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華々の飛躍  作者:
ルックロワーズ王国編
1/61

序章

 ずっと、願っていた。


 自由になりたい、と。


 けれど、知っていた。


 叶うはずがない、と。



※※※



 ルックロワーズ王国王都ロワノスの中央、壮麗にして荘厳な王宮ミーディス。

 開かれた市の喧騒とは別に、王宮でも騒ぎが起こっていた。

 一ヶ月後、国王の生誕祭がおこなわれる。その時、王家の男子は宴に出席する大使や他国の王族に対し、外交の役目を担う。

 しかし…。


「エリノス殿下ッ!」


 女官や下官が走り回って探しているのは、現王妃の一子である、第一王位継承権を有する第五王子エリノス=ラグー=ルノワレスだ。

 次期国王確定の立場ではあるのだが、その評判は国内外問わず決してよくない。というより、はっきり言って悪い。

 今から、せめて恥をかかない程度に教育しなくては、と大臣達が焦っているのだ。


「…うるせぇ…」


 不機嫌そうな呟きとともに草むらから現れたのは、捜索されていたエリノス本人だ。

 艶やかな髪には草や小枝が絡まり、グシャグシャだ。寝ぼけ眼で、傍らに立ちつくす騎士を見上げている。


「何か用?」


 大きな欠伸をしながらの問いかけに、唐突に現れて驚愕していた騎士は、我に返る。


「はい。陛下がお呼びです」


 エリノスは少女のようにすら見える端正な顔を忌々しそうに歪めて、のっそりとした動作で立ち上がる。服から草を適当にたたき落としただけで、そのまま行こうとするのを騎士が慌てて止めた。


「で、殿下ッ…!」


 髪に絡まった草や枝を丁寧に取り除き、櫛など持ち歩いているはずもないので、非礼を承知で手櫛で整える。

 それが終わるのを静かに待ち、気だるそうな感謝の言葉を残して歩いて行く。着崩した服は直さないままかったるそうに歩く。

 王子と呼ぶにはあまりにも威厳のない、だらしない姿に騎士は諦めたような溜息をつく。

 官吏・貴族・国民の全てが一様に思うことはただ一つ。


 次代の御世に、光はない。


 うつけとして国内外に広く認識されているエリノスは、基本的には一日の大半、行方不明だ。王宮内のどこかにいる時もあれば、いつの間に抜け出したのか、夕暮れ時になって堂々と正門を通って戻ってくる時もある。

 王子としては末席に当たるが、王位継承は正嫡が優先されるため、立場が逆転して第一位にある。最も身軽な生まれではあるが、最も責任の重い立場である。

 責務も立場も考慮していないとしか思えない言動に、人々は失望を禁じ得ない。

 十五になり、二ヶ月前に成人の儀を執り行ったばかりだというのに、いまだに自覚しているようには見えなかった。

 王宮内を進む間にも、壁際によって頭を下げた姿勢で微動だにしない女官達は、下げた頭の下で笑っている。それに気づいているのかいないのかは不明だが、だらだらとした足取りで父である国王の執務室へと向かう。


「お呼びと伺い、参りました。父上」


 わずかに間延びした力ない声に、一瞬の間をおいて入室を促す声が響いた。エリノスの姿が室内に消えたと同時、廊下にいた下官や女官は互いの顔を見てくすくすと笑った。

 書類から顔をあげ、何かを言おうとした国王は、開けた口を閉ざして眉をひそめる。

 国内外において、『武王』とうたわれる名君、第二七代国王ロナード=フェル=ルノワレスは、息子とあまり似ていない。かといって、エリノスは母である王妃に似たわけでもない。

 知る者は、絶世の美貌を謳われた今は亡き王太后、ロナードの母に似ているという。


「…また、庭で昼寝でもしていたのか」


 ため息をつきながらの言葉に、エリノスは鬱陶しそうに肩を鳴らす。


「それはともかく、話ってなんです?」


 ぞんざいな物言いと態度に何か言いたげではあるが、話を先に進めることを優先するらしく、結局何も言わない。


「生誕祭の前日、内輪での宴がある事は知っているだろう?」


「知らない奴の方が珍しくないですか?」


 ただ頷けばいいのに、茶化すように言うから、ロナードの眉がぴくりと動く。咳払いを一つして、平静を保とうと心掛ける。


「その時、王太子の発表を行う」


「へぇ…。で、兄上方のどなたです?」


 自分を除外し、挑発するような口ぶりに、いつも冷静なロナードの瞳に怒りが浮かぶ。


「お前は、自分が正嫡で唯一の男子であることを忘れたか。せめて、恥をかかぬように礼節の書を隅から隅まで読みなおしておけ」


 静かな怒りが込められた低い声に、端に下がっていた秘書官がビクッと体を震わせる。『武王』とうたわれる武人であるロナードの怒りに満ちた気配は、武人ではない者にとっては毒である。それほどまでに、深く厳しい怒りがそこに宿っていた。

 しかし、真正面からそれを受けたエリノスは、冷やかな瞳を向けるだけで平然と受け止めていた。


「…己の恥と思うのなら、廃嫡にすればいいでしょう。父上は国王、君主の命令は絶対なのですから。まして、俺は国内外に知れ渡るうつけです。今さら、取り繕ってもむなしいだけですよ」


 淡々と、他人事のように言うエリノスに、ロナードは拳で机をたたきつける。


「お前は、王子として生まれた責務も理解できぬのか……」


 心底の失望と軽蔑を含んだ唸るような声に返ったのは、小馬鹿にしたような笑みだった。相手を嘲るのではなく、自分と自分の境遇を嘲るかのような…。


「生まれたくて、王子に生まれたわけではないのでね…」


 あまりな言葉に、ロナードも秘書官も思わず反論しそうになる。だが、初めてエリノスの瞳に視線を合わせて、言葉を失った。

 何もない、言い表すのなら、ただ一言。


 うつろ。


 それを見て、自身が得た感覚に戸惑い、言うべき言葉は見つからなかった。


「話がそれだけなら、失礼させていただきます」


 何も言えず、華奢な背中をただ見送るしかなかったロナードは、扉が閉まる音を合図に椅子に深く座りなおす。ついで、深いため息が意図せず漏れた。

 息子であるはずのエリノスに、一瞬でも畏怖を感じたことを、ロナードは錯覚と思いたかった。しかし、強張ったまま動けないでいる秘書官を視界に収めれば、それが錯覚ではないと否応なくわかってしまう。

 今までの息子とは違う印象に、ロナードは困惑した。

 一方、エリノス自身は、ドアノブを握ったまま深いため息をつく。しまった、と何か失敗したかのように眉を寄せてうつむく。


「エリノス」


 ドアノブから手を離して自室に向かおうとした時、かけられた控え目な呼びかけに、エリノスはかすかな笑を浮かべる。

 ふんわりとした淡い真珠色のドレスを身にまとい、女官二人を従えて歩いてきたのは、ルックロワーズ王国当代王妃レオノラ=ミーア=ルノワレスだ。

 三十を過ぎても衰えることなく輝かしいまでの美貌を持つ彼女は、一人息子に穏やかな笑みを向ける。


「陛下をあまり怒らせてはいけないわよ? 貴方も、もう王太子となるのだから、自覚を持たなくては…」


 諭すように、優しくかけられた言葉に、浮かんでいた笑みがおもむろに消える。そのことに気付かず、レオノラは優しく微笑んだまま息子の頬に手を添える。


「もう十五ですもの。母がうるさく言わずとも、わかっているわね?貴方はわたくし、王妃から生まれた唯一の男子。責任は重くとも誠意をもって頑張れば、民は必ずこたえてくれます」


 息子の変化に気づかないまま、優しい微笑みが深くなる。慈愛に満ちた、美しい微笑みを、エリノスは遠くを見るように瞳を細めて見つめた。


「…はい、母上」


 ぬくもりのない声で、短い返答。

 そのまま、ふらりと背を向けて去っていこうとする。自室のある方向とは反対であるのに気付き、レオノラは声をかける。


「エリノス? どこに行くの?」


「…伯母上のところです。五日ほどで戻ります」


 それ以上問う暇もなく、エリノスは早足で去って行った。

 小さくなっていく息子の背中を見て、レオノラは頬に手を当ててため息をつく。


「全く、あの子は…」


 小さな呟きは、背後の女官達の苦笑を誘った。

 王国第一位の高貴な女性の呟きは、聞き分けのない子供の教育に苦悩する母親そのものだった。



※※※



 王国南東、ガルビオン子爵領サイハラ。

 海に面した豊かな港町。代々の子爵はおおらかで、領民に親しんできた。それは、当代になっても変わらない。


「あれらがうるさいのなんて、今さらだろうに」


 可笑しそうに笑いながら、指先でつまんだ薔薇にハサミを入れていく。

 凛とした立ち姿の女性は、沈黙に背後を振り返る。

 庭園の中心にそびえる大木の根元、暑さにだれたようにして座り込む姿に振り返る。それを見て、笑顔のままハサミを構える。

 ヒュカッ!


「ヒッ…!」


 顔面すれすれにつきたった鋭いハサミを横目で見て、エリノスは青ざめた頬を引きつらせる。


「人の話は聞け」


 腰に手を当て、不敵に笑いながらエリノスを見下ろす女性は、王子であるということなど頓着せず、自然体のままで接している。

 それが、エリノスにはありがたかった。


「で、どうしたんだ?いつもなら、適当に馬乗り回して終わるだろう?」


 いつもなら、ここまで落ち込んでいないだろう?という、言外の問いかけに、エリノスは視線を地面に向けて表情を隠す。


「別に、落ち込んでませんよ? ただ、暑いから…」


「今年の夏は過ごしやすくてな? 子供達が大はしゃぎだ好天続きで漁の方も調子がいいらしい」


 ふふん、と鼻で笑って言いかけた反論をつぶしながら、言葉を探しているエリノスを見下ろす。

 その瞳には、愛しい者を見つめる優しい光が宿っていた。


「レオノラも、うるさくなったか?」


 数秒の沈黙。

 嘘をつけないと諦めて、エリノスは素直に頷いた。


「あれも、真面目だからなぁ」


「…伯母上は、母上と正反対ですよね? でも、仲が良い。どうしてですか?」


「まぁ。姉妹だから、としか言いようがないな」


 苦笑気味の答えに、キョウダイ、と感情の宿らない声が小さくつぶやく。

 作業用の木綿のワンピースのすそを持ち上げ、エリノスの前に膝をついてうつむく顔を覗き込む。


「疲れたな…」


 ゆっくりと、細い手指でエリノスの頭をなでる女性は、ガルビオン子爵夫人ルクエラ=シーア=ガルビオン。現王妃、エリノスの母であるレオノラの実姉である。

 王家とも血縁関係にある名門貴族リドワース侯爵家の長女として生まれ、王家に嫁ぐと暗黙の了解で思われていた。しかし、彼女は十五の時、成人の祝宴で出会った当時のガルビオン子爵家嫡男の下に、駆け落ち同然に嫁いだ。このことによって、次女であるレオノラが王妃として王家に嫁ぐことになったのだ。

 しかし、ルクエラとレオノラは十三歳の年の差があり、レオノラが王妃となった時、すでにロナードには三人の王子がいた。

 十五の成人後、すぐに嫁いだものの、ルクエラと同い年であるロナードは二八。エリノスが生まれるのに、それから五年の歳月がかかっている。それは、ロナードには当時最愛の妾妃しょうひがいたためであり、レオノラが嫁いだ年に、その妾妃とのあいだに四人目の王子が生まれたからだ。二年後に妾妃が病死した後から、レオノラへの寵愛が深まり、ようやく正嫡の王子、エリノスが生まれた。

 けれど、平穏が訪れることはなかった。


「馬鹿な妹と馬鹿な両親で、ごめんな…。エリーサ(・・・・)


 呼びかけに、答えはない。ただ、無言で立ち上がる。

 一瞬遅れて、ルクエラも立ち上がり、数歩歩いて立ち止まった細い背中を見つめる。


「…着替えてきます」


 ゆっくりと歩きながら、上着を脱いで肩にかける。

 わずかに前に傾いで丸くなった背中を、切なそうに見送る。その背中が庭園から消えるのと入れ替わりに、エリノスと同年代と思われる少女が現れる。

 その容貌は、ルクエラによく似ていた。


「お母様…」


「シルヴィア、帰ってきていたのか」


 山吹色のドレスに身を包み、ルクエラに一礼するシルヴィアは、何か言いたげに口ごもる。それに苦笑をこぼして、空を見上げる。


「笑っていろ、シルヴィア。あの子が、エリーサが、ここでだけは自分でいられるように」


 ゆっくりと、傍らに視線を移す。

 悲しそうな、辛そうな、そして、悔しそうな表情の末娘を、愛しそうに見つめる。


「あの子がここに来るのは、偽りに疲れたから。そして、癒されたら帰っていく。安らぎのない、偽りの世界に…。ならば、せめて、ここでは笑っていられるようにしてあげよう?」


 優しく細められる瞳と温かい笑みに、シルヴィアは泣きそうになりながら頷いた。

 夏の日差しは暑い。青々とした緑が目に優しく、鮮やかな大輪の花が咲き誇る。一時の休息と癒しを与えてくれる、心(なご)む風景だ。

 だが、それに癒されるほど、エリノスの闇は浅くない。

 ルクエラ達が庭園から直接外に出れば、馬に乗った青年が駆けてくる。


「母上、シルヴィア。エリーサが来ていると聞きました。久方ぶりに遠乗りでもと思うのですが…」


 快活そうな青年が、馬から降りないまま母と妹に声をかける。


「エリーサがいいというのなら、私は構わないよ」


 苦笑気味に馬上の息子を見上げ、わずかに眉を寄せる。

 青年の左手には、真新しい包帯が巻かれていた。視線に気づいた青年は、しまった、と言いたげに苦笑を浮かべる。

 シルヴィアもその包帯を見て、眉間にしわを刻む。


「オルディスお兄様。またお怪我を…」


 咎めるように言われて、オルディスはきまり悪そうに笑う。


「今朝、手負いの狼が動けずにいたんだ。助けようとしたら噛まれてしまった。さほど酷くないから、気にしないでくれ」


 からりと笑うオルディスにルクエラはため息をついて、ふいに屋敷の入り口を振り返る。

 軽やかな足取りで駆けてくるのは、つむじで結った髪を揺らすエリノスだ。

 身にまとう乗馬服が、体の線を明確にする。細く薄い肩から華奢な腕、くびれた腰とすらりとした長い脚のシルエットは、少年のものではない。胸元には、わずかな膨らみすら見てとれる。


「エリーサ、久しぶりだな。遠乗りに行こうと思っているが、どうする?」


 オルディスの言葉に、にっこりと笑って小さく腕を広げる。


「この格好、見ればわかるでしょ? オルディス従兄上(あにうえ)


 すでに予測していたのか、苦笑気味の従僕が立派な栗毛の馬を引いてくる。

 手早くまたがったエリノスは、馬上から伯母と従姉に微笑みかける。


「行ってきます。伯母上、シルヴィア従姉上(あねうえ)


 来た時とは打って変わって、晴れやかな表情で駆けていく姿を見送って、ルクエラとシルヴィアは笑みを交わす。


「さぁ、二人が帰ってくるまでに、ケーキでも焼いておこうか。手伝って、シルヴィア」


「はい、お母様」


 親子の姿が、屋敷の中へと消えていく。娘と並んで歩きながら、ルクエラは思い出す。

 懐かしくも悔やんでならない、自分の無力さを思い知った十五年前のことを…。



※※※



 十五年前の春、ルクエラにとっては最初の甥が誕生した。

 当時、侯爵家を継いだ四歳年下の弟には娘しかいなかったのだ。それ以上の理由はあるが、男子誕生の報を聞いて喜んだ。

 親の反対を振り切って結婚したルクエラは、祝いの文と品だけを王妃となった妹が出産のために帰っている実家へと送った。ほぼ絶縁された状況では、祝い事といえども簡単に顔を出すことはできなかったからだ。

 だが、祝いの品を届けに行った使いの者は困惑顔で帰ってきて、ルクエラに一つの書状を差し出した。

 実家のリドワース侯爵家の家紋が押された封書を開き、目を見はった。

 書かれていたのは一文。焦ったような殴り書きだった。


 相談したいことがある


 勝手に結婚したルクエラにいまだ怒りを抑えられない両親から、ありえない文書だった。

 両親の性格は、プライドが高く貴族然としたものである。高位の貴族にはありがちだが、それが気に食わないルクエラとは衝突が絶えず、親子仲は非常に険悪だった事実も、文書の不気味さを際立たせていた。姉弟仲は別に悪くはなかったが…。

 不気味ではあったが、時期から見ても妹であるレオノラのことだと理解できた。だから、訝しく思いながらも、急いで支度を整えてできる限り最速で侯爵家へと向かった。

 突然の来訪に慌てることなく、使用人たちはルクエラを案内した。

 王妃を迎えるために改築された真新しいむねへと足を踏み入れて、眉をひそめる。

 空気が重い。

 真新しい建物の中は、陰鬱とした空気に満たされている。

 案内され、入った部屋は寝室。

 広いベッドの上には、王妃となり母となった妹がいて、その傍には王子の祖父母となったばかりの両親。

 生まれて数日の嬰児(みどりご)は、年若い母親の腕に抱かれて、健やかな寝息を立てている。

 空気にのまれて何も言えないでいたルクエラは、蒼白な顔色で震えながら何かをしきりに呟いている妹に歩み寄る。


「…レオノラ? どうした? 何か、あったのか?」


 何か、先天的疾患でもあったのだろう。四肢欠損でもしていたのか。

 悪い予想ばかりを思い浮かべながら、問いかける。それに答えることなく、レオノラはただ不可解な呟きをこぼし続ける。

 返らない答えにいらだって、両親の方を向く。

 肩を震わせながら、重々しく落とされた両親の呟きに、ルクエラの思考は停止した。

 それは、ありえてはならないこと。


 生まれた子供は、女児。


 正嫡男子の誕生を、国内中に知らされたのは出産直後のことだ。もちろん、王都にいるロナードには一番に知らされた。

 この国では、王位を継承できるのは正嫡の子、王妃の産んだ第一子であると定められている。それは、男でも女でも関係ない。男子がいる場合はそちらを優先させるが、女子しかいない場合、女王の即位もあり得る。男子であることは望ましい。だが、女子ではいけないことはない。

 なのに、レオノラは生まれた子供を男子だと報告した。おそらくは、妾妃達の産んだ四人の王子達の存在が重圧となったのだろう。

 どうあっても、後継ぎは男、という考えは抜けない。そして、してはいけないことをしてしまった。

 たとえ、夫であろうとも国王を欺けば極刑は免れない。侯爵といえども、厳罰は必至だろう。

 ルクエラ達、子爵家も侯爵家の係累として処罰を受けるだろう。そこまで瞬時に考えを巡らせて、ルクエラも蒼白になった。


「ち、父上、母上、どうして…」


 どうして、そんな馬鹿なことを、と言外に問う娘に、先代侯爵夫妻は視線をそらして沈黙した。


「レオノラッ…!」


 答えない両親にじれて妹の方を向けば、レオノラは一度大きく震える。

 気まずい沈黙の中、これからの恐怖と混乱に、ルクエラは自分の中で何かが切れるのを自覚した。


「いい加減にしろ! 黙っていたらわからないだろうがっ! 言ってしまったものは仕方ないんだから、腹をくくれっ!!」


 室内に反響した一喝に、両親は我に返ったように顔をあげた。だが、レオノラはこの世の終わりのような表情になり、フッと意識を手放して倒れた。

 それに慌てふためく両親と違い、ルクエラは妙に冷静な頭で見つめているだけだった。

 力の抜けた腕から落ちそうになった嬰児を、ルクエラが優しく受け止める。


「父上、母上。詳しい話を聞かせていただきたい」


 腕の中の小さな命は、幸福そうにすやすやと眠っている。

 瞳を細めて、ルクエラはやわらかなその頬をなでた。


(辛いのは、お前じゃないんだよっ。愚妹がっ…)


 今、辛いのはレオノラかもしれないが、これからの一生を苦しみぬくのは子供の方だ。それを思えば、ルクエラに妹への情がわくはずもない。

 別室に移動して、ベビーベッドに嬰児を寝かせ、ルクエラは眼前の両親をにらみつける。


「ご説明、願いましょう」


 聞く者を威圧する低い声は、夫妻をただ縮こまらせる。しかし、先代侯爵リゲルドは、父親としての威厳を示そうとするかのように、胸を張る。


「お前は、自分の責任を放棄して家を出た人間だ。何を偉そうに…」


「なら、知らせなければいいだろう。ほぼ絶縁状態の私に知らせたのは、それほど困っていたってことだろう。馬鹿な事を言うな」


 父親相手であっても容赦なく、一刀両断する。すると、リゲルドは言葉に詰まって肩を落とした。

 娘の威圧に負けて、リゲルドはぽつぽつと語りだす。



 十八年前、ルクエラが子爵家嫡子に嫁ぎ、即位前だったロナードの正妃をどうするか騒ぎになった。それを、渦中にいたルクエラはよく知っている。

 ほかの公侯爵家には、ロナードと年齢の合う娘がいなかったり、息子しかいなかったり、妾腹であったりしたため、正妃候補はルクエラしかいない状況だったのだ。だが、侯爵家には当時二歳だった幼い末娘、レオノラがいた。年齢差などで色々と物議をかもしたものの、十五になると同時に婚礼を行うことで決着したのだ。レオノラを拒めば、伯爵家から王妃を選ばなくてはならなかったからだ。

 従来、王妃は公侯爵家、傍流王族である大公家から選ぶことが慣習となっていた。そのため、伯爵家出身の王妃は前例がなく、王家の血縁である伯爵家は数少ない上に年頃の娘がいなかったこともあり、血筋の上で他国から軽んじられるのではとの懸念が浮上していた。

 わずかに二歳のレオノラの存在は、両親にとっては苦肉の策で、国にとっては致し方ない妥協だった。



 根本の昔話から始まった父親にかなりいらだちながらも、素直にうなずいて聞いておく。その根本を作り出したのは自分だという、責任感と罪悪感もあった。

 ルクエラは無言で先を促す。



 王妃に立后して七ヶ月、ロナードに第四王子ファルドスが誕生した。それから一年が過ぎても、レオノラに懐妊の兆しはなかった。その上、女官や侍従達が噂し始めたのだ。

 王と王妃の仲は冷え切っている、と。

 結婚して二年足らず、レオノラはまだ十七。そんな噂を口にするのは早計というものだった。誰が言い出したかもわからない噂は当人達の耳に入るようになり、ロナードが苛立ちを露わにしたことですぐに消えた。しかし、レオノラの心には大きな傷になって残った。

 ロナードが寵愛していた妾妃が亡くなり、レオノラへの寵愛が深まり始め、懐妊が知らされた。それが、去年の秋の中頃だった。

 王妃の懐妊に王宮は喜びに満ち、国内の貴族のみならず、親交のある国々から祝いの品と言葉が届いた。その中で、必ず言われた。


 お世継ぎのご懐妊、心よりお喜び申し上げます。


 正嫡の王族しか王位継承の叶わないこの国では、ごく当たり前の祝辞だった。しかし、妾妃達が皆王子を生み、王妃であるレオノラの子が王子ではなかった時、やかましい貴族の夫人達が何を言うかわからなかった。

 ただでさえ、幼いと言える年齢で王妃という女性としての国内第一位の地位にある事でもさんざん陰口をたたかれてきた。

 実家が侯爵家であり、曲がりなりにも王妃であるが故に面と向かって言う者はいなかった。しかし、悪意の言葉は善意の言葉よりも容易に耳に入るものだ。

 物心ついた時から王妃になるための教育を受けてきたレオノラは、姉であるルクエラほどに心が強くなかった。

 女児でもいいとは言っても、やはり望まれるのは男児の誕生。女王よりも王の方が、頼りになると考える者が多いのは事実だった。さらに、妾妃が全員男児を生んでいるから、誰もが無意識の内に、レオノラの子もきっと男児だと生まれる前から断定していた。

 妊娠五ヶ月になった頃、心労でレオノラは倒れた。危うく流産しかかり、ロナードは実家での療養を命じた。的確なその判断により、レオノラの体調は回復し、今月、産み月を迎えて元気な子を出産した。その報に、国内は喜びに満ちた。男児誕生との報告がさらなる拍車をかけた。

 その様子を見れば、王子誕生を誰もが望んでいたのは明白だった。だからこそ、レオノラは嘘をついてしまった。王妃という責任ある立場にあるからこそ、失望されたくはなかった。ロナードに、国民に、王の外祖父となることを望んでいた両親に。

 恐怖が、してはならないことをしてしまった。

 子供が女児だと知るや否や、レオノラは半分狂ったように泣き叫んで両親にすがりついた。


 男児と報告してくれ、と。


 王を欺くことはできない、女児でも王位につける、誕生を喜んでくれる、と両親は説得した。しかし、狂ったように泣き叫びながら懇願を繰り返す娘に、両親は折れた。老いてから授かった末娘を溺愛していた夫妻は、犯してはならない罪を犯してしまったのだ。



 全てを聞き終えて、ルクエラは激しく痛む頭を抱えた。

 華やかな王宮の陰にあるのは、毒ばかりだということはルクエラも知っている。だからこそ、妹の苦悩は致し方ないと思える。だが、仕方ない、で片づけられる度合いをすでに超えている。

 おもむろに、ルクエラは立ち上がり、嬰児を抱えて部屋を出て行こうとする。


「ま、待てっ! どこへ行くつもりだ!」


 慌てたリゲルドは娘の前に立ちはだかる。ルクエラは父親を睥睨した。


「王宮に。この子を連れて、報告が誤報だったと伝える。報告したのはまだ三日前だろう。なら、手違いがあったとまだ言い訳できる今のうちに何とかしなくては、家名断絶もあり得る」


 それは、決して脅しではなかった。反論できずに視線をさまよわせる父親をにらむルクエラの背に、か細い声がかかった。

 振り向けば、今にも泣きそうな顔の母親がいた。先代侯爵夫人、リゲルドの妻であり、ルクエラたちの母親、ルミナは震える声で言葉を紡いだ。


「…知らせたら、王宮に戻ったレオノラはどうなります? これ以上の心労が続けば、あの子は本当に死んでしまうかも…」


 一瞬、ルクエラは母親が何を言っているのか理解できなかった。

 母親の言葉を理解した瞬間、ルクエラは怒りを抱いた。それは瞬間的に増大し、一拍後、爆発した。


「馬鹿かっ!!」


 再びの鋭い一喝に、両親は震えて首をすくませる。

 自分の前後を挟む両親に視線を巡らせて、ルクエラは落ち着くために深呼吸を繰り返した。


「…母上、よく考えていただきたい。この子はレオノラの一子。将来確実に王位に就く子です。そんな立場で、いつまでも隠し通せると思われるのですか? そんなことは不可能です。婚姻でもすれば、さらに事態は取り返しがつかないことになります。子は生まれず、国民の不安と不信を招き、いずれは偽りがばれる。そうなった時、私たちもこの子も終わりです。末路は、よくて処刑でしょう」


 死んで地獄に落ちるか、生きながらに地獄の道を歩むか。

 どちらの方がましか、と問いかける娘に、両親はただうなだれる。

 娘可愛さに、貴族としての忠節や誇りを、王妃となった者の重責を、何もできない嬰児の将来を、全く考えずに間違った行いをした。それを理解して、二人は放心した。

 ルクエラは、そんな二人を放置して、王宮に向かうために部屋を出る。通りがかった従僕に、馬と嬰児のための荷物を用意させるように言いつける。頷いて去っていく従僕と入れ替わりに、ルクエラ達姉弟の乳母であった初老の女性が青ざめながら駆けて来た。

 ドレスのすそを持ち上げての疾走に、ルクエラは目を丸くする。

 記憶にあるのは、おっとりと微笑み、穏やかに話す乳母の姿だ。今の姿とは、一致しなかった。

 乳母はルクエラを見つけると、ほつれた髪を整えることもせず、荒い息の中で懸命に何かを伝えようとした。


「落ち着け、リディー。何があったんだ?」


 ルクエラのことさらゆっくりとした問いかけに、ひとまず息を整えた乳母は、部屋から顔を出したリゲルド達に、大きく胸を上下させて勢い込んで告げた。


「お、王宮より、早馬の使者が、参られました」


 言いながら、震える両手で捧げ持つように王家の門で封がされた書状を差し出した。

 何か、と思いながら書状を受け取ったリゲルドは、開けようとした手を乳母の言葉で止めることになる。


「御子のお名前を、お決めになられた、と…」


 固まった両親とは別に、ルクエラは全身の力が抜けたようにへたり込んだ。

 男児としての名を与えられる。

 名付けが終われば、どうしようもない。名前は国内外に知らされる。こちらに向かうと同時に各国へも早馬が出ているだろう。もはや、取り返しがつかない。

 我に返ったリゲルドが明けた書状には、いくつかの文章とともに、嬰児の名前が書かれていた。

 法的手続きも済み、すでに新たな王子の名が系譜に書き足されていることだろう。

 今さら、どんな言い訳も通用しない。


 この翌日、第一位王位継承者として第五王子エリノス=ラグー=ルノワレスの名が、国内外に知らされた。



※※※



 あの日、夕方に目覚めたレオノラは自分の罪も何もかもを忘れていた。

 生まれたのは男子であり、自分は責務果たしたのだと、今でも信じている。

 罪を忘れた母親の下、子供は母親の分まで罪を背負って生きなくてはならなかった。

 ただ一人の母親だから、嫌う事が出来ずに守ろうとする姿は、何とも健気だ。その為に、自分の名誉すら汚すことを厭いとわないほどに…。

 だが、母親はそれを知らず、我が子に立派な王になれと繰り返す。罪を忘れ、一人で逃げたその姿は、何も知らない者には美しく映り、知っている者には醜く歪んで映る。

 全てを知り、エリノスを少女として扱うルクエラの家族は、秀麗な王妃を疎ましく思うことしかできなかった。


 女としての名を与えられることのないエリノスに、エリーサという名を与えたのはルクエラだった。その名を呼び、エリーサでいられるように気をまわしたのは、子爵家全てだった。わずかばかりの真実しか、与えてあげられないことを、ルクエラ達は悔いていた。それでも、時折見ることのできる笑みに、そのつど安堵していた。自分たちの存在が、安らぎになっていると信じられた。


「…ディノリスお兄様も、やはり、厭われたのでしょうか」


 過去に思いをはせていたルクエラの耳に、末娘の声が入ってくる。

 ケーキに飾るフルーツを切りながら、シルヴィアがこぼした長男の名に苦笑を浮かべる。

 脳裏に浮かぶのは、次期子爵として領内のあちこちを回っている長男の穏やかな面差し。


「そうだろうな。でなければ、師団長に昇格しようか、という時に突然辞めないだろう」


 若干呆れたような声に、シルヴィアは微笑む。

 シルヴィアとは十三も年の離れたディノリスは、元々は近衛騎士として近衛軍に属していた。十三で叙勲されて騎士となってから七年、十年前まで騎士として活躍し、異例の速さで師団長まで昇りつめようとしていた。しかし、エリノスのことでわだかまっていた叔母への不信が、ついに我慢の限界に達して、職を辞して故郷に帰って来た。

 わずか二十、これから第一線で働こうというような年で……。

 本来ならば、親は嘆くだろう。だが、ルクエラ達は仕方ないと納得してやりたいようにやらせている。それに、近衛騎士をしていただけあって剣の腕は確かで、エリノスや末弟であるオルディスに剣を教えていた。かつては、王宮に請われて他の王子たちの指南も務めていたほどだ。

 本人は嫌がっていたが。


「あら、良い匂い」


 親子の空間に、軽やかな声が割り込んだ。


「お姉様」


 嬉しそうに声を弾ませるシルヴィアの隣に立ち、手元を覗き込む。


「母様とシルヴィアのお菓子はおいしいから、楽しみだわ」


 ふふ、と淑やかに笑う娘に、ルクエラは苦笑する。


「ミルファナ。何かあったのか? 来るとは聞いていなかったが…」


「まぁ、母様。娘が実家に顔を出すのに、理由が必要ですか?」


 さも心外だと言わんばかりのいいように、ルクエラは呆れたように溜息をこぼし、シルヴィアは楽しそうに笑う。


「ご安心を。ちゃんと理由はございます」


「何だ?」


「エリーサが来ているのでしょう? 久しぶりですから会いたいと思いまして」


 言いながら、居間の方をうかがったり窓の向こうを見たりする様子に、だろうな、と納得の頷きをしてから窓の外を指す。


「エリーサなら、オルディスと遠乗りだ。少しすれば戻るだろう」


 返答に、ミルファナは拗ねたように頬を膨らませる。

 ルクエラの長女、ミルファナは三歳の息子を持つ母親とは思えないほど若々しく少女のようである。童顔と子供っぽいしぐさが原因だろう。


「来た時は、必ずオルディスと遠乗りね。つまらないわ」


 実の弟に嫉妬する様は、可愛くてしかたない子供が自分より夫を選んだ時に似ている。それを思い出して、母と妹は小さく噴出した。


「少しは、気が晴れるといいがな。ここにいられるのは三日だけだ」


「いつもは一週間はいるのに…」


「式典が近いからな。少しでも見栄えがするようにしたいんだろう」


 うつけだと信じているからな、と続く母の言葉に、ミルファナは怒りを隠そうともせず眉をひそめる。


「…何も知らないくせにっ」


 歯ぎしりさえ聞こえそうな低い声に、ルクエラ達は無言で肯定を示す。

 王宮では、学問をさぼり、武術もせず、寝ているか遊んでいるか、姿を消すかしているエリノスを、誰もがうつけと信じて疑わない。

 実際、王宮ではまじめな態度を取らないように心掛けているだけだ。ここに来た時には、至極真面目に勉学や武術に励んでいる。一日に一度、遠乗りに出かけるのはちょうどいい息抜き程度のものだ。

 かつては国試で第一位及第して司法官を務めたルクエラの夫、ジルハルド=ベーナ=ガルビオン子爵の下、帝王学と司法、財政を学び、それらに遺憾なく才能を発揮している。武術はディノリスの指導によって将軍クラスの実力を持っている。実戦ではどれほど役立つのか分からないが、試合の上では、勝てる者はほとんどいないだろう。

 武術に関しては、『武王』とうたわれるロナードの血か。

 どれほど名君と名高いロナードでも、有能で知られる高官たちでも、エリノスの本質を見破れずにいる。真実を知る子爵家の者達からすれば、エリノスを見下す者達は醜く愚かしい存在としか思えない。


「ところで、ミルファナ。シルフィス達はどうした?」


 憤然としている娘が落ち着いたのを見計らって、声をかける。


「家にいます。宴の時、立太子の宣言がなされるのでしょう?いつも以上に思い悩んでいるのでは、と思いまして…。大人数で来ることは控えました」


 シオンはエリーサに会いたがっていたのですが、と苦笑する表情は母のものだ。


「そうか…」


 いつも離れた所から周囲を見て、妙に外れた場所にいることを好む娘の気遣いに、柔らかな微笑みをこぼす。

 空気が和らぎ、ミルファナもケーキ作りに参加する。冷ましたスポンジを上下二枚に切り分けて、クリームを塗る。

 穏やかな陽気の中、母と娘達は軽やかな笑い声を響かせながら、穏やかな時間を過ごしていた。



※※※



 港町を見下ろせる丘の上、馬から降りたエリノスは深呼吸をする。

 樹に手綱を結んでいたオルディスは、力の抜けた小さな背中を見て、安堵の息をつく。

 肩に力の入ったまま、表情だけは朗らかに表れたエリノスを見て、オルディスは危ないと直感した。このままでは、心が砕けてしまう、と思った。

 だが、馬を走らせている間に自然と力が抜けたのか、どこまでも自然体のままで潮の香りを含む風を浴びている。


「久しぶりだろう、潮風を浴びるのは。最後に来たのは、三ヶ月くらい前か?」


「三ヶ月と十日です」


 細かい日数を覚えているのは、それほどここに来ることを焦がれていたからだろう。


「…今回は、何を言われた?」


 傷を抉ることはしたくないが、いつもより短い日数しかいられない従妹は、闇を抱えたまま息苦しい生活を送ることになる。それを知っているから、オルディスはあえて問いかけた。

 重荷を吐き出すことで、少しでもその心を軽くしてやりたかった。


「何も…。いつもと変わりはありません。ただ、母上も事あるごとに言ってくるようになって、父上は嫌々ながらも王太子にするらしく…」


 まだ続きそうだった言葉を、エリノスは慌てて口を閉ざすことで断ち切った。しかし、オルディスは隣りに腰をおろしながら、前を見据えて先を促す。


「言え。ここでしか言えないんだから、全部言ってしまえ。平気だ。聞いたことはすべて忘れてやる。馬たちしか聞いていないと思え。…ためこむのは、体に悪いぞ」


 気のない風を装い、先を促す従兄に内心で感謝して、エリノスは深く息を吸って前を見たまま口を開く。


「…諦めているのなら、全てを捨ててくれた方が楽なのに、と思う。嫌なら、しなければいいのに、と思う。今まで、馬鹿でい続けたのは、王太子になりたくなかったからなのに、て思って…。誰も望んでなんかいないのに、嫌々なのに、慣習だから、てだけで頑固に通そうとしているのが滑稽に見えて、馬鹿みたいだな、と思った。でも、疲れたんだ。どうしたらいいのか分からない。王の命令は絶対で、父上が決めたのなら、王太子になるしかなくて、それは絶対嫌で、とても辛くて悲しくて、助けてほしい、て思って…」


 とりとめのない、ただの単語を羅列したような拙い言葉に、返る言葉は一つもない。宣言通り、オルディスは聞いていないふりを続けている。

 それは、確実のエリノスの心を翳かげらせていた闇を引き出し、重くのしかかったものを取り去った。

 震え始めた言葉にも視線を向けず、オルディスは無言で続きを待つ。

 ただ街並みを眺めているだけの様子のまま、それでも聞いているとエリノスは知っていた。


「…助けて、と思った相手は、母上で…。でも、母上はすべてを忘れていて。ただ立派になれ、を繰り返すばかりで。どうしていいのか分からなくなって、少しだけでも、楽になりたくて、ここに来たんだ」


 息苦しさから抜け出して、せめて、楽に呼吸をしたくて、衝動的にここに来ていた。

 唐突に表れたエリノスを、最初は驚きつつも子爵家の面々は喜んで迎えてくれた。それで、ようやく息ができた気がしたのだ。


「…全部、話してしまいたい。全部、おろしてしまいたい。全部、無くなってしまえばいい」


 母のことを思うのと同時に、心中に根ざしているのは母を疎む思い。

 全てを押し付けて、全てから逃げた弱すぎた母への、怒りが少なからず確かに存在している。だが、母を想う心がそれを押し隠している。

 心地良い沈黙と緩やかに吹きぬける潮風に瞳を閉ざして、全身から力を抜くように大きく息を吐き出した。瞬間、苦笑がこぼれる。

 吐露した感情とその醜さに、エリノスはただ呆れた。自らの感情の不安定さと愚かさを声に出し、再確認して嫌気がさしたように、苦笑が自嘲の笑みに変わる。


「…そろそろ帰るか。母上達がケーキでも焼いて待ってるだろうしな」


 エリノスの独白には触れず、本当に聞こえていなかったかのように自然な動作で立ち上がる従兄に、心から感謝した。

 手綱を樹から外し、愛馬の首を優しくなでながら、オルディスの背中が言葉を発した。


「思い通りにすればいいさ。お前の人生、お前の好きにしていいんだよ。だってさ、何もできない、生まれたばかりの時に狂わされたんだぞ? なら、好きにしたって、誰も文句は言えないさ」


「従兄上…」


 背中を押すのでも、留めるのでもなく、ただ優しく響く声に、エリノスは呆然とした。


「ん?どうした?」


 無意識に出た呟きに振り返ったオルディスは、先の言葉を知らない風に笑う。

 聞かない、忘れると言った言葉を忠実に守りながら、それでも優しい言葉をかけてくれる従兄に、笑みを浮かべて首を振る。


「いいえ、帰りましょう。伯母上達が、待っていらっしゃいます」


 泣きそうな、それでいて、嬉しそうな笑みを浮かべるエリノスに、満足そうにうなずく。

 馬を駆り、丘を駆け抜ける。

 風を切り、駆け抜けた先に、安らげる『家』があった。



※※※



 一時の休息に癒されて、王宮に戻ってきたのは昼を過ぎた頃。

 自分の宮に入れば、人の気配はない。

 十歳の時までは、秘密を共有して共に過ごしてきた乳母親子が仕えていた。だが、心優しい彼女達を巻き込みたくはなくて、適当な理由をつけて故郷へと帰らせていた。

 この宮で仕事をするのは、通いの女官が三人だけ。

 王位継承者の宮としてはあり得ないが、大きな秘密を抱えるエリノスにとって、多くの人をそばに置くのは自殺行為に等しい。

 朝の仕事を終えて、いそいそと出かけてでもいるのだろう。それぐらい不真面目で、自分に無関心であることは望ましいので、特に咎めようとは思わない。

 いつも通りに、昼寝しようと庭に出れば、修練着に身を包み摸擬剣をもった青年と、視線がかちあった。


「お久しぶりです。ルービンス異母兄上(あにうえ)


 無感情な瞳に見つめられ、わけもなく動揺してしまうが、それを表に出さないようにへらりと笑う。

 滅多に話すことのない異母兄(あに)だが、エリノスは丁寧に挨拶をする。

 武人、と表現するのが相応しいがっしりとした長身のルービンスは、異母弟をただ見つめる。

 第三王子ルービンス=レガー=ルノワレスは、エリノスにとって、例外的に苦手意識を持たずに接することのできる異母兄だった。


「…ガルビオン子爵夫人は、どうだった」


 まるで、呟きのような低い声での問いに、エリノスは数度瞬きを繰り返して言葉を選ぶ。


「え…っと。とても元気でしたよ。ここ数年は風邪すら引いたことがない、と胸を張っていました。あの…」


 王妃の姉といえど、直接的な血縁ではないルクエラのことを気にかけた発言をする異母兄をいぶかしむ。


「急に出かけて行っただろう。何かあったのではないかと考えるのが普通だ。たとえ、自分の存在を疎んじているだろう王妃の姉であろうとも」


 嫌味ではなく、事実を読み上げているだけのような口調に、ポカンとして異母兄を見つめる。

 七歳上のこの異母兄とエリノスは、あまり親しくない。だが、王子達の中で唯一、ディノリスが剣を教えることを楽しみにしていたのが、ルービンスだ。

 苦手意識を持たない理由は、そこにあるかもしれない。

 寡黙な性質なのか、言うべきことは言ったと言わんばかりに沈黙している異母兄に、エリノスは思わず噴き出した。それに、不愉快そうに眉間にしわを刻む。

 だが、エリノスはその表情が不愉快を表しているとは思わなかった。おそらくは、いぶかんしでいるのだ。


「すみません。きっと、それを聞いたら伯母上は喜ぶでしょうね」


 宴の前日には、出席するために一家で王宮に来るはずだ。その時、ルービンスが心配していたと伝えてみようと決める。

 喜ぶ、という表現を疑問に思いつつも、ルービンスは何も言わない。ただ、視線はエリノスの足元から頭の先までを一巡する。


「お前は、鍛錬をしないのか」


 疑問とも言えないほど希薄な感情は、声を単調にしているため、ある者は恐れを抱き、ある者は機嫌を損ねたと思って退散していく。それを知っているから、不器用で損な人だな、と思いながら、いつもの笑みを浮かべる。


「鍛錬、ですか?武術は苦手なんですよ。馬に乗るのは好きなんですけど…」


「いつも、よくぞ父上が気付かないものだと感心している」


 相手の言葉を無視したような言葉が返ってきて、思わずエリノスは息をのんで押し黙った。

 沈黙してしまった異母弟を鋭く見つめるその視線が、エリノスのほっそりとした手を一瞥する。


「剣を学ぶ者には、同じ者が分かる。どれだけの鍛錬を積んできたのかも。父上が気付かないのは、おそらく先入観ゆえだろう。それさえなければ、オレが気付いたことに父上が気付かないはずがない」


 珍しいことに、過去の会話で短文のような言葉しか発したことのないルービンスにしては、かなりの長広舌だ。言われたこともだが、その長さにもびっくりして、エリノスは口を開けたまま呆けてしまった。

 数秒後、我に返ったエリノスは、頭を振って冷静さを取り出す。


「伯母上のところで、学んでいるんですよ。王宮剣術と違って、自由にできるので、好きなんです」


 先の言葉とは若干矛盾するが、嘘ではなく真実なので問題はない。理由は違い、護身術としての意味合いとばれてしまった時の生きていく技術である。


「ディノリス殿か…」


「はい」


 へらへらとした笑みのまま、楽しそうに語るエリノスに、ルービンスは瞳を細める。

 静かな瞳からは何を思っているのかは分からなかった。しかし、正嫡として生まれたエリノスを嫌っているのではないということは理解できた。


「悩みを抱えながら笑い、実力も出せずにうつけのふりをする…。見ていて痛々しい」


 なんでもないことのようにこぼされた呟きに、エリノスの笑みが凍りついた。それに頓着せず、ルービンスは自分の目的地へと足を動かし始める。

 数歩をルービンスが歩いたところで、エリノスは慌ててその広い背中に声をかけた。

 歩みを止めて、ルービンスが振り返る。


「何で、どうして…ッ?!」


 明確な言葉にはならなかった。だが、ルービンスにそれはしっかりと通じていた。


「…うつけのふりはどうした。それでは、本来のお前(・・・・・)のようだ」


 心臓が凍りついたような錯覚を起こした。

 両親ですら分からなかったのに、ルービンスは看破した。それに気づいて、エリノスはどうしたらいいのか分からずただ立ち尽くす。


「いや、違うな。本来のお前の半分、だな。安心しろ。気づいているのはオレだけだろうからな」


 世界が、黒く塗りつぶされたように感じた。

 うまく息ができず、喘ぐような呼吸を繰り返しながら、エリノスはルービンスを見つめる。

 それほど接点のない、どちらかといえば接触を意図的に避けている様子もあった。なのに、他の異母兄も両親も通いの女官達でさえ気づいていない、明かしてはならない秘密を知っている。

 絶望の淵に立たされた下のように真っ青な顔で、何かを考え込んでいるエリノスに、ルービンスは珍しく表情を動かした。誰の目にもわかるほど、明確に苦笑を刻んだ。


「兄弟中で、誰よりも強いのはお前だからな。そして、お前だけだからな。オレ達の中で、兄弟を嫌っていないのは」


 ふわり、と温かい風が二人の間を吹き抜けた。


「同じ母から生まれたはずの兄でさえ、オレを疎む。だから、お前がいてくれてよかった」


 単調だった声が柔らかくなり、応じるようにエリノスの全身からゆっくりと力が抜けた。


「…どうして、気づきました?」


 瞬間的に放心状態になってしまっていたエリノスは、まだぼぅとした瞳でルービンスを見つめる。


「さっき、言ったことと同じだ。剣を学ぶ者には、同じ者が分かる。その鍛錬の度合いもな。相当な鍛錬をこなしているだろうに、お前は同年代よりも細みだ。それが第一だな」


 いつも仏頂面で不器用そうな姿からは想像しづらい、繊細な洞察力に驚く。必死に隠し、両親にすら気づかれなかったことに、ただ一人、半ば疎遠だった異母兄だけが気付いた。

 おそらく、エリノスがうかつだったのではない。ルービンスを知らなさすぎただけで、その鋭い洞察力ゆえだろう。


「偽るんだったら、腰回りをもう少し太く見えるようにしておいた方がいい。お前の年齢でも、あまりに細すぎる」


 忠告ともアドバイスともとれる発言に、どこかずれてる、とエリノスは淡々と思った。


「あ、異母兄上…。偽っていたことに、怒りはないんですか?」


「ない。お前に怒りを向けても意味がない」


 きっぱりとした断言に首を傾げると、開いている距離を戻ってきてエリノスの頭をなでる。


「生まれた時のお前が、どうやって偽れる。責められるべきは、お前に偽りを押し付けた『誰か』だろう」


 鍛錬のために厚く硬くなった皮膚の感触を髪ごしに感じ、エリノスは瞳を細める。


(思えば、異母兄上達に頭をなでられたことはないな…)


 年の離れた長兄からオルディスと同い年のすぐ上の異母兄まで、誰もが正嫡のエリノスを疎んじていた。

 唯一、ルービンスだけがエリノスを無視することなく、淡々としながらも手を差し伸べた。だからこそ、ルービンスだけが『兄』になれた。

 きっと、『誰か』にも見当が付いているに違いない。


「…異母兄上は、王になりたいとは思わないのですか」


 第一王子の生母は、レオノラが幼く子供ができなかった時期、陰湿ないじめを繰り返していた。懐妊し、倒れた時も、流産してしまえばよかったのに、と周囲に漏らしていた。

 王妃に子がない場合、正嫡が途絶えることになるため、妾妃の中で最も身分の高い者の子を選び、王妃の養子として正嫡に据える。だからこそ、第一妾妃フォーラは王妃が子を設けないことをひたすら望み続けた。

 現在、エリノスの評判が右肩下がりを続けているのを知り、廃嫡を熱心に進めている一人だ。

 正嫡の子がいない場合、生母の身分に応じて王位継承順位が決まる。伯爵令嬢である第一妾妃フォーラを母に持つ第一王子が第一位、子爵令嬢である第二妾妃ミオラを母に持つ第四王子が第二位、少数民族族長の娘である第三妾妃ナティーシャを母に持つ第二王子が第三位、第三王子が最下位となる。

 ルービンスは最下位で、正嫡がいてもいなくても王位からは最も遠いのだ。

 だから、エリノスの問いかけに眉を寄せる。

 エリノスとて、継承順位のことは分かっている。それを踏まえた上での問いかけだ。


「王に相応しい存在がいるのに、それを押しのけて自分がなろうと思うほど、愚かではないつもりでいる」


「相応しい存在…? リグジッド異母兄上ですか?」


 第一王子リグジッド=リダー=ルノワレスは聡明で知られ、武術にも通じている。王としては最有力と言われている。

 しかし、ルービンスは物言いたげに瞳を細めてため息をつき、エリノスの頭から手をどける。


「お前がそう思うのなら、そうかもしれない」


 肯定とも否定ともつかない返答に不満げに眉を寄せる。だが、ルービンスはそれ以上何もいわない。


「…そろそろ行かなくてはな。今日の指導役は、近衛の第三師団長だったはず」


 厳格で融通がきかないことで有名な近衛騎士だ。

 エリノスは頬を引きつらせて頷く。一度、公爵家のバカ息子に対して生真面目に説教していたのを見たことがあった。あれでは、王子でも容赦なく怒鳴り散らすに違いない。


「お引き留めして申し訳ありません。頑張ってください」


「…エリノス」


 低い呼びかけに首を傾げれば、瞳を大きな手で覆われた。思わずビクッと体を震わせるが、ルービンスはそれを無視する。


「お前の責ではない。重ければ下ろせ。無理に背負い続ける必要はない。お前の道だ、好きなように歩け。お前は道を狂わされた被害者だ。好きにしていい権利がある」


 言いたいことだけ言うと、そのまま背を向けて歩いて行く。おそらく、声をかけてももう立ち止まらないだろう。

 呆然と立ち尽くすエリノスは、異母兄の言葉を反芻しながら、同じようなことを最近聞いたような気がした。

 数秒後、思い出す。わずか数日前のことだ。


(オルディス従兄上と同じことを…)


 言葉は違うが、内容は同じだった。

 好きにして良い、と。従兄と異母兄に言われた、言葉を反芻し、エリノスは涙をこぼした。その表情は笑みを浮かべている。

 近くの樹によりかかって座り込みながら、両手で顔を隠す。その隙間から、頬を伝う滴が見えた。

 優しい言葉を、かけてくれた人たちに感謝しながら、エリノスは決意する。

 どれだけうつけを演じようとも、どれだけ父を怒らせようとも、『正嫡』が存在する限り、父や大臣達は慣例に従って王太子にしようとする。ならば、『正嫡』の存在をなくすしかない。だが、本当に死んでしまっては、自分を思ってくれる人達を泣かせることになる。

 涙をぬぐい、空を見上げる。

 木々の枝、緑の隙間から見える空はどこまでも透き通り、高い青だった。



※※※



 ガルビオン子爵家一行が来たのは、国内の高位貴族や重職を集めて行われる宴の前日だった。

 王宮の離宮を一つ、子爵が借りきれたのはやはり、王妃の姉であるルクエラの存在が強いだろう。

 到着早々、顔を見せたエリノスをサイハラでは会えなかった人達、長男ディノリスと次男ロディアは喜んで迎えた。

 エリノスの足元には、ディノリスとロディア、ミルファナの子供達が集まっている。一番上はディノリスの子供達、十歳になる双子の兄妹だ。左右から腰に抱きつかれ、身動きできなくなったエリノスは、困ったように笑いながら二人の頭をなでる。


「解放してやれ、困っているだろう」


 双子は、ぴしゃりと言い放つ祖母に素直に従う。若干怯えたように見えるのは錯覚ではないだろう。

 離れて、年下の従兄弟達を連れて、庭の方へと駆けていく。


「元気そうですね」


「一ヶ月もしてないのに、変わってたまるか」


 笑みを浮かべながらの強気な言葉に、傍らの男性が苦笑する。


「大丈夫そうか? エリノス」


 優しい問いかけに微笑みを浮かべる。

 小さく会釈を返すことで返事とし、ルクエラに視線を戻す。


「唐突ですが、お願いがあります。伯母上と従姉上達に」


 いつも自分を押し殺し、周りを優先する姪の言葉に、ルクエラは瞳を細め無言で先を促した。ミルファナとシルヴィアもじっとエリノスを見つめている。


「時間がないことは百も承知です。もっと早くに決意すべきだったことは分かっています。それに関しては、俺に責があります」


 時間がない、と言いながら肝心のお願いを口にしない。だが、ルクエラ達は先を急かすことをしなかった。

 いつまでも悩み続け、苦しみ続け、悶え続けていたエリノスが、ようやく得た答えと決意を、しっかりと聞きたかった。


「…ある人に言われました。俺は被害者なのだ、と。勝手に道を狂わされて、それを歩くことを強制された、と。偽りはオレの罪ではない、と。それが、とても嬉しかった。『自分』として生きて良いのだと言われて、ホッとしました」


 皆が、静かにエリノスの言葉を聞いている。ようやく、呼吸ができたような安心感を宿した笑みを浮かべ、この王宮では出せなかった『自分』を出している。

 だから、皆は悟った。エリノスの決意と得ることのできた答えが、何なのか。悟ったからこそ、抑えようもなく歓喜の笑みが浮かぶ。


「伯母上達は、ずっと俺を思い続けてくれていた。支えてくれていた。本当に、感謝しています。たくさん迷惑をかけて、わがままを聞いてくれました。これを、最後のわがままにします」


(お前をわがままというのなら、この世の人間は欲望の亡者だな…)


 若干呆れながら、ルクエラは背筋を伸ばして真っすぐに立っている姪に問いかけた。

 未来を切り開く、その最後の『わがまま』を聞き、叶えるために。


「聞かせてもらおうか、そのわがままとやらを」


 不敵な笑みを浮かべる伯母に、エリノスはゆっくりと笑みを刻んだ。

 優しいだけでなく、柔らかいだけでなく、ただ、まっすぐ前を見据えた覚悟を宿した力強い笑みを。


「服を作ってください。明日のために。エリーサ(・・・・)が着るための服を」



※※※



 ただ、決められた道を歩くのではない。

 これからは、自分で決めた道を歩くために。

 抱いた覚悟と決意をもって、今、自分の道を定めるために始めよう。

 始める前に終わらされた、『エリーサ』の人生を…。



※※※



宴の会場は、王宮で最も美しく広大な『神謳(しんおう)の庭園』。


 瀟洒な装飾が施された上座は、今は空席。出席者達の輪の中で、上座の主達がワルツを踊っているからだ。

 中睦まじい様子の国王夫妻を微笑ましげに見つめる者達の中、下座にて控えている女性達が不満げに眉を寄せている。


「…フォーラ様、陛下は本当にあの王子を王太子に?」


「そのようね。あの王子が次代などと、我が国の恥でしょうに…」


 妖艶な美貌を煌びやかな宝石や装飾品で飾り立てた妾妃、フォーラは忌々しげにレオノラを見つめている。

 レオノラの存在がなければ、フォーラが王妃となっていた可能性が高い。そう考えて、フォーラはひたすらレオノラを嫌悪していた。


「本当に…。ねぇ、貴女もそう思わなくて? ナティーシャ」


 フォーラ付きの女官の中でも年かさの者が、半歩下がっている女性に声をかける。


「…陛下には、陛下のお考えがおありなのでしょう。めかけでしかない私達に、意見することなど恐れ多いことかと」


 無表情のまま、フォーラよりも年上の女性は、感情の宿らない声で答える。

 第三妾妃であるナティーシャの生まれは、少数民族族長の娘でしかない。身分でいえば、フォーラに仕える女官達の方が上だ。だが、第二妾妃が亡い今、フォーラに次ぐ地位を持っている。女官が呼び捨てにして良い存在ではない。

 ナティーシャは女官を一瞥しただけで、特に文句を言わない。地位を振りかざして黙らせることは容易だが、フォーラに目の敵にされることは避けたかった。危険が及ぶこともそうだが、ただ面倒だった。


「あら、蛮族の小娘が、賢さかしらぶって…。物わかりのいいふりをして大人ぶっているから、子爵家の小娘に寵愛を奪われるのよ」


 それは、ナティーシャを貶める言葉であり、十数年前に亡くなったミオラを貶める言葉でもあった。同時に、自分自身にも返ってくるものだと、フォーラは気付いていない。

 フォーラの高慢な性格が災いし、寵愛を薄れ、蛮族と蔑むナティーシャに寵愛を奪われた。しかも、ナティーシャは立て続けに王子を生んでいる。その状況を招いたのは、確実にフォーラ自身の責任だ。

 自分に返ってくるものではないと思っているから、言えたのだろうとわかって、ナティーシャは呆れたため息をそっとこぼした。


 すでに四十を過ぎた二人は、生きていればレオノラより二つ年上だった第二妾妃の登場によって、国王の寵愛を奪われた。それは、フォーラとその周囲の認識であって、ナティーシャとその腹心にとっては違う。

 妾妃として後宮に入った成人したばかりの少女は、初めての王宮と息の詰まる生活、フォーラからの陰湿な嫌がらせに困苦していた。それを知ったナティーシャが、第二妾妃ミオラの元へ通うようにロナードに進言したのだ。

 ロナードの寵愛を得れば、名実ともに妾妃として接せられるようになり、ミオラの体と心を守ることになる。


 本来、寵を争って骨肉の争いを繰り広げるのが普通の妾妃自身から、他の妾妃の元に行けと進言されたロナードは、その時、見事に凍りついた。

 何かとうるさく媚を売ってくるフォーラよりも、相手が国王だろうとまっすぐに相対するナティーシャを、ロナードは信頼していた。だから、それ以降ミオラの元に通うようになった。

 このことをきっかけに、ナティーシャとミオラは友人として交流を深めることになった。


(争おうと思うからいけないと、いつになったら気づくのかしら…)


 王妃は公私ともに王のパートナーとして存在する正妻だ。しかし、妾妃が公の場でかかわる事はなく、私の場においても臣下としての立場を逸脱することはできない。なのに、王妃と争おうとするのは滑稽でしかない。

 元より、王妃になる資格が慣例によって定められているこの国で、伯爵家出身の妾妃が王妃の座を望むなど愚かの極みだ。


 心底面倒だ、と思いつつ、無意識に信頼できる息子の存在を求めて、視線はさまよっていた。すると、その息子の方から近付いてきた。


「…母上」


 背後、女官達からわずかに距離を取って声をかけてきた息子を振り返り、ナティーシャは瞳を細めた。無表情下でのそれが微笑みだと、ルービンスは知っている。


「どうかしたの?」


 同じ宮に住んでいても必要な時にしか口を開かない寡黙なルービンスが、自ら話しかけてくることは珍しい。

 フォーラに一言断って、ルービンスに歩み寄る。


「母上にだけは、お話をしておこうかと…」


 低く押し殺した声のルービンスに、深刻さを感じたナティーシャはさりげなく人気の少ない東屋の方に場所を移す。


「何かあったの?」


 普段、会話が多いのは上の息子の方だ。しかし、王族としての儀礼的な感じが抜けきらない。親子として会いながら、うわべだけのように感じていた。だからこそ、口数は少ないが『自分』を偽る事をしないルービンスを、ナティーシャは信頼していた。


「エリノスが、決めたようです」


 知らない者には、分からない。

 この王宮で、知っている者はごく少数。ルクエラ達を除けばこの親子だけだろう。

 ナティーシャは目を見張り、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。


「…運命を狂わされ、道を違わされ、苦痛と悲嘆の中で過ごして来た子が、優しさを振り切って自由になろうとしているのね…」


「はい。母上のおっしゃったとおり、ずっと悩み、苦しんでいたようです」


 淡々としたルービンスに、ナティーシャは小さな苦笑をこぼす。

 基本、無感情なこの親子が感情をあらわにするのは、互いの前くらいだ。


「貴方は、声をかけてあげたの?」


「はい。オレが思い、当然と考えたことを、ただ一方的にですが…」


 それが良かったのか、とわずかに戸惑いと不安を覚えるように揺らぐ声に、ナティーシャは背伸びをして頭をなでてやる。成人して七年が経つ息子にすることではないが、思わず、手が伸びてしまった。


「安心なさい。きっと、あの子には大なり小なり、それが救いとなったはずですよ」


 ナティーシャの柔らかな声に、ルービンスは小さくうなずいて息をつく。


(母上が気付かなければ、オレは気付けなかった…)


 実際、エリノスが女であることに先に気付いたのはナティーシャだ。三年ほど前、何故かはわからないが、当然のように知っていた。

 ルービンスも違和感を感じてはいたが、ナティーシャとの会話で核心に触れるまで、気付かなかった。

 頭二つ分以上低い位置にあるナティーシャの顔を見下ろして、ルービンスは改めてその洞察力に敬服する。


「母上、一つお聞きしたいのですが…」


 ふと思い出したような問いかけに、ナティーシャは無言で先を促す。


「なぜ、兄上にはお話にならないのです」


 問いかけながら、答えは半ばわかっていた。

 一歳上の同母兄、第二王子ガハルド=レドゥー=ルノワレスは、エリノスの真実を知らない。

 正嫡として生まれながら出来の悪い末弟を嫌悪しているガハルドを、ルービンスはあまり好いていない。

 何をしても平凡の域を出ないガハルドは、武人として将来を期待されているルービンスを嫌っている。母の血筋による劣等感も手伝って、第一王子リグジッドに追従して、将来、有利な立場に立とうとしている。

 権力に無関心な母、生まれや身分を意識しない弟からすれば、その姿は滑稽に映る。

 あえて、問いかけるルービンスに、ナティーシャは苦虫を噛んだように表情をゆがめる。


「ガハルドに話せば、リグジッド王子とフォーラ様にも伝わるわ。そうなれば、リドワース侯爵家とガルビオン子爵家は、最悪、一族郎党処刑され、関わっている使用人達まで処罰対象になりかねないわ。もちろん、罪を犯した方が悪いのだけど…。でも、エリノス自身やそれを最大限守ろうとした者達には、罪はないでしょう?」


 そんな事態は回避しなくてはならない。

 理由を聞き、ルービンスは深く納得した。自分でも考えていたことと同じだったからだ。


「それで、エリノスは、今?」


「今、準備をしているようです。ガルビオン子爵夫人と令嬢方が手伝って」


 十五年間、男として生活してきたのだ。どうしてもぎこちなさが出るかもしれない。だが、ルービンスは特に心配はしていなかった。


(あれは、何者にも越えられない、天才だから…)


 本人ですら気付いていない。だが、わかる者にはわかる。

 今まで、実の両親にさえ気付かせなかった。それだけで、エリノスの能力の高さがわかる。


「そろそろね、王太子の指名発表は…。大騒ぎになるでしょうね…」


 楽しそうに笑う口元を袖で隠しながら、ナティーシャはゆっくりと宴の中心へと近づいていく。その後ろに寄り添いながら、ルービンスは唯一の妹の心が届くように願っていた。



 何も知らず、気付けずにいる父に。

 何もかもを忘れ、身勝手な幸福を望んだ王妃に。

 わかってほしいと、祈り、願った。



 その思いは、ルクエラ達も同じだった。

 ワルツが終わり、国王夫妻は上座に座り、長い付き合いの重臣達と談笑している。それを遠巻きに見ながら、オルディスとシルヴィアは眉を寄せていた。


「…なんか、腹が立ってくるんだけど、どうしたらいいと思う?」


「お兄様…」


 兄のかつてないほどに低い声をたしなめるように言うが、シルヴィアとて思いは同じだった。

 何も知らない国王夫妻に怒りを感じるのは理不尽と言われても、二人はエリノスのことを思って怒りを募らせる。

 ふいに、シルヴィアの視線が国王夫妻の後方に控えるナティーシャ達親子に向く。

 昨日、唐突にエリノスからルービンスのことを聞かされた時は驚いたものの、あの王子ならば、と思って納得してしまった。

 ディノリスが目をかけていただけあって、確かな人間性を持っている、と誰もが感心した。何より、王宮の中にエリノスの味方がいたことが嬉しかった。

 シルヴィアの視線に気付いたオルディスも、そちらを見る。すると、視線に気付いたのか、ルービンスが軽く会釈をし、母の肩を叩いて二人の方を示す。

 ナティーシャの視線が自分達に向いた瞬間、思わず固まる。

 まるで蛇ににらまれた蛙の状態だったが、ふいに、ナティーシャが瞑目めいもくして静かに一礼した。一瞬、驚きのあまり反応が遅れたが、オルディスとシルヴィアは顔を見合わせてから一礼を返す。

 ナティーシャとガルビオン子爵家は、全く交流がない。ナティーシャの故郷との交易はあるが、彼女本人とは言葉すら交わしたこともない。


「お兄様、もしかして、ナティーシャ様も気付いているんじゃ…」


「いや、もしかしたら、ルービンス殿下に教えたのは、ナティーシャ様かも…」


 呆然としたまま考えを口にしつつ、すでにこちらを見ていないナティーシャ達を見つめる。


「どうした?二人とも」


 呆然としている弟妹に、目を丸くしたディノリスが近づいてくる。


「兄上…。ルービンス殿下のことで…」


「ん?」


 首をかしげるディノリスに、シルヴィアが続きを引き継ぐ。


「もしかしたら、母君のナティーシャ様も気付いているのでは、と…」


 ディノリスは納得の声をこぼし、ルービンス達の方を見る。たまたまナティーシャと話していたルービンスの視線と合い、ディノリスは微笑みを浮かべて丁寧に頭を下げる。

 ルービンスも丁寧に頭を下げ、それに気付いたナティーシャも一礼を送る。


「あの人は、この王宮で一番の『眼』の持ち主だ。知っていても不思議ではない」


 感嘆したように溜息をつく弟妹に苦笑をこぼしつつ、視線を国王夫妻に向ける。


 ふいに、談笑していた声が静まる。


 ロナードの隣に、赤い絹の布を敷いた台座を掲げ持つようにして侍従がひざまずく。

 台座の上には、王太子の印章と領主に任命することを記した任命書が置いてある。


「我が後継者、王太子に王妃が嫡子、第五王子エリノス=ラグー=ルノワレスを指名する。


 厳かに響いた声に、返ったのは静寂。ただ、一人分の足音が響く。

 誰の物かは分かっているが、幾人かが怪訝そうに眉をひそめた。

 その足音が、男性の靴音とは違って聞こえたからだ。

 現れた人物を見て、わずかな例外を除いて誰もが唖然として固まる。

 ロナード達から二メートルほどの距離を置いて立ち止まった人物は、紅をさした可憐な唇を笑みの形に歪めて、優雅に一礼した。


「お呼びと伺い、参りました。父上、母上」


 その声に、この状況が現実だと認識した重臣達は卒倒しかけた。

 ゆったりとした動作で姿勢を正したのは、どう見てもエリノスだった。だが、その姿は真実を知らない者にとって異常でしかない。


 長い髪を飾るのは、真珠と紫水晶の花簪。

 華奢な体躯を包むのは、マーメイドラインの浅葱色のドレス。

 細い首には、黒絹と翡翠のチョーカー。

 耳には、シンプルな真珠のピアス。


 衣装も装飾品も、見事に着こなして、少女にしか見えないエリノスに、ロナードは憤激する。自分を見つめる、真摯な瞳に気付かないまま…。


「何だその姿は! ふざけたことをして、余興のつもりかッ!? 恥を知れッ!!」


 びりびりと空気を震わせる怒号に、貴族達がひきつった悲鳴をあげて数歩後ろに下がった。

 憤然としているロナードの後ろ、予期せぬ展開に驚きつつも状況を理解して、フォーラはこみ上げる笑いを必死に抑えていた。

 重臣や高位の貴族達の前で、こんな行為をすれば廃嫡は間違いない。自分の子が次期国王になると確信したが故の、優越の笑いだった。


「エ、エリノス…」


 真っ青になりながら、レオノラは我が子を呼ぶ。応じるように、エリノスはレオノラを見た。だが、その瞳には、かつてまでの慈愛や敬愛は存在しない。

 決意した今、母こそ、最も切り捨てなければならない存在だった。


「ふざけてはおりません、父上。これが、俺の本来の姿です」


 視線を父に戻しながら、エリノスはゆったりとした口調で告げた。


「俺は、女です」


 あまりにも突拍子のない真実の暴露に、貴族達が忍び笑いを漏らす。

 うつけの現実味のかけらもない戯言、と受け取ったのだろう。王子達やフォーラも笑った。

 しかし、ガルビオン子爵家とナティーシャ親子、リドワース侯爵夫妻は笑わない。いや、笑えなかった。ただ、沈痛な面持ちで瞑目して沈黙している。


「…何がおかしい…」


 嘲笑の渦を断ち切り、貴族達を威圧したのは、エリノスの鋭い声だった。

 うつけと侮り、罵っていた王子、否、王女の小さな背中に貴族達は明確な恐怖を抱いた。それは、ロナードの怒りを買うよりも重い感情。

 まっすぐ、父を見つめたまま、エリノスは口を開く。


「男として偽り、あった十五年。父上達だけでなく、国民をだましてきた者を、王位につけることはできないはず。ゆえに、僭越ながら、王太子の地位はお断り申し上げます」


 ただ、事実のみを告げる言葉に感情はない。


「偽り、だと…?」


 低いうなるような声で呆然と繰り返し、ロナードは傍らのレオノラを見下ろした。その視線に、貴族や重臣達もレオノラを見る。だが、全てを忘れているレオノラは、声も出ずただ首を振って否定する。


 自分は何も知らない。


 そういうかのように首を振るレオノラに、エリノスは苦笑を浮かべる。


「父上、母上を問い詰めても何もわかりませんよ。母上は、偽った真実の全てを忘れているのですから」


 レオノラは蒼白になって震えながら、へたり込んだ。


「私わたくしは、何も…」


「貴女以外に、偽る事の出来る者が他にいるのですか?王妃陛下」


 冷ややかな声は、エリノスの後方から響いた。

 怒りに瞳を輝かせているルクエラは、へたり込んで動けないレオノラをにらみつけた。

 十五年間。全ての重荷をエリノスに背負わせて、安穏とした日々を送っていたレオノラに対し、募っていた怒りの全てが、今、ここで解放された。


「陛下、責めるべきはエリノスではありません」


 身分は、たかだか子爵夫人。この場における発言権があるはずがない。

 だが、誰もルクエラを止めようとはしなかった。止められなかったのだ。王妃となるべく育てられたルクエラは、他人を圧倒する威厳を身につけていた。


「生まれたばかりの赤子に、何ができましょうか。自ら偽ることなどできるはずはない。王妃陛下が、周囲の重圧に耐えかねて、作り上げてしまった偽りです」


 それは、王妃に対する糾弾。ルクエラだからこそ言えた、明確な言葉。


「四人の王子が生まれた。なら、次も王子に違いない。そう繰り返したのは、国民のほとんどのはずです。正嫡であるならば、男女関係なく王位を継ぐことができるはずなのに、男の世継ぎを、と望まれ繰り返されれば、重圧にもなりましょう。それが偽りの理由になることはあり得ませんが…」


 事実を述べて、ゆっくりと膝をついて頭こうべを垂れる。


「エリノスは被害者。責めるべきは無責任で身勝手な大人達にあります。御英断を…」


 臣下の礼をとって沈黙する姿に、誰も笑うことができなかった。


「…いくど、真実を告げようと思ったかわかりません」


 ふいに落とされた呟きに、ロナードはエリノスを見つめたまま動けなくなる。


「真実を告げれば、母上がどうなるかなどわかりきっています。伯母上達や伯父上達にも、咎めを負わせてしまうかもしれない。そう思えば、何も言えませんでした。でも、王太子になれば、偽りはすぐにばれてしまいます。だから、廃嫡になるように、目に余るほどの愚行を繰り返し、手に負えないほどの浅慮せんりょさを見せてきたんです。けれど、父上達はなおも慣例に従う…」


 スゥ、と小さく息を吸う。

 脳裏に反芻はんすうされる、従兄と異母兄の言葉。


「好きにして良いと、俺は俺として生きて良いと、そう言ってくれた人達を悲しませる方法はとれません。……いえ、ただ、俺が臆病なだけでしょう」


 自分を思ってくれる人の言葉を抱いて、エリノスは顔をあげた。その表情は、泣き笑いのようだった。


「…エリノス=ラグー=ルノワレスは、今日をもって死にました。正嫡の男子は死に、新たに王太子を選出する必要があります。御再考を」


 深く一礼して背を向け、ひざまずいているルクエラに歩み寄る姿はゆるぎなく、うつけとは呼べなかった。

 聡明な、正嫡子の姿が、そこにあった。


「待てっ」


 若干動揺した声で、ゆっくりと離れていく我が子の背中を呼びとめた。

 歩みを止めて振り返る姿場、別人のように見えた。


「お前が女であることが事実なのは理解した。しかし、お前が正嫡であることに変わりはない。それを野に放つなど…」


 王家が市井に下るのと同じ。前代未聞だ。

 妾妃の子が地方領主として市井に下ったことはあるが、正嫡の子が下ったことは歴史上一度もない。


「僭越ながら、父上」


 低い声は、ロナードの後方から響いた。


「…ルービンス異母兄上」


 思わず呟いた声に、ルービンスは一瞥するだけで何も言わない。ロナードに一礼して、ゆっくりと口を開いた。


「正嫡の子は一人しか認識されておりません。なら、妾腹の王女がいたことにすればいいのでは…」


 母親の身分が低く、また、生まれた時期が正嫡の子と同じであるために隠されてしまった存在にすればいい。

 ルービンスのその主張に、誰もが息をのんだ。


「…俺を、市井出身の母を持つ庶出(しょしゅつ)の王女として公表する、ということですか?」


 王宮内、とくに後宮には市井出身の女官や侍女が多くいる。その一人、もしくはすでに死亡した身寄りのない女性を生母として公表する、ということだ。

 頷くルービンスの視線は、エリノスに注がれる。

 うなっているロナードに、エリノスは困ったような笑みを浮かべて、肩を落とした。


「どうぞ、お好きなようになさってください。父上、俺は、もう…偽りには疲れました」


 虚ろな声に、ロナードはハッとした。

 一ヶ月前、執務室で見た、エリノスの瞳と同じ虚ろがそこにあった。

 真実の自分を隠し、苦痛の中で生きることに疲れ切った者の虚無を宿した声と瞳に、ロナードは急速に冷静になった。


 王の才を持ちながら、それを表に出さなかったのは護る為。

 今まで、真実に気付けなかった者には、エリノスに何を言う権利もないということ。

 知ろうと思えばたやすく知れた、目の前の真実を素通りし続けた者が、本当のうつけだということ。


(私も、か…)


 不真面目な、だらしない姿に憤って来た我が子は、誰よりも王としてあるべき存在だった。それに気付けなかったロナードは、内心で自嘲した。

 冷静になれば、ルービンスの言葉が最善であると悟る。

 ただ一人の王女を、今さら正嫡として公表するのは困難だが、身分が低い市井出身の女官が生んでいたとすれば、多少の疑問は残っても納得は得られる。

 本来なら、このまま王太子の地位につけ、女王の御世のために動き出すのが必要だろう。しかし、それをエリノスが望んでいなことは、誰に聞かずとも理解できた。


「…正嫡の王子、エリノス=ラグー=ルノワレスは遠乗りの最中に落馬、死亡。ゆえに、半年間の喪に服すため、宴は中止。宰相、各国にこれらを伝えるための文書を作成せよ」


 淡々と述べられた命令に、宰相は視線で、よろしいのですか、と確認してくる。

 それに苦笑して、視線はエリノスに固定したまま答える。


「まさか、真実をそのまま告げるわけにもいかぬ。ならば、死んだことにするのが最良だ」


 全てから解放されると知って、エリノスは肩の力を抜く。


「これで、良いか。エリノス」


 初めて聞く、柔らかく優しいロナードの声に、嬉しそうに微笑む。


「はい。ありがとうございます、父上」


 嬉しげな笑みで頷いた直後、苦渋の表情に変わり、座り込んだままのレオノラを見つめる。


「母上…」


 エリノスの静かな呼びかけに、生気のない表情で見つめる。

 レオノラの白い手を取って、エリノスは別れを告げる。


「生んでくださったこと、愛情をかけてくださったこと、心から感謝いたします。ですが、これよりは、貴女の子として生きてはいけません。貴女が母であったことを誇りに思います。どうか、健やかであられますように…」


 母の両手を押し頂くように額に付け、そっと立ち上がる。レオノラの瞳は、いまだ現実を見ていないかのように揺れている。


「しばらく、伯母上の下に身を寄せます。詳細が決まりましたら、ご連絡ください」


 ロナードに告げて、レオノラの手を離す。

 指先が離れようとした時、レオノラの瞳に光が戻った。


「エリノス…」


 呆然とした呟きに、慈愛に満ちた笑みを浮かべて、ゆっくりと頭を垂れた。


「お元気で、母上」


 もう一度、別れを告げて、身を翻す。

 立ち上がっていたルクエラは、エリノスと歩いて行く。その背を、呼び止める者は誰もいない。


「とんだ、祝宴となったな……」


 その呟きには、自嘲と悲しみが込められていた。

 ただ息をのんで立ち尽くしていた貴族達が、ざわめき始める。それを静め、公となった事実の公言をきつく禁止し、葬儀の準備のため、宴を中止する旨を伝えた。


 この一時間後、各国からの使者は大慌てで出国準備を整えて、母国へと駆けて行った。



※※※



 不出来な王子の死に、国民は一応の嘆きを見せたものの、さほど感慨を抱かなかった。逆に、無能な王が誕生しなかったことに誰もが安堵した。

 その噂を聞いて、ルクエラ達が怒りを抱いたものの、当の本人は面白そうにそれを聞いていた。

 レオノラは、息子を失ったショックで体調を崩し、実家であるリドワース侯爵家の所領にて静養するために、王宮から姿を消した。

 精神状態が不安定となったのは事実ではあるが、リドワース侯爵領での静養は、レオノラの兄である当代侯爵が進言したゆえだった。


 年始年末の慌ただしく騒がしい時期、喪に服すために静まり返っていた一月。

 あと一週間で、喪が明ける頃、ルービンスがサイハラを訪れた。

 ロナードの名代として、会議で決定したことを伝えるために。


「…ルービンス異母兄上が、わざわざですか?」


 エリノスは目を丸くして、ルービンスの瞳を見上げる。ルクエラ達も意外そうな表情を浮かべている。

 ルクエラ達に一礼してから、問いに答えた。


「官吏や他の貴族に任せるわけにはいかないだろう」


 明確な理由ではないが、誰もが理解して頷いた。

 いろいろと複雑な事情があるのだ。適当な人物に任せるわけにはいかない。


「喪が明ければ、リグジッド異母兄上が王太子になられるのですね」


 現在、表向きとはいえど、正嫡の子が亡くなったことで、次の王はリグジッドと確定された空気が王宮にはある。その為か、次代国王の生母、という名誉に有頂天になったフォーラのわがままと高慢さは日に日に増している。リグジッド自身、自分が次期国王だという態度を、隠さなかった。

 それを知っていたエリノスは、ため息をつく。


「それはわからない」


 端的な否定に、エリノスは首を傾げる。


「お前の一件で、慣例に従うのも善し悪しと考えられるようになったようだ」


「…父上が、ですか?」


「それと、宰相を含めた重臣達が、だな。だから、そう簡単に決まる事はないだろう。お前が、返り咲くこともある」


 王位に興味のないエリノスにとって、ルービンスの言葉は素直に喜ぶことのできないものだった。


「お前は嫌かもしれないが、父上にはその気がおありのようだ」


 言いながら、懐から一通の書状を差し出す。赤い封蝋ふうろうには、しっかりと国王印が押されている。

 それを慎重に開き。最初の一文に目を通した瞬間、ルービンスが口を開いた。


「第一王女エリーサ=ラフィー=ルノワレスに、国王直轄地シュヴスを移譲。シュヴス領主として任命する」


 書状の見えないルクエラ達に聞かせるためだろう。感情のこもらない声は、さほど大きくなくとも部屋中に響いた。

 エリノスは書状を開いた状態で固まり、ルクエラ達は唖然としている。


 国王直轄地の移譲は、王族に対してならば珍しいことはない。後見のない王族に、地方領主の地位を与えるため、直轄地の移譲は当たり前のことだ。だが、数ある直轄地の中でも、シュヴスは非常に富裕な土地だ。


 位置は、サイハラの隣、王都から一日半ほどの距離にある。

 面積はサイハラのおよそ三倍だが、人口はあまり変わりがない。多くが森林と丘陵地帯であることが起因している。

 サイハラとの境には、レクガレス小山脈がそびえ、その南半分がサイハラ領だが、鉱脈が集中している北半分はシュヴス領となっている。鉄をはじめとした鉱物、琥珀も多く産出され加工もしている。

 土地は肥沃で、凶作知らずと言われ、領土なっている山には東部諸国一のシャガラス塩湖がある。

 緑豊かで養蚕業が盛んに行われ、良質な絹の産地でもあった。


 ゆっくりと、書状から顔をあげ、ルービンスの感情の読めない瞳を見つめた。


「実は、もう一枚書状があって、そっちが本物、とか…」


「信じられないだろうが、事実だ」


 きっぱりとしたルービンスの言葉に、頬を引きつらせる。


「む、無理ですっ! こんな重要な土地、俺には統治できません! というか、分不相応です!! 王位継承者ならまだしも…」


 勢いを失いながら、エリノスは気付いた。

 ルービンスの、「父上にはその気がある」という言葉を思い出して、書状の最後、父の署名と朱印を穴が開くほど凝視する。

 喪が明ければ、エリノスはエリーサとして公表される。その立場は、生母とされる女官の身分がナティーシャよりも低いため、王位継承権は最下位だ。その王女が、国内で最も重要で裕福な領地を任される。次期国王ほぼ確定とされる第一王子ではなく。

 市井の母を持つ王女が……。


「…陛下も、バカではないからな」


 エリノスの背後で、ルクエラが苦笑を浮かべる。

 偽りを見抜けなかったとはいえ、ロナードは名君として有名だ。あの祝宴の場で、王に最も相応しい者が誰なのか、確信したのだろう。その為に、何をすべきかも瞬時に理解した。そして、早々に実行に移したのだ。

 王女の評判がよく、国民の信頼を得れば、王位継承順位がひっくり返る可能性もある。

 その為の布石として、シュヴスを移譲したのだ。


「うそ…」


 好きなようにしてくれ、と言いはしたが、こうなるとは思っていなかった。

 これは勅命だ。

 王の署名と朱印がある以上、拒否は不可能。


 再び凍りつくように固まってしまったエリノスに、ルービンスは頭を軽くたたく。


「頑張るんだな、エリーサ」


 ルクエラ達に声をかけて、さっさと踵を返す。

 馬蹄の響きが消えても動かないエリノスに、ルクエラはため息をついて、少々強めに頭をたたく。

 衝撃に我に返り、左右を見回す。


「え、あ、異母兄上、これ何かの間違…って、異母兄上?!」


 帰ったのに気付いていなかったのか、あるはずのない姿を探す。

 その動揺しきった両肩をシルヴィアとオルディスがたたき、にっこり笑顔でとどめを刺した。


「「頑張れ、シュヴス領主」」


 どうしようもない現実を突きつけられて、床にうずくまる。



 およそ一ヶ月後、最低限の準備を整えて、エリノスは王宮に出向き、シュヴス領主の任命を正式に受ける。

 同時に、王女の存在が明らかにされ、各国に動揺が広がった。




 王国でも重要な経済の中心地、シュヴス領主エリーサ=ラフィー=ルノワレス。

 彼女が、『理想の領主』と讃えられるようになる、三年前の話であった。



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