第一話・始まりへ
三月下旬。
国試を通過した者が官吏に登用され、直轄地の代官や現役官吏の配置換え、などの人事が王宮では忙しなく行われている。
ただ、直轄地の中でも最重要なシュヴスを与えられ、領主となるエリーサは、ガルビオン子爵領でのんびりしていた。
町中の少年が着るような、麻のシャツとズボンという軽装のエリーサが数ヶ月に渡って使っていた部屋は、家具を除いて一切がなくなっていた。
すでに荷物はまとめ、シュヴスへと送られている。あとは、エリーサ自身が行くだけ。
前任の代官との引き継ぎもあるため、今日の内に向かわなくてはならない。
隣とはいえど、サイハラからは半日以上かかる。海から船で行けばその三分の一の時間で行けるが、乗馬(貴族の夫人が好む優雅なものでなく本格的なもの)が趣味のエリーサは、領内を見ることを目的に馬で行くことにしたのだ。
頻繁に訪れるエリーサのために、数年前にルクエラが用意してくれた愛馬を引き取って出発に向けて動き出す。
膝丈の淡い桃色のチュニックを着て、ベルトを締める。エリーサ的には、シャツとズボンでいいのだが、その恰好で外に出た時、伯母と従姉達から一斉に説教を食らうはめになったので、懲りていた。
乗馬用のブーツのひもを締めて、必需品だけを入れたバッグを肩にかける。
今のエリーサの姿を見ても、誰も王女などとは思わないだろう。
良くて、そこそこに裕福な商家の娘、ぐらいだ。それほど質素で、こざっぱりとした姿だった。
「お前、男みたいな格好、好きだな……」
部屋から出た瞬間、正面の壁にもたれていたオルディスに、呆れたように呟かれた。それに笑みを浮かべて、エリーサはその場で一回転してみせる。
「似合っているでしょう?動きやすくて好きなんです。ドレス着てたら馬を走らせることができないですし。というか、横乗りってしたことありませんし」
貴族の女性はすそをたくしあげなくてもいいように横向きに乗る。
今まで、王子として過ごしてきたエリーサには、そんな技術はない。
「確かに」
小さく噴出して、オルディスとエリーサは並んで歩きだす。
仲の良い兄弟にしか見えない二人は、ことさらにゆっくりと歩いていた。
いつも通りの会話を楽しみながら、この時間が最後だということを知っていた。
シュヴス領に入った時、その時から、エリーサはガルビオン子爵家とは赤の他人になる。
自分自身の道を歩むために、エリーサは自らを支えてくれていた縁を、自ら断ち切ることを選んだのだ…。
※※※
伯母夫妻と従姉達に見送られて、エリーサがシュヴス領に向かったのは、昼前。
陸路における中継地点となっている街で昼食を取って、シュヴスに入ったのは夕方、西の空が茜色に染まるころだった。
直轄地統括の中心である城は、シュヴスの中心からやや北寄りの丘陵地帯に立っている。
「今日中は無理っぽいな…」
シュヴスに入ってすぐにある領境の街でとった宿の部屋で、地図を広げながらエリーサは呟く。
地図はシュヴスの物。領内にある街と街道が記されているが、半分以上は森林と丘陵地帯に占められ、地図上は空白になっている。
元より、産業も経済も発達した土地である以上、二ヶ月ほど勉強しただけの素人に何かができるとは、これっぽっちも思っていなかった。
長年にわたる直轄地としての支配によって、統治体制も確立されている。領主として素人が統治するには、やりやすいだろう。だが、今、エリーサにはそれが疑問の種となっている。
「有力な王位継承者として認識させるためでも、おかしいな」
王が目をかけている、と認識させるには最適の土地ではあるが、能力を示させるには、いささか張り合いがない。
治安の悪い荒れた土地を治めさせるのならわかるが、安定の続いている豊かな土地は意図するところに合っていない。
勅命を受けた当初は、あまりのことに動揺して思い至らなかったエリーサは、色々と諦めてから動き始めた時、伯父であるジルハルドに指摘されて理解した。
「何かあるな。これは…」
疑惑がある。でも、確たる証拠がないから動けず、調査しても出てこなかった。
王族の領主任命は、王に直結して情報が渡ることを意味する。
つまり、次期王位への布石とともに膿を出すための餌にされたのだ。
「父上、結構性格悪かったんですね…」
王宮で執務に励んでいるだろう父に対し、苦々しそうに呟いたエリーサは、手早く貴重品をまとめて身につけ、一階に下りるために階段に向かう。
一階が食堂になっている宿屋で、部屋に食事を運んでもらうには別途料金が必要になる。
別にケチるつもりはなかったが、旅もこういう宿屋も初めてのエリーサは、せっかくだから大衆食堂を経験することにした。
本来、王族は単身で馬に乗って旅などしない。必ず護衛がつき、世話のための女官、様々な道具を乗せた馬車が必要になる。そして、下町の大衆宿屋になど泊まらない。その土地の有力者の屋敷に泊まるか、高級宿を借りきるくらいはする。エリーサの行動は、市井に親しむとも言えるが、はっきり言えば、異常だ。
特に、特権意識の強い貴族にとっては、嫌悪の対象になりかねない行動だった。
そんなことに頓着しないエリーサは、カウンターに向かってメニュー表を見ながら眉を寄せる。
どれだけ好奇心旺盛でも、エリーサは十五年を王子、しかも次期国王確定である正嫡子として過ごしてきたのだ。大衆食堂のメニューなど、内容がまったくもってわからない。
食材がメニュー名になっているのは当然わかるが、土地独特の名称がついている物は何が使われているのかもわからない。ひとまず、ずっと悩んでいても怪しまれるだろうから、エリーサはセットメニューの一番上の物を、いまいちわからないながらに注文する。
好き嫌いのない自分を、エリーサは自画自賛した。
「ふざけないでっ!!」
料理が出来上がるまで、宿屋の女将と談笑していたエリーサは、突然響いた声に目を見開く。
女将はため息をつき、他の客は視線を向けながらもかかわる気はないのか動こうとしない。
視線の先にいるのは、エリーサと同年くらいの少女と中年男性。
「何よこれは! 先月の取引額の三倍じゃないっ。どうしていきなりここまで跳ね上がるの?!」
「そんなことを言われてもねぇ…。仕方ないでしょう? 品薄なんですから、原価が上がるのも当然じゃないですか」
怒りをあらわにする少女とニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべる男性。
どう見ても、男性が嫌がらせをしているとしか思えない。
「…あれ、何?」
少女が若すぎるように感じるが、見る限り、内容は商業取引で間違いない。
だが、良い年した大人が子供をいたぶっているとも解釈できる光景に、エリーサは不愉快そうに眉を寄せる。
「…染料の卸業者よ。あの子は養蚕から織物まで一貫して生産している商家の娘。去年、父親が死んで後を継いだんだけどね…」
続きは聞かずともわかり、エリーサはちょっと遠い眼をする。
十代の少女がいきなり商家の主になっても、取引相手は対等に扱ってはくれないだろうことは簡単に想像できた。
現に、少女はかなり悔しそうにしながらも、元々の取引額の二倍の額で商品を購入していた。
(大変だなぁ…)
実際、他人事ではあるが、自分とは違う世界の出来事として認識しているエリーサは、出来上がった料理を受け取って、隅の席に座る。
新しい生活の第一歩で遭遇した、世知辛い世の中の実状にため息をつく。
ひとまず、初めて食べる大衆料理はエリーサの舌に合い、満足した。
※※※
シュヴスで最も大きな街は、政治を司る城のふもとに広がっている。
城と呼ぶには小さく、屋敷というには大きいため、一応は城と呼ばれている。
夜が明けて昼過ぎに入った城下街をめぐり、豊かさを表す街並みと活気に感心しながら、エリーサは城に向かった。
王族の紋章を持っていたため、あっさりと門は開かれたものの、出迎えた代官や女官の顔を見て、少々焦った。
(忠告に従って、ドレスを着るべきだったかなぁ…)
エリーサが今着ているのは、デザインは完全に男ものだ。さすがに、昨日のような麻のシャツとズボンではないが、王族女子としてはあまりにも質素すぎるものだった。怪しまれても致し方ない。
いぶかしげな代官達の表情に苦笑を浮かべる。
「これからお世話になる。何も知らないから、いろいろと面倒をかけると思うが、よろしく」
護衛も一人もなく、単身馬に乗ってやってきた新領主である王女に、誰もが唖然とした。
思い描いていた王女の姿を大きく逸脱していたに違いない。
どう思われていたのか、若干気になったものの、その疑問を押し殺して頭を下げる。同時に、ハッと我に返った代官が慌てて跪いた。
「め、滅相もございません。王女殿下のご就任、心よりお喜び申し上げます」
女官達も慌てて跪く。
代官は六十代の初老の男性。貴族ではなく、たたき上げで直轄地の代官にまで上った能吏だ。
「えっと…顔をあげてほしい。ドナルド=バウズ殿は、私の補佐をしていただけると聞いている。色々と教わらなくてはならないのはこちらだ。上司と部下でなく、対等に接していただけると嬉しい」
無理だろう、とは思いつつも立つように促せば、おずおずと戸惑いながら前から順に立っていく。
代官、ドナルド=バウズはフッと笑みを浮かべ、臣下としての礼をとる。
「御意」
短く、了承を伝える言葉に、ドナルドの背後に控える官吏や女官が同じく臣下の礼をとる。
それに微笑んで、エリーサは頷く。
ドナルドの先導で案内を受け、一通りを頭に叩き込む。
政治区画の奥、領主の居住区画は、かつてはドナルドが使っていたはずだが、今は年頃の少女仕様になっていた。
壁紙から調度品から、品良く抑え気味に整えられているが、最高級品であるとわかる。
(…心づかいは嬉しいけど、いまいち、どうとも思わないんだよな)
少女らしい装いも生活もガルビオン子爵家にいる間しかしていなかったから、かなり戸惑う。
どちらかといえば、エリーサの思考や感覚は少女より少年に近い。
きれいなドレスよりも動きやすい衣服の方がいいし、装飾品にも興味はなく、必要最低限しかもっていない。
だから、細やかで華やかな細工が至る所に施された調度品には気後れし、少女が好む淡い色合いの明るい色調は少々眩しく感じられる。
「あの…殿下?」
部屋を見渡した状態で立ち尽くしているエリーサに、怪訝そうな声がかかる。
振り向けば、年配の女官と二十代の女官が距離を置いて控えていた。
「ん、きれいな部屋だと思って。案内ありがとう、えっと…」
さすがに王族女性の居住区画に、男が安易に踏み入る事は出来ないので、居住区画の案内は女官である彼女達に引き継がれた。
「女官頭をしております、マリファ=ノゥダスと申します」
「殿下付きとなりました、ルリア=セルシオと申します」
「そうか。これからよろしく、マリファ、ルリア」
にっこり笑うと、二人は儀礼的に深く頭を下げて部屋から出て行った。
偽りがばれるのを恐れていた頃の名残で、他人が同じ空間にいるのは居心地悪く感じるエリーサにとって、ひとりになれるこの状況は喜ばしい。だが、さっきからずっと空気が冷やかに感じられて、別の意味で居心地が悪かった。
(ま、言葉通りに歓迎されるとははなから思っていないが、な…)
冷ややかな空気が、自分を疎んじるものであることは十分理解していた。
今までの代官とは比べ物にならない権限と身分を有する新領主。
しかもそれが、王宮ではなく表向きは地方の離宮で暮らしていた、政治も何も知らない王女となれば、不満と不安、不信を抱くのはごく自然なことだ。
だが、あからさまではないにしてもそうとわかるほど明確に、敬遠する空気を出されれば、気分は悪い。
「厄介だな…」
父である国王は、この任命に何かしらの策を用意し、企んでいる。すなわち、何らかの疑惑と不信がシュヴスにはあるのだ。
それらを理解しているだけに、エリーサはかつてない疲労を感じていた。王子だった時代と比べればかなり気楽ではあるが。
これから、呟きの通りに厄介事が目白押しだろうとわかるから、うなだれるしかなかった。
苦難を乗り越えた先には、平穏はない。
試練と腐敗が待っている。
王族である以上、安穏としてはいられないことは承知しているが、一年ぐらいはのんびりぐうたらと過ごしたかった。
年頃の少女として間違った思いを抱きつつ、夕暮れに傾き始めた空をエリーサは窓越しに見つめた…。