1-7ある男の最悪の船旅
【Side R 】
「(……左に二匹、右に三匹、更に前後に一匹ずつ、計、七匹。)」
レインが推定するに商船、その甲板後方。船員と魚獣が密集する船首付近から遠ざかるべく、こそこそ此処までやってきたところで、彼は海面から飛び出してきた魚獣に取り囲まれた。
左手を外套の中に滑り込ませて、腰に据えた自身の武器の柄に指を添え、レインは自身を狙う、そして自身が狙う標的を睨み付ける。魚達はその大きな目をぎょろつかせ、今にも飛び掛からんとばかりに牙を剥き出していた。
ボローと呼ばれる魚獣。
―――雌雄一対のリーダーを持ち、三十から四十匹程度の群を形成する。強靭な尾鰭により海面を飛び出し、腕か脚の様に発達した胸鰭と腹鰭によって餌を捕え、海中に引きずり込む船旅の天敵。硬質な鱗を持つにも関わらず、水の外では絶えず体表を特殊な粘膜で覆い、陸上での活動限界は魚類としては異例の長さである。
まあ、陸上でのボローの攻撃手段と言えば、飛び込みざまに噛みつき、相手に取り付くくらいのものだ。相対するのが個であれば、何の問題も無い文字通りの雑魚。だが、群れられると現状のレインのコンディションでは面倒なものがあった。
助けを求めようにも、船員達はレインの存在に気いていながら、あえて視線を向けるに留めている。何せ甲板は、夥しい数のボローで溢れ返っているのだ、そちらの相手を優先するのは当然。
そうでなくても、彼は密航者である。船員達にしてみれば、彼が魚に始末されれば手間が省けばよし、仮に魚を撃退しても、弱った所を取り押さえればよし、と言ったところだろう。
「面倒な……仕方ない。」
ふう、と、半ば癖の様に吐き出される溜息を、自分のことながら鬱陶しく思いつつ、彼は腹を決めた。
魚獣の鱗は硬質だ。無手で打ち抜く技術が無いではないが、得物を使う方が手っ取り早い。腰を落とし、僅かばかり刀身を鞘から覗かせ、長く息を吐き出す。そして、瞑目。
レインの精神が、静かに砥がれ、周囲へ溶け出してゆく。徐々に、一人と七匹、その狭い空間を鋭い緊張感が支配して行った。まるで、縦横無尽にピアノ線を張り巡らせ、一歩でも動けばその身が切れる密室の様な、そんな異様な緊張感。
レインのこれはボロー達への牽制、警告の意味を持つ。野生のケモノは人間よりも余程鋭敏である。こと、その生き死に関わることならば尚更に聡い。
生存競争。それこそ生命の本質、生存の課程にして最大の目的。野生のケモノは、この生きる者としての最も本質的な部分で闘争を行う。
レインが周囲に垂れ流すこの緊張感は、武闘家の言う殺気や敵意とは別物、いや、あんな高尚なモノと比べるのも愚かなほどに下賤なモノである。魚獣達が今感じているモノの正体は、ケモノのレベルまで落とし込まれたレインの、自身の生存における『殺し、喰う』という意志なのだ。
「(しかし、この状況はいただけんな……。囲まれている上に、俺は魚の殺し方と言うものを知らん……。幸い、この七匹を除いて近くに魚はいない。他の魚は、ここの船員達が相手をするだろうが、さて。)」
そんな緊張感を周囲に発する根源は、それでいて頭の中までケモノに成り下がった訳では無かった。心は飢えても思考は人間、呼吸のルーティンにより熱を放出した頭はクリアー。冷静に現状を判断したうえで、彼は一つ決断をした。
「(魚共から、逃げる気配は感じられない。と、なると……釣るか。)」
レインの想像以上に鈍感なのか、はたまた衰弱した彼を脅威とみなさなかったのか、ボロー達は躊躇しつつも、逃走する素振りを見せない。あわよくば戦わずにこの場を乗り切りたいと思っていたレインは顔をしかめる。
そこで彼は、魚釣りを敢行した。唐突にその身から垂れ流していた緊張を打ち切り、膝から崩れ落ちるフリをする。何のことは無い、自身の身を餌にしただけである。そして、雑魚はまんまと喰い付いて来た。
ケモノだてらに隙とでも見たのか、まず最もレインに近かった、彼から見て前方の魚獣が飛び掛かってきた。一拍遅れて、前後左右、残りの六匹もレイン目がけて躍り掛かる。
喰い付いた餌は、針のたっぷり着いた疑似餌だが。
ぶっ、と短く、レインは息を吐き出し、開眼、抜刀、同時に大きく足を踏み出し、すれ違いざまに横に薙ぎ。手にした得物、特異な形状の刀が、口を引き裂き鰓を割り。鱗を砕く感触に続いて、肉を裂く柔らかく生々しい感覚が刃を通して腕に伝わる。途中の肋骨も意に介さず、彼は魚を横真二つにした。
前方に斬りかかることで、残る方向からの牙の到達を更に二拍遅らせ、今レインには三拍の猶予が与えられた。
一拍、レインは己の前進の勢いを殺し、刀の軌道を下へと向け、右足にタメを作る。
二拍、刀を甲板に突き刺し、ソレと左足を支点として、未だ上下の二枚が重なったまま空中に浮かぶ、殺したての魚獣の死体を、
「っばあ!」
背後に向かって思い切り蹴り飛ばす。
そして三拍、六匹のボローはボーリング玉に弾かれたピンさながらに吹っ飛んだ。
甲高い悲鳴を上げて甲板に落下するボロー。しかし、振り返ってソレらを見るレインの目は厳しい。
蹴りに、本来出し得るだけの威力が無かったのである。
彼は、彼に可能な最低限の攻撃で七匹のボローの包囲から抜け出し、内一匹を仕留め、ボロー達と十分な距離もとった。しかし、それは彼がこの行動で想定した最大効果に程遠い。
彼の狙いは、死骸を蹴り飛ばし、自分の立っていた場所に密集するであろうボローを、すぐには自分を狙えない位置まで、あわよくば船縁を越えて海まで弾き飛ばし、その隙に再び船内に逃げ込むことだった。話の通じないケモノを相手取る面倒よりも、人間に拘束されようが、水と干し肉でも請うたほうが、幾分ましかと考えたのだ。
しかし、現状、残る六匹共甲板の上に健在、それぞれレインから然程遠くも無い位置に落下している。己の衰弱具合を勘定に入れなかった失態。直接的な攻撃は、ボローを刺激したに留まり、もう、ソレらがレインを狙うことを諦めることは無いだろう。船内に入る扉は、そう遠くない。しかし、
「(……蹴りに威力が乗らない以上、肉体に過信は禁物だ。とは言っても、逃げる過程でこの魚共が別の乗組員を襲った場合、俺の立場は今以上の最悪になる。……最悪、その場で魚の餌にされる。)」
彼に逃げる、と言う選択肢は残されていなかった。
大人しく捕まっておくべきだった、と今更思えども後悔先に立たず。
すべきは決まった。斬り捨て御免。興奮するボロー共が再び飛び込んでくるのを待たず、最低限の最速でカタを付けるために、レインは左手に持つ刀を振りかざしソレらに突撃した。
頑丈な甲板にヒビを入れるほどの踏み込みと共に、上から下へ、力余さず振り降ろした初撃で、最も右側にいた一匹の頭蓋を縦二つに叩き割る。そして、更に左側から襲い掛かって来る残る五匹を迎え撃ちにかかった。
彼は確認する。面倒事を嫌う彼は、最善を模索する。
刀を持つ手を軸に、水面蹴りの要領で死骸を蹴り飛ばしつつ反転する。そして、膝のバネを使っての、先の軌跡をなぞる様な下から上への斬撃で二匹目の腹を切り裂き、回転の勢いを付け、鱗を蹴り破りそのまま鰓に金属製の靴先を突っ込む。黒い脚に撃ち抜かれたボローは、蹴られた勢いのままに船縁に叩き付けられ息絶えた。
それにしても先程から、刀を使う者としては、余りにも乱暴で乱雑な闘い方である。本来、彼の得物である刀は、多くの場合、抜刀後は両手で振るう武具だ。西方の剣に比べ耐久性は低いが鋭さを生かし、達人の会心の一撃は鉄すら切り裂くという。
しかし、彼の剣術は、明らかに刀の本場で仕込んだものではない。それ以前に、恐らく彼は剣士ですらない。
最初に見せた抜刀こそ見事ではあるが、それ以降は西方のロングソード系剣術に通じる『重さで断つ』『弱所に突く』剣を見出せる。そして剣を振るう中での体の使い方は、身体の捻りや反作用の利用など、むしろ東大陸剣術に近い。そして、そのどれもが、見様見真似で一応剣術としての体裁を成している、と言ったレベルだ。
反面、体術、と言うより格闘の際の身体の操作に関しては一級品であった。確かに、接近戦では剣捌きよりむしろ体捌きに重点が置かれる。しかし、それはあくまで剣を活かすための技術である。流派にもよるが、金属の塊を握っていながら、得物を持たない時と全く同じ体勢での回転ハイキックをかますことは、まずないと言っていい。
彼の場合は、体捌きに剣が引き摺られて動いているような印象すら受ける。良く言えば、剣を使える格闘戦士。悪く言えば、喧嘩屋のチャンバラごっこ。
しかし、酷くちぐはぐなこの男も、
「(そこが……)」
根っからの戦士ではあるようだ。
まだ魚は四匹残っている。今も魚達は、波状攻撃のつもりなのか、タイミングをずらして彼に向かって来ている所だ。しかし、恐らく体術が得意である筈のこの男は怯むことも無く、更に力を込めて刀を握り締め、追撃に移る。
彼は確認した。
面倒事を嫌う彼は、それ故に、次の自分の行動を前回までの行動に照らし合わせ、リファインする。
真一文字に切り裂き、頭を二つに叩き割り、腹を斬り、鰓を砕き。徐々に狭めた攻撃範囲によって、彼はそれを見極めた。
サイドステップを一つ入れた彼は、脚を引き、今まで、薙ぎ払う動きの為に、だらりと下段に垂らしていた腕を、刀が甲板と水平になる様に持ち上げる。これも、刀の本場にはない、本来は刺突剣であるレイピアやフルーレに用いる構えである。即ち、
「(そこが、お前等の、急所かっ……。)」
突き特化の構え。
一瞬、掻き消えた切っ先は、問答無用に鰓を串刺しにした。腹は鈍い、頭骨は堅い、なれば狙うは容易な急所。目にも留まらぬ突きの二連射は、即座に二体のボローの息の根を止めて見せた。
彼の刺突の型は決して綺麗なものではない。ただ、その腕の突き出しと、脚の踏み込みがそれを補って有り余る。
仕留めた標的を見やることもせず、彼は特攻を仕掛けて来る最後の二匹を視界に収めた。肘を溜め、脚を踏み出し、白刃が二つの穴を穿って闘いは終結する。
筈だった。
がくり、と、彼の体重の乗った左ひざが、落ちた。
「(……っ!!??)」
何の前触れも無かったそれに、転倒しなかっただけ幸いか。彼は咄嗟に構えていた突きを甲板へと叩き付け、刀に縋り付くようにして脚を立たせる。
しかし彼がどんな様態であろうと、時間は待ってくれない。敵は文字通り、目と鼻の先である。彼は首を限界まで逸らし、魚の牙から逃れる。それでも完全には除けきることはできず、フードが吹き飛び、肩口から血が噴き出した。
つい先ほどまで、雄壮に刀を振り回していた者とは思えないほどに様相であった。元から色素の薄い彼の顔は、急速に血の気を失い蒼ざめ、脂汗が滲み。表面上見て取れない内側でも、心臓が狂ったように鼓動を刻み、頭には内側からヤスリで削られているかのような痛みが走る。
「(景色が、揺れる……。脚に……力が、入らん。空腹の為だけではない、一体、俺はどれ程眠っていた?薬を、飲まねば……。)」
生まれたての山羊の様に頼りない脚を何とか立たせ、カタカタと震える手を腰のポーチへと伸ばす。しかし、そんな彼が目的の物を手に入れる暇も無く、血の味を占めた魚獣は容赦なく襲い掛かる。
迫りくるボロー達を、彼は体を支えていた刀から手を放し、無様にも転がるようにして回避する。仰向けに転がった彼の真上をボローの影が過った時、
「ふん……!」
レインは背の甲板を支えに、ボローの一匹の、首から鰓に掛けてを狙い、踵を捻じ込んだ。瞬間、ボローの腹が弾け飛ぶ。
「(嫌な外れ方だっ……!)」
顔に降りかかる肉片や臓物を目に入れないことに専念しなければならない。彼はぎこちなく動く右腕で顔を覆いながら、何とか体を起こそうとする。しかし、先の蹴りで、彼は本格的に窮地に陥ってしまっていた。
元から僅かにしか残っていなかった体力で、無理な動きを身体に強いたのだ。最早、絞りカスの如き彼の体力。ぎこちなくしか動かない脚は、残る七匹目のボローが三度目の特攻を仕掛けようと身構える段になっても、レインを立ち上がらせるに至らない。
思い通りに動かない自身の一部に歯噛みしながら、ボローを一瞥したレインは、脚を動かそうとすることは止めずに、腰へと伸ばしていた左手を首元へと持っていく。
ボローがその強靭な筋肉を解き放ち、獲物目がけ、飛ぶ。
そして次の瞬間、黒外套はその中心から食い破られた。