第四話・とある法務官の邂逅
シュヴス領法務部に所属するイウリア=ハーヴェイは勤続十年、三十歳になる男性だ。
名前を聞き、一見しただけでは、その情報と結びつくことはない。
本来、イウリアという名前は女性のものであること。そして、実年齢より十歳は若く見られる童顔のせいだ。
男、という観念で見れば、さらに困惑は深まる。
儚げとすら言える美貌と成人男性にしては小柄な痩躯が、名の通りに女性的な雰囲気を作っているからだ。
だが、その外見で判断し、侮れば痛い目を見る。
法務部の面々は、それを嫌と言うほど知っていた。
「で、これが却下な理由は?」
上司であるはずの男性の前に仁王立ちし、イウリアは睥睨する。
その態度やまなざし、声にも、敬意の欠片すらうかがえない。それに対して、上司である初老の男性は頬を引きつらせて、イウリアを見上げている。
年齢もキャリアもイウリアよりも上だが、優秀さでは劣る。
だが、職場の上下関係は絶対のはず。なのに、他の法務官は我関せずを貫くように自身の仕事に没頭し、男性は腰が引き気味になっている。座っていてもわかる。
「いや、まぁ、前例と判例に基づけば、その訴えは却下するのが妥当と…」
「アホか」
上司の言葉を一刀両断するイウリアに、他数名は前かがみになって無関係を示そうとする。
イウリアは基本的に穏やかで温厚な性格をしている。柔らかい笑みを浮かべる姿は、女神とも思える(男だが)ほどだが、スイッチが入ればその性格はなりを潜め、その外見を大いに裏切る本性が現れる。
「前例とか判例とかで判断するな。それで全てがまかり通るなら、官吏なんぞいらんだろうが。ボケ」
イウリアは非常に口が悪かった。
「だいたい、不作で納税が滞りがちなのはしかたないだろうが。何でそれを免除できない? 強引な取り立てが行われる? 納税するために娘を売らなくてはならないような税率が普通か? どうなんだ」
「いや、まぁ、うん…」
反論できずに上司は生返事で頷くしかない。
「不作で収入が去年の半分という申告内容と、こちらの調査内容は合致している。これを見れば、免除できなくとも減税、もしくは、納税延滞が許可されるはずだ。強引な取り立ても必要ない。つーか、おかしい。生活苦での身売りは珍しいことでもないが、それをしなくてもいいように立ち回るのが行政の役目だろうが。なぁ、おい」
「ごもっともで…」
どちらが上司か分からない会話に、他の官吏達はひたすら自分の仕事に没頭する。
口が悪いだけでなく、相手が誰だろうが自分の意見を曲げずにくってかかる。本来ならば、煙たがられて閑職に追いやられてもおかしくない。もしくは、適当な理由をつけて免職にされている。
だが、イウリアはそこらへんをしっかり理解した上で、与えられた仕事は素早く完璧にやり遂げていた。しかも、最初の三年ほどは大人しく従順な部下として仕事に取り組んでいたので、適当な理由すら用意できずにいる。
上司達にできるのは、イウリアを昇進させないように手を回すことだけだった。
「じゃぁ、これを受理しろ。ほら」
追い立てるように机をたたくイウリアに気おされて、上司はため息をつきながら認可の印を押す。
「イウリア、お前の言い分は正しい。だが、こちらの手を離れてしまえば…」
「提出してきます」
ようやく丁寧な言葉で一礼するイウリアは、嫌と言うほどに聞いた台詞を無視して背を向ける。
イウリアが属しているのは、法務部でも下の方になる。さまざまな訴えを聞き、それを吟味する役割にある。その中で正当な物を選別し、上の部署へと提出する。その時点で、イウリアはもう触れることができなくなる。
「分かってるさ、どうせ意味がねぇことくらい…」
正当な物の中には、上の者達にとって不都合な物がある。イウリア達が真面目に仕事をしても、上に握りつぶされては意味を成さない。
それを知っている上司は、イウリアに何度も言っている。五年以上、イウリアがとってきた行動は、後ろ暗いことのある上の者達にとっては、忌々しいものだ。下手をすれば、イウリアの命が危なくなる。
免職にはできなくても、命を奪うことは容易にできる。それを案じ、気に食わなくても官吏としてやっていくのなら上に従え、と上司は繰り返す。つまりは、イウリアを心配しているのだ。
その心遣いは、イウリアにとってありがたいが、どうしても見過ごすことができない。
「ま、平気だろう…」
楽観視しているのではないが、そう思っていなければ、やっていけない気がした。
書類を提出して仕事場に帰ろうと踵を返す。
「随分と命知らずだな」
外へと通じている廊下だ。背の低い壁が外との境界線になっている。
その壁にもたれ、自分に声をかけた存在に、イウリアは目を丸くする。だが、次の瞬間には、皮肉気な笑みを浮かべて、恭しく礼をとった。
「これはこれは、王女殿下。お目にかかれて光栄に存じます」
「非常に嘘っぽいぞ。イウリア=ハーヴェイ」
楽しそうに笑うエリーサに、イウリアは珍妙な物を見るような視線を向けた。
※※※
倉庫裏でライアンと遭遇したエリーサは翌日、意図的に各部署を回って人間観察を行った。もちろん、人目に触れないように隠れたり、執務室の外壁に寄りかかって耳をすませたりして。
一国の王女がすることではない。
法務部の執務室の外壁で耳を澄ませていた時、聞こえてきたのがイウリアと上司の論争だ。
無駄と分かっていながらに自分の意思と正論を貫くイウリアに、興味を持ってこっそりと後をつけて声をかけるタイミングをはかっていた。
返って来た反応は王族に対する礼としては完璧だが、その瞳に宿る感情が侮蔑に似ているのを察して、エリーサは思わず笑みを浮かべる。
「話を聞きたい。シュヴスの司法について」
「…法務部長を呼んで聞けばよろしいのでは?」
「取り繕った虚偽などいらない。時間の無駄だ」
「…事実だけを報告している部署はないと思われますが」
「多少の虚偽ならば良い。それが普通だ。だが、相手を欺こうとして作られた虚偽は不愉快でしかない」
「……………………」
「私は、民の声をちゃんと聞いている者の口から、事実だけを知りたい」
「私が、それだと…?」
「ちゃんと、嘆く声を拾って耳を傾けているからこそ、貴方は今までこんなところでくすぶってきたのだろう?」
エリーサの言葉に、眉間にしわが寄る。
確かに、正論を貫いてきたからこそ、民の嘆きを政治に反映できない立場のままでいた。それを悔しく思いながらも、一時でも自分の意志を曲げることができなかった。
「貴方は、正常な『耳』を持っている。民の真実の声を聞きとる『耳』を」
「…聞きとっても、それを反映できなければ意味がないのですよ」
「正常な『耳』とともに、貴方の心は正常過ぎた。それを曲げることができなかっただけ。貴方に非はない」
「…正しければいいというものではありません。特に、政治は」
「知っている。そして、貴方は私以上にそれをよくご存じだ。だが、それでも貴方は正論を貫いた。いつか、それが当然になるのを願っていたのでは?」
「私は五年以上、正論を叩きつけながらつぶされてきました。今さら、そんな願いを抱くのはばかげている」
「願っていた事自体は否定しないんだな」
「…っ、殿下。貴方は、何が目的でいらっしゃる?」
図星をつかれて、イウリアは自分のことから話題をそらす。
それにエリーサは笑みを深める。
王族相手でも怯まないイウリアに、エリーサは好感をもった。言葉を変えても態度を変えない、その平等さは稀有な才能だ。それを、埋没したままにはしたくなかった。
「平穏」
問いに、エリーサはただ一言答える。
常に緊張を強いられた十五年間。それを思えば、一国を背負う重責も玉座にあるべき地位もいらない。ただ、安穏と過ごせる日々と安堵して帰れる場所があれば良かった。
だから、これはエリーサの嘘偽りのない真実の願い。
イウリアにとって、それは予想外過ぎる答えだった。
王族でありながらずっと忘れられてきた(表向き)王女が、不満と鬱憤を晴らそうとして、権力を欲しているとイウリアは思っていた。
豊かなシュヴスを手に入れて、自分勝手にやりたいのだろう、と。
それは、イウリアが嫌悪する貴族の姿だ。だが、多くの民にとっては王族の印象も同じようなものだ。ロナードに関しては多少違うかもしれないが。
イウリアの考えを全否定する答え。そして、見つめる瞳はひたすら真摯にイウリアを見返している。
否応なしに、エリーサが真実平穏を望んでいると、イウリアは突きつけられた。
「ならば、何もしなければ…」
「民の嘆きが深まる場所を、平穏とは言わない」
きっぱりとした発言に、イウリアは口を閉ざす。
「民の嘆きを聞くべき法務部が、それを無視する現状。それが当たり前になってしまっていること。正論を貫き、曲げない者が不当な立場に立たされていること。そんなものが普通の場所は、平穏ではない」
まっすぐなエリーサの瞳に、鼓動が大きな音を立てるのをイウリアは自覚した。
「綺麗事ばかりでは何も上手くいかない。汚いことも卑怯なこともあって、全ては成り立っている。それは理解している。だが、やり過ぎた不正を見逃すことは違う」
それは、イウリアの持論に重なる。
汚職も不正も、時には必要なのだ。だが、自分の利益のためだけに行われるそれは、決して見逃してはならない。それは当然でありながら、多くの不正が見逃されているのが現在だ。そして、それは非常に現実的でありながら、現実にするのはかなり難しい『理想』であり『真実』だった。
多くの不正を暴き、『理想』と『真実』を現実にするのにイウリアは力がなさすぎた。
「私は知らなくてはならない。自ら望んで領主になったわけではない。だが、領主として民の命と土地を預けられた今、義務と責任がこの手の中にある。それを果たさずに、自分だけ平穏でいることなんてできない。だから、教えてほしい」
侮蔑に似た光が宿っていた瞳は、別の感情を宿して輝きだす。
「幾度も裏切られてきた貴方に、私みたいな世間知らずの小娘は信頼に値しないかもしれない。だから、試す思いでいてくれれば良い。私が何を行い、何を成すのかを見ていてほしい。イウリア=ハーヴェイ」
呼びかけに、イウリアは笑う。楽しそうに、そして、どこか泣きそうに。
「貴方の話が聞きたい。貴方が見てきた、シュヴスの司法について」
繰り返されたのは、最初と同じ言葉。
それに遠まわしな拒絶を示したのはイウリアだ。だが、今度は違う。
「貴方が望まれるのなら、喜んで…」
完璧なほどに恭しい一礼。
それには、心からの敬意が込められていた。
侮蔑の光を消して、宿った光の名は、歓喜。
まっすぐに見据えられた瞳には、ただひたすらに真実だけが宿っていた。
この時、イウリアは確信した。
十年待ち続けた、『理想』と言う名の『真実』が、自分の前に姿を現したことを。