃っぽい匂いが漂ってくる。張られた蜘蛛の巣が幾つか見えた。

「……」

意を決して、持ちだしてきた懐中電灯のスイッチをONにする。

黄色い輪になった光を室内へと向けて、

「うっ」

光の輪が揺らぐ。

照らされた部屋の中の惨状は声を漏らすには充分すぎて。

堆く積もった埃の層、曇った硝子窓、木が腐ってしまっているのか斜めに傾いだ机、椅子、棚、部屋中にばら撒かれた写真は雨にでも濡れたかのようにインクが滲んでしまっている。

ここで過ごしたはずの二ヶ月ちょっとの月日は一体なんだったのか。

込み上げる虚無感やら喪失感に身体を震わせながら梓はそっと部室の中に足を踏み入れた。ふわりと埃が舞う。

「……」

机の上にわざとらしく乗せてある二枚の写真を見て、梓は唇を噛んだ。

全ては計算通りと言いたいわけなのか。

それともこんな結末を望んでいたのか。

……予想してたのか。

鉄錆の味がする。

この上なく紅く、鮮明に黒く、透明な蒼い味がする。

――自分が今どういった感情に苛まれているのか、梓にはそれに名をつけることが出来なかった。

震える手で写真を手に撮る。

二枚だけ、大切に保存されていたのだろう。まるで印刷したてのように綺麗な写真だった。


一枚目――柔らかい青空と無機質なコンクリート、碧色のフェンスが映された写真。多分、この学校の屋上を撮った写真。


梓はそっとその写真を机の上へと戻した。

この写真は、違うだろう。……次の写真をどうやって撮ったのか特定させるためにつけただけのものに過ぎないはずだ。


そして二枚目――同じく柔らかい空、逆さまの樹の頭、灰色のコンクリートの壁、全てがぶれていて。

歪んだ世界。

歪で独りよがりで優しい、自分にとっては正しい、正しい、セカイ。


――あぁ、私は知っている。これと同じ景色を。

梓はその写真を胸に強く抱いた。

言われなくとも、考えなくとも、もう、解った。


これが『怪異』の『核』だ。

あとは、『あずさ』を――。


♂♀♂


【現在、?】

選んで、『あずさ』。

君自身が。

僕自身が。

選ぶ先がどうであろうとも――。


♂♀♂


【現在、七月三日】

ガラリ、と戸を勢い良く開けた。

壁一面に大量の写真が展示されているのはどうやら変わっていないようで、真っ暗な室内に学校中の風景が張り巡らされている。


「やぁ、待ってたよ、梓君?」


唐突に闇の中からアズサの聞き慣れた声がした。

どうやら部屋の中央に置いた机に腰掛けているらしく、ぼんやりと見える人影がひらりと手を振る。浮べている表情は見えないが、きっといつもの能面顔ではないはずだ。

「……こんばんは、アズサ先輩」

後ろ手に写真を隠しながら、梓も闇の中へと言葉を返した。

そっと室内へと入る。

「……もう少し、警戒したほうが良いと思うよ」

呆れたようなアズサの声が響く。

微かに眉根を寄せた梓のすぐ後ろで、バンッと盛大な音を立てて戸が閉まった。

「っ」

「もう開かないよ?」

振り返りかけた梓の先を読むように闇から笑いを含んだような声が聞こえた。

「まぁ、出してあげる気もないけどね」

ということはやはり、これもアズサの仕業なのか。

「あぁ、こんなに暗いと梓君には何も見えなくなっちゃうのか」

独り言が聞こえたかと思うと今度は唐突に蛍光灯の灯りが点いた。

暗闇に慣れてきていた瞳に強烈な白い光は眩しく、梓は目を細める。

霞む視界の中、アズサがゆっくりと近づいてくるのが見えた。

それはまるで終焉を告げる死神のようで――。

「ち、近づかないでくださいっ」

反射的に梓は写真の隅と隅をいつでも破けるようにして持ちながら前へと突き出していた。

回復した視界の真ん中でアズサの動きが凍りついたように止まるのが見えた。その顔が心底傷ついたように、歪む。

「――君は僕をいらないというんだね」

「ちがっ――」

間違えた、失敗した。

取り返しのつかない失態に梓の身体から血の気が引く。

こんなはずではなかった。

ちゃんと話して、納得して――それで。

思考が停止する。目の前がくらりと歪んだ。


――――それで、私は、アズサ先輩に何を告げようと言うの?


前に突き出していた手が唐突に浮かんだ冷たい疑問に竦む。

「なら、」

それを見咎めたアズサが素早く近寄って梓に手を伸ばした。

「僕と一緒に怪異に取り込まれてくれよっ」

悲痛と憤怒。紅くて蒼い叫び声と共に梓の視界がぐらりと一変する。

何が起きたのかすぐには理解できなかった。

「なんで? 君なら、君なら……」

上のほうから降ってくる声。

後頭部と背中がずきずきと鈍く痛んだ。

「僕のことを理解してくれると思ってたのに――」

細い、しかししっかりとした大きさの少年の手が、緩く梓の首筋に触れる。

そこでようやく梓は自分の身体に馬乗りになったアズサが、自分の首を絞めようとしていることを認識した。

「ぁ」

×へと恐怖をちらつかせる瞳の中を見て満足そうにアズサは嗤う。

レンズの向こう側の瞳はいつも以上に底なし沼のような暗さだった。


光が、全く、ない。


「馬鹿だね、何で見つけてすぐに破かなかったのさ? 常和君の話聞いたんだよね? 今の僕は『怪異』そのものといって差し支えない存在なんだよ?」

じわじわと梓を甚振るように少しづつ指は絡まってくる。

「まさか、一緒に取り込まれにきてくれたの?」

そんなことはないと思っているのか、アズサは自嘲気味に口許を歪ませている。その表情にはもはや日頃の能面顔の面影は全く残っていなかった。

「違うよね? まぁ、良いんだけどさ」

黒い点々が梓の視界に乱舞しはじめる。

既に圧迫というまでの強さになった力でアズサは確実に梓の喉を締め上げていた。

「常和君もさ、理解し難い子だったけど、君も大概だよね。少しは抵抗してみたら? 助けなんてこないけどねぇっ」

世界の色がチカチカと明滅し、変化、胎動するかのようにドクドクト脈を打つ。いや、この脈動は世界のものではなくて梓自身の生命の悲鳴なのか。

このままでは、本当に、×んでしまう。

吐息がわかるほどの距離にまで近づいた『×』という概念に、あれほどまで恋焦がれた概念に捕まえられるという事実に、梓は独り戦慄していた。

――――嫌だ、まだ、私は、まだまだ、生きていたい、こんなところで終わりたくはないのだ。まだまだ、早い。今じゃない。そう、違うのだ。違うのだ。断じて。そう、あぁあぁぁあぁあああぁあああああぁぁあああぁぁぁあああぁあぁぁぁぁああぁぁあぁぁぁああぁあ――っ、私は私は私は私は、まだ、まだまだ、そう、まだ、ここにいたいのだ、生きていたいのだ、こんなところでむざむざ私をあげるものか、私は、私の、そうまだ私は、


――――――×にたくはないっ。


「っ」

ガッ、と嫌な音がした。

短い呻き声のような音が聞こえ、喉に絡みついていた手が唐突に離される。

勢い良く肺へとなだれ込んできた酸素の濃密さに梓は咳き込む。

「げほっ、がはっ、げほっ、げほっ、げほっ――」

生理的な涙が滲んでくる。

何とか薄く開けた瞼の隙間から、ぼんやりと人影が見えた。

右手首を押さえながら、いつもの見慣れた表情で梓を見下ろしている。

「……やっぱり、一緒には来てくれないんだね」

諦念を滲ませた溜息をふぅと吐いて、アズサは薄く微笑んだようだった。

「ごめん、暴走しちゃったね。苦しかっただろうに」

先刻まで首を締め上げていた張本人とは思えないほどの変貌振りだった。思わず警戒に身体を強張らせる梓に、アズサは手首を押さえるのを止めて手を伸ばす。

「これ、もらうよ」

ひょいっと緩んだ梓の掌から『核』の写真を奪い取る。

綺麗だった写真の表面に拇印のようにアズサの指紋が張り付いた。

「ぁ」

「賭けだったんだよ。君が一緒に来てくれるかどうか。……本来なら無理やりにでも取り込まなきゃいけないところなんだけど」

アズサの右手首は刷毛で刷いたように薄っすらと紅くなっている。

「もう、潮時かなって。『怪異』には悪いけど」

梓の細くて長い指が写真の端と端を摘む。

「せんぱっ」

ようやく正常な呼吸を取り戻した梓は掠れた声を上げた。

得体の知れない恐怖がその背筋を駆け抜ける。嫌だ、どうしても、止めなくては。

梓の唇が止めての三文字を紡ぎだすより前に、アズサはにっこりと微笑みかけた。


「君を、無理やりなんて、……僕にはできないよ」


ビッ、とあっけないほど短く鋭い音がする。

梓は瞳孔を見開いてアズサを呆然と見上げていた。

アズサは柔らかな微笑を浮べたまま梓を見下ろしていた。

……だんだんとその顔が泣きそうな笑顔に変わっていく。

傷ついて、苦しんで、弱弱しく、けれど何所か安堵したような笑顔に。

そしてその身体は、生前の当人が記述してあった通りにだんだんと淡く、透き通っていく。

消える寸前ぐらいだろうか。

黙ってただ梓を見下ろしていたアズサは口を開いた。

「僕はね、きっと、君が好きだったんだと思うんだ」

鏡に恋してるみたいな変な気分だったけど、と冗談のように付け足す。

綺麗な表情だった。

見上げている梓の頬にポツリ、と生暖かい液体が落ちた。

アズサがそっと顔を近づけてくる。黙って目を閉じると唇に微かな温かさを感じて……。


目をあけると、そこには誰も、何も、いなかった。


梓は暫らく呆然と視線を宙に彷徨わせてから、ゆっくりと起き上がった。

真っ二つに裂かれた写真をそっと胸に抱く。

「……卑怯ですよ」

つ……とその頬に透明な雫が伝った。

「最初から、そう、なるように考えてたんですか? 何故、如何して」

堪えきれない嗚咽が喉を鳴らす。

「――みんな、馬鹿」

透明な涙が止めどなく溢れ出した。


♂♀♂


【現在、?】

「――怪我の具合は」

「まぁ、まぁ、かな」

風に膨らんだ白いカーテンが視界の隅で翻る。ほんのりと生温い空気が頬に纏わりつく。

焦点を真っ白なシーツにと合わせたまま、梓はぽつりぽつりと言葉を紡いだ。

「先輩は、逝った」

「……うん」

「……」

「梓」

「ん」

「何で自分は生きてるのか、とか考えるなよ」

「……」

「……ごめん」

「……なんで常和が謝るの」

「俺、あの時、何も出来なかった。……今も」

「常和のせいじゃない」

「でも――、三年前、苦しんでたお前を見捨てたのも、今回のことだって……事実だろう?」

「――――やめて。今更、そんなこと言ったところで過去は変えられないんだから」

「……」

「それもしょうがないほどに事実なんだから」

「でも」

「大丈夫」

梓は顔を真っ直ぐに上げた。不安そうに見つめる常和の視線をしっかりと見つめ返しながら囁く。

「……大丈夫、あんなことは、もう、しないよ」

――今にも泣きそうな笑顔が浮かぶ。


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