そして、二人は出会う。
そうして、彼女と彼は出会ってしまった。
【現在、四月四日】
空には鬱々とした灰色の色彩が広がっている。
四月だと言うのに今にも雪が降り出しそうな天候に、梓は小さく身震いをした。ブレザーの下にカーディガン、スカートの下はタイツとニーハイで覆うという冬の入り口のような格好をしているにも関わらず、冷気は体温を容赦なく奪っていこうとする。
……首を竦めた格好はどうにも肩凝りが酷くなるので嫌いだ。
そんなことを考えながら、梓は前を行く上級生の背中に付いていくような形で昇降口に辿り着いた。
硝子張りの戸を通ったところで、ふぅ、と一息吐く。
最初の難関だった裏口から昇降口までのルートはどうやらこれで覚えられたようだ。毎年迷う者が出ると小耳に挟んでいたから、かなり不安だったのだが……とりあえずは何とかなった。
『一年六組』と書かれた紙が張られた下駄箱へ向かう。おそらく手書きであろうその文字はレタリングしてあるにも関わらず、どこか歪だった。そもそもレタリングするくらいなら最初から印刷すれば良いものを、とどこか斜めの視線で見てしまう。
ずらりと並ぶ下駄箱の前で一瞬躊躇ってから、『十七番』とシールの貼り付けられた蓋を開ける。それなりの年代物らしく、きぃ、という錆付いた音がした。
そして、その中の薄暗い空間から、どうにも見慣れない紅いサンダルを取り出し、代わりに新品の黒のローファーを納める。サンダルを下へと落とすように置くと、ぱたんと軽い音がした。
きぃ、と再び錆び付いた音を立てて蓋を閉める。梓はその音に何故か親近感を覚えた。
僅かに目を細めながら、床に置いたサンダルを突っかける。中学までの上履きと違い、踵を入れる手間がないのは利点なのだろうか。甲の部分に書かれた、か細い『関森』の文字をじっと見つめる。
――不意に、カシャッ、という無機質なシャッター音がした。
BGMのように鳴り響いている吹奏楽部や、何かの楽器の音色とは明らかに違う、異質な音。心の隅を引っかくような、半透明な、音。
梓は反射的に顔を上げた。
「……」
「……」
……レンズをこちらに向けている男子生徒と、ファインダー越しに視線が合ったような、気がした。
カシャッ、ともう一度シャッター音がなる。
男子生徒の足許を見ると蒼いサンダルを履いていた。二年生の学年色だ。どうやら彼は一応上級生であるらしかった。
カシャッ、とまたシャッター音がなる。
梓に気付かずに撮っている、ということはないだろう。何せ目の前に立っているのだ。……だとしたら、意に介さず撮り続けているのは梓に気を使う必要などないと判断しているのか、それとも悪意あってわざとそうしているのか。男子生徒への視線はついつい怪訝そうなものになってしまう。
カシャッ、と四度目のシャッター音がなった。
その音に押されるようにして梓は口を開いた。
「あの」
直後にカシャッ、五度目のシャッター音がなる。
そしてようやく、男子生徒はカメラから目を離した。銀縁の眼鏡が良く似合っている。なかなか整った容姿である。髪は男子にしては長め、だが梓よりは短いぐらいか。……しかし、能面じみた表情がその顔に得体の知れなさを醸し出し、台無しにしていた。
「……なに」
男子生徒が応える。低く、掠れたような声だった。
眼鏡の奥の伏目がちな真っ黒い瞳は瞬きもせず、梓を見つめてくる。
……まるで、世界の裏を垣間見てしまったような。
そして、それを酷く後悔しているような。
普通の人なら目を逸らしたくなるそれを平然と見つめ返しながら、梓は既視感を覚えていた。……これは絶対にどこかで見たことがある瞳のような気がする。
「何故、」
男子生徒が瞬く。
「撮ったんですか」
もう一度、ゆっくりと瞬く。
「……何故って」
何故そんなことを訊くのだ、とでも言いたげな表情で男子生徒は首を傾げた。眼鏡の銀縁が淡い光を反射してきらりと光る。
「僕の役目、だから」
「そう、ですか」
梓もゆっくりと瞬きをした。
男子生徒が傾けた首を真っ直ぐに戻す。また銀縁が光った。
「……驚かないんだ」
「驚いてますよ」
表情を変えずに即座に切り返すと、男子生徒は無表情だった顔の口許の片方だけを微かに上げた。
「君、面白いね。……新入生でしょ、名前は?」
そっと男子生徒から視線を外して、梓は自分の紅いサンダルを見下ろす。垂れた黒髪が視界を狭める。
「……関森 梓、です」
ほぅ、と驚いたように漏れた男子生徒の吐息が聞こえた。
何事かと、再び顔を上げる。
クイッと、男子生徒は眼鏡を中指で押し上げていた。不思議なことに気取った仕草には見えない。そして心なしか先程よりもその瞳孔が開いているような気がした。
「偶然だね」
何が、と首を傾げる梓に男子生徒は柔らかく微笑みかけた。
それはさっきまでの無表情からは及びもつかないほどの優しい表情だった。……能面みたいな顔でもこんな風に融解するものなのかと見当違いのところで感心する。
梓はゆっくりと瞬きをした。
「僕の名前もね」
先程の梓と全く同じ格好を取りながら、低く掠れた声で男子生徒は告げた。
「……関守 アズサ」
♂♀♂
【日記】
四月二十一日(月)
今日は部活動結成式があった。
僕の所属する写真部は三年生が二人、二年生が二人、一年生が僕だけという人数だ。
先輩曰く好きなものをテーマにして写真を撮るのも良し、そのことについて調べて写真は付属物にしても良しとのこと。
要は、文化祭に何か発表出来るものがあれば良いのだ。
……そういうことなので、僕はこの学校にいると噂される『怪異』について調査しようと思う。
方法は……どうしようか。
♂♀♂
【現在、四月二十一日】
「失礼します」
……ようやく手馴れてきた動作で部室のノブを回し中に入る。今日は既に鍵が開いていたので彼が先に来ているのだろう。
「あぁ」
案の定、顔を上げて彼は呻くとも挨拶とも判りづらい声を上げた。
どうやら古い写真を整理している最中だったらしく、狭い部室を我が物顔で占拠している古机の上には大量の写真や、フィルム、アルバムが散乱していた。
「――また、ですか」
「見落としがあるかもしれないからね」
視線を梓から写真へと戻した彼がぞんざいに返事をする。
……あぁ、いつも通りだ。呆れたような安心したような、そんな複雑な気分になる。
梓は溜息をゆっくりと吐いてから、背負っていたリュックサックを床へと置き、クリアファイルを取り出した。そこにはさんでいた藁半紙を一枚取り出して、写真の整理をしている彼の鼻先へと突き出す。
「アズサ先輩、入部届です」
「……え」
数秒の間をおいて彼……アズサが驚いたように顔を上げた。
珍種の生物を見るような目でまじまじと梓の顔を凝視する。やはり、その瞳は黒い。
「あれ、梓君、もう入部……してないんだったね」
「はい」
直ちに返される肯定の言葉。数秒の沈黙。
……決まり悪そうに中指で眼鏡を上げながら、アズサは差し出された入部届を摘むようにして受け取った。
「そうだった、……忘れてたよ」
毎日当たり前のように来てたからさ、と口の中だけでもごもごと言いながら付け足す。
彼の言うことにも一理はあった。
確かに梓が『写真部』に書類上正式に入部するのは今日からとなる。
しかし、実際のところアズサとの奇妙な出会いの日以来毎日欠かさず来ていたのだ。
――名乗りあった後の別れ際、彼が言い残した『怪異の調査』と言う言葉が気になって。
「そういえば、先輩」
「うん?」
いつのまにか写真の整理に戻っていたアズサが顔を上げる。
手元の写真に写っているのは何の変哲もない廊下。教室にかかるプレートが二年生のクラスのものなので恐らく二棟の廊下だろう。……それにしても、歴代の写真部員達は何故こんなものを撮ったのか。理解が出来ない。
生ぬるい視線を写真に送りながら梓は質問を続けた。
「『怪異』って一体なんですか。結局教えてくれないままじゃないですか」
「……君って表情変わらないから、文の雰囲気で感情を推測するしかないね。そこが面白いんだけど」
淡々とした声質の中におどけたようなニュアンスが混じっている。
先輩も似たようなもの、と口に出しかけて、梓は寸前で吐き出す言葉を変えた。……アズサの方がやはり少しだけ上手である。
「誤魔化さないで下さい」
「ごめん、ごめん。やっぱり『不満』かな?」
ざっ、とアズサは写真の山を無造作に腕で隅に寄せた。
数枚が古机の向こう側に落ちてゆく。そのことに彼は気付いているのか、いないのか。梓の顔を覗き込むようにしている眼鏡の奥の真意は窺い知れない。
「でも、現物で見てもらったほうが早いだろう? 多分、そろそろじゃないかな」
唐突にパイプ椅子を引いてアズサは立ち上がった。ガタン、と大きめな音がした。
そして彼は、反射的に身を引いた梓の脇をすり抜けるようにして、狭い部室の反対側へと移動する。
「そろそろって……」
「うん、えっとね」
遮るように掌を梓に向けて、壁に縋りつくように設置された小さな本棚から古い大学ノートを数冊取り出すと、アズサは大切そうに捲り始めた。
ペラ、ペラ、という頁を捲る音だけが、外の雑音と一緒に部室内を満たす。
捲りながら、アズサは説明を始めた。
「これは代々の写真部員の活動記録なわけなんだけど」
コトンと、ある頁を開いたままの状態で大学ノートを置き、次のノートを手にとって捲り始める。
「君にも伝えた通り、写真部は基本個人活動だ。……そして唯一の例外がこの『怪異の調査』。十年以上前から始まっている。とある男子生徒が興味を持って始めたのがきっかけらしい。まぁ、残念ながら名前はわからないのだけどね。それで……」
古机の上には、六冊の大学ノートが並べられている。今、丁度七冊目を手に取ったところだった。
「それで、調査を続けてわかったことがこのノートに記されている。一年に付き一冊。そして写真付き」
最後の大学ノートの頁を開くとアズサは眼鏡を押し上げた。
「開いた頁の記録日は全て四月二十一日か、二十二日。二十一日のものは放課後、二十二日のものは朝、発見となっている。そして毎年欠かさず記録が残っている。……と言うことはわかるよね? 例年通りに行けば、今日」
コトリ、と九冊の大学ノートが古机の上に並ぶ。
小さなサイズの写真とその横に並ぶ文字列。手書きだが、丁寧でとても綺麗な文字がびっしりと並んでいる。
――もちろん、アズサの言わんとすることはもうわかる。
梓は頷いた。
それを見たアズサは、満足げに薄っすらとした笑みを口許に浮べている。いつもの能面顔がほんの少しだけ融解していた。
「『怪異』は出るだろう。だから、そろそろじゃ、ないかな」
アズサは二人の間あたりで壁にくっつくように設置された棚の上から、そっと愛おしそうに相棒のカメラを取り上げた。
「行こうか、梓君」
首にカメラを提げたアズサに促され、梓も入学祝いにと買ってもらった小型のデジカメを手にした。
「『怪異』を見に」
♂♀♂
【日記】
四月二十二日(火)
僕は凄く運が良いのかもしれない。
『怪異』を調査しようと決めたのが昨日。そしてどうしようか方法で悩んでいたのも昨日。
『怪異』は不定期、と聞いていたので気長に待つつもりではあったのだが――今日、なんと『怪異』が出たのだ。
今回はかなりわかりやすいものだったらしく、一棟の二階廊下に文字通りの『地面』が出来たらしい。大量の土を掻きだす為に、体育の授業があった者は動員されたそうな。
先輩は『また、脈絡のないな。(判別不可)、取り込まれないようにだけは気をつけろよ。あいつ、本体欲しがってるって噂だから』と言っていた。
・『怪異』が、本体を欲しがる?(走り書き)
♂♀♂
【現在、四月二十一日】
『怪異』を求めて、校舎を二人連れだってそぞろ歩くこと十数分。
「……これ、だね」
カシャッ、というシャッター音と一緒にアズサが呟く。
それに倣うようにして、梓もぎこちない手つきでフレームに『それ』をおさめた。
二棟三階、おそらく六組と五組の前の廊下。
二人を除くと人の姿は一切ない。
そして、その二人の目の前に広がる、苔色のリノリウムの廊下には、
「……水溜り、ですよね」
「そうだね」
盛大にバケツをひっくり返した後のような惨状が広がっていた。
……だが、表面張力によって薄い層となった水が広がる光景は、惨状ではあったが『怪異』と称するにはいささか迫力に欠ける。この程度なら生徒一人のいたずらだった、といってもおかしくはない。
カシャッと、もう一枚撮りながらアズサが残念そうに溜息を吐く。
「今年は地味だね……」
パチャッ、と梓の安っぽいシャッター音がそれに続いた。
「いつもは、どうなんですか?」
えぇっとね、とアズサは記憶を探るように低く呻く。
「……去年は各教室一枚ずつ、硝子がペンキで一筆描かれたかな。色は白で。……それと、先輩が言ってた話によると、その前は四棟三階教室、三つ分に紙ふぶきが一cmほど敷き詰められてて、その前は確か、部屋のプレート総入れ替え」
「総入れ替え」
梓が鸚鵡のように復唱すると、横で微かに首を縦に振ったように空気が動いた。
「うん。そのまんまだよ。普通教室から特別教室、研究室、果ては部室まで全部の掲げてたプレートが入れ替えになったらしい。……サイズが全部一律だったのが災いしたんだろうね」
淡々と説明しながら、カシャッ、ともう一度だけシャッターをきると、アズサはファインダーから目を離した。
「……一回目が地味なのを、喜んでいいのかは複雑だね」
そう呟いて、先に撮り終えていた梓に向ける表情こそは能面だったが、その口調には喜びと戸惑いがない交ぜになっていた。
来た道を二人でゆっくりと引き返しながら、アズサはぼぞぼぞと続ける。
「調査記録によると、『怪異』はどうやらこの四月二十一日を境に一回リセットされるようなんだ。そしてその『初の怪異』の出方によってその年の『怪異』の規模が違うらしい。派手なら残りは地味。地味なら残りは派手。……まぁ、これは確証が一切ないから断言は出来ないことなんだけどね」
梓は黙ったまま、アズサが一人話すのに任せている。
ありがたいことに、彼は彼女が黙ったままのことに何の違和感も覚えてはいないようだった。
……表情こそ変わってはいないが、内心はそわそわと動揺していたので上の空だったのだ。
梓は内心で一人そっと安堵の溜息を吐いた。不恰好に短く切られた黒髪が耳元で揺れる。
どうにも気が重い。原因は解りきっていることであるのだが。
――要は、二棟を歩くのが嫌なのだ。
アズサは毎日通う場所なのだから、きっと何も感じはしないのだろうが。
冷たい金属の階段を降り、二棟の二階の廊下を歩く。スカートの下の足が妙に冷えるような気がした。
――あぁ、嫌だな。近い。
時間がスローモーションで流れていくような苦痛。
――二年四組、とプレートが視界に入った瞬間、梓の左瞼が僅かにピクリと引き攣った。
♂♀♂
【日記】
五月七日(水)
二回目となる『怪異』に遭遇。
やっぱり僕はついているのかもしれない。
先輩曰く『怪異』は一年間に平均二回、つまりは半年に一回の遭遇があるらしいので、二ヶ月に、という頻度は珍しいらしい。やはりついている。
頻度が上がることで後始末が大変と、いろいろな人は迷惑がってはいるけれども、僕としては大歓迎な事態である。
ちなみに今回の『怪異』は鉄棒の移動だ。
埋めてある鉄柱を引っこ抜いて動かそうとする酔狂な人など、常識的に有り得ない、とのことだそうで。……確かにその通りではあるが一体『怪異』は何を考えてそんな事をしているのか。
全くもって目的や傾向が掴みづらい。
だが、面白い。
♂♀♂
【現在、五月七日】
ぺたん、ぺたん、と間の抜けたサンダルの音を響かせながら、梓は手一杯のノートを抱えて廊下を歩いていた。
時が経つのは早いもので、もう既に五月に入り、校舎の構造にもようやく慣れてきた。
今日は数学の課題の提出日であるので、梓はクラスメート分のそれらを抱えて数学研究室に向かっている最中だった。
……確か、数学研究室は一棟の三階にあるはずだ。
梓の知らない曲を一生懸命に練習する女子生徒達の前を足早に過ぎ去る。放課後に入ってから暫らく時間が経っているせいか、廊下には彼女達以外の人影は見当たらない。校庭のほうからは大きな掛け声や何やらが聞こえてきていた。今日も精が出ることで、と皮肉っぽい感想を心の中で抱く。
一棟の階段を上がりながら、梓はぼんやりと部活、引いては部長である彼のことを思った。
『怪異』のレポートは随分前に終わってしまった。昨日はカメラの簡単な掃除をしていた。今頃はきっと、いつも通りの写真整理でもしているのだろう。
……写真整理、と言えば、あれは一体どんな基準で整理されているのだろうか。その光景を頻繁に見ているはずなのに、未だに基準がわからない。
――ぺたん。
三階に着いた。とりとめもない思考を一旦停止して、真っ直ぐ数学研究室に向かう。
幸いなことに研究室の戸はスライド式だった。梓はノートの山を抱えたまま、戸をノックし、スライドして開ける。慣れることのない独特の雰囲気がその中に漂っているようだった。
「失礼します、一年六組の関森梓です。○○先生に用があって来ました」
くぐもった小さな声で、形式的に、無感情にそう述べる。一種の儀式みたいなものなのだろう、と不意に思った。
「――あぁ、○○先生なら出張だよ。そこの机に積んどいて」
名乗ったままぼんやりと佇んでいた梓に、近くに座っていた教師が振り向いてボールペンの先で空席を示した。既に課題の山が一つ出来ている机がある。そこがそうらしい。
「あ、はい」
か細い声で応え、梓はそこに課題の山を増やした。腕が軽くなる。これは嵩張るだけでなく、存外重いものだったらしい。
何処からか漂ってくる珈琲の匂いに僅かに顔を顰めながら、梓は背を向けた。
一体どういったわけか梓自身にも解らないが、どうにもこういった部屋、つまりは職員室じみたところが昔から苦手だった。嫌い、というわけではないのだが苦手なのだ。
紙を捲る音、珈琲の匂い、並ぶ事務机とその上に並べられた参考書や教科書、教師と生徒の話し声。そしてそれらが形成する独特の雰囲気、そのすべてが。
……あぁ、息が詰まる。
戸の前で回れ右をして「失礼しました」と頭を下げた。
もう一度頭を上げたとき――教師と話していた男子生徒がタイミングよく振り返った。
目が合う。
時間が一瞬だけ止まったような気がした。
梓の瞳孔が幽霊でも見たかのように見開かれる。
ひゅっ、とその喉が鳴った。
息が……詰まる。
……向こう側も奇妙な表情をしていた。
「ぁ」
思わず漏れ出た声は、聞こえてしまっただろうか。
動揺を隠せないまま、梓は逃げるようにして戸の向こう側に行く。
心臓がいつもよりも早く脈打っているのがよくわかった。
……いるのは知っていた。意識的に会わないようにしていた。
本当は別の場所を選べば良かったというのに、同じ場所を選択してしまったのは、梓の中に微かに残る感情のせいなのだろうか。
息を吐く暇もなく、梓は駆け出した。
パタン、パタンと紅いサンダルが鳴る。
階段を駆け下りる。
逃げずにはいられなかった。
息を弾ませて廊下を駆け抜ける梓を、楽器と共に少女達が不思議そうに見ている。
紅いサンダルが鳴る。
梓の視界がぐにゃぐにゃと歪む。
泣いてはいない。――ただただ、動揺していた。
きっと会うだろうと、予測はしていたのに。
どうしてこんなにも動揺しなくてはいけないのだろうか。
……。
…………常和。
…………常和。
…………あれは、常和だった。
おそらく、いや絶対に。
……。
…………。
………………落ち着け。
………………落ち着いて。
四棟へ行って、三階のクラスに入って、鞄を持って。
いつも通りに。いつも通りに。そう、いつも通りに。
………………部活に行くんだ。
♂♀♂
【日記】
十一月三十日(月)
『怪異』の調査を始めて一年半と少しが経った。
先輩達はもう、皆、引退してしまった。
今この部活には僕以外誰も在籍していない。
……そろそろ、この日記を書くのも終わりになるだろう。
今日、ようやく『怪異』との接触方法がわかったのだ。
♂♀♂
【現在、五月七日】
「あぁ、梓君」
部室の戸を開けると、案の定、彼は写真の整理中だった。
梓が入ってきたのを見て、手にした写真をひらひらと振る。写っているのはおそらく生物室であろう。夕日が教室に差し込んでいて綺麗な写真だとは思うが、やはり何故こんなところを撮ったのかは理解が出来ない。
「遅いから、今日は来ないものかと」
声色こそほっとしたような色があったが、表情のほうは相変わらずの能面で、梓はいつものことながら違和感を覚えた。
鞄を所定の位置に降ろし、携帯電話で時刻を確認すると五時二十分少しを過ぎたところだった。……数学研究室を出たのは大体四時半。どうやらかなりの時間呆然としていたようで、時間の流れた感覚が曖昧だった。
「……数研にクラス分の課題を届けていたもので」
「そっか」
納得したのか、あっさりとした返事一つでアズサは写真整理に戻った。
その隣の椅子を引いて座り、その横顔をぼんやりと眺める。
銀縁眼鏡の奥の瞳は今日も、世界の裏側を覗いたかのように澱んで見える。
不意にアズサは手を止め、梓の方へと顔を向けた。
凝視していた後ろめたさからか、向けられた真っ直ぐな視線を避けるように自然に梓の目が泳ぐ。
「梓君、今日は五月七日だね」
「……そうですね」
突然の確認口調に戸惑いながらも、応える。
傍らに置いてあった相棒を撫でながら、アズサは言葉を続けた。
「今日、『怪異』が出るかも知れない」
ほんのりと澄みを取り戻した瞳が細められる。
「七日、二十一日は『怪異』が良く出る日なんだ」
「『怪異』が良く出る日」
梓は鸚鵡のように復唱した。良く出る日、というのがわかるということは『怪異』は妙に律儀なものなのか。……はたまた何かの縛りでもあるのか。
「そう。理由はよくわかってないけど」
アズサが薬指で眼鏡を押し上げた。
「……今回も、探しに行きますか?」
「いや」
即座だった。
二回、瞬きをする。探しに行かないと彼が言うのは予想外だった。てっきり喜び勇んで探しに行くのかと思ったのに。
肩透かしを食らったような気分の梓に、アズサは能面顔を僅かに傾ける。
「今日はそんなに時間がないだろう? 明日の朝調査したい。来れるかな?」
「……大丈夫です」
梓も能面顔で応える。
「良かった」
そのまま、アズサは整理中の写真に視線を落とした。
――今日は何故だか動揺するようなことばかり起きている気がした。
♂♀♂
【日記】
十二月四日(金)
七日に決行しようと思う。
一応、何か起きたときのためにこの日記は残しておく。
僕の仮説が正しいとするならば、捨てられることはおそらくないだろう。
隠し場所は書庫の隅にした。もし、僕でない誰かがこれを読むのだとしたら、いったいどのような経緯を辿ったのか気になるところだ。
……まぁ、知る術はないだろうけどさ。
さようなら、(判別不可)
・『怪異』の核は、本人の思い入れがある何かにするもの。
続
現在自己最高作。
才能が痛切に欲しい。
願わくば、この小説と呼ぶのもおこがましい小さな噺が誰かの目に触れますように。




