第40話 最高級品の白子
リリィ・アンダーソン その16
テレテレテレ~ン、テレテテテーン♪
呼び鈴のスイッチを押すと、新しく出来た駅前のコンビニと同じ、だけど私には昔から同じ聞きなれたメロディーが家の中に響き渡るのがわかった。
日曜日のこんな朝早くに迷惑かなとも思ったけど、翔太への寝起きドッキリを思いつき居ても立ってもいられなくなった私は、我慢出来ずに翔太の家に来てしまった。
だがどうせ今日はよりこの家にお呼ばれしてて、翔太の家に集まるって事になっているから、少しくらい早くても平気だろう。
よりこは一体何の目的で私達を呼んだのか知らないが、これもあの美味しいお弁当の為。ここはいっちょ腹を括って彼女の要求に答えるしかない。
しかし、あの倉橋よりこの家にお呼ばれするのはかなり勇気が要る。
というのも、昨日見た彼女と裕一が着てた服が凄かったからだ。
何が凄かったかって、私なんかでも一目でわかる高級感、裕一の履いてた靴なんて、私が今日着てる服や手に持ってる千円くらいで翔太に買って貰ったウサギがプリントされたビニール製のバッグなんかと諸々合わせても恐らく足りないくらいだろう。
そして更にはそれらの着飾る側の人を選ぶ様な高級品を、オーダーメイドとは違う意味で、そのデザインその物が彼女達姉弟の為に作られた物では無いかと思わせるほどの着こなし方だった。といってもまあ、見た目が良い人は何着ても似合うけどね。
だもので私も一応意識して、タンスの中にある一番小マシな服……というか翔太が買ってくれた服を着て、久しぶりに髪も下ろして来たけど、やっぱりこんなピンクっぽい服ってナイよね、これも翔太が買ってくれたヤツだから着ているのであって、そうでなかったら恐らく着ないであろうヒラヒラしたデザインの服だ。私としては、自分で似合うのはもっと大人っぽい落ち着いた色合いと形の、所謂シックなデザインの服だと思っているのに……ママの服拝借すれば良かったかも……。
ああもう、これ絶対ダセェとか、貧乏で可哀想な子とか思われるよ。
でも……なんて事思いつつも翔太が一緒だから大丈夫だと思っている訳だ。
どうしてかというと、例えどんなに蔑まれたり嘲笑われても翔太が私の事守ってくれるに決まってるから。んで翔太が「そんな事無いよ、リリィが一番可愛いよ」って言ってくれるに一万点だわ。そんでロマンチックなキスをよりこに見せ付けて……。
ん? という事は……。
もし本当によりこが私の事馬鹿にしたりして、そんで私がいいタイミングで泣いたりしたら、よりこ株がだだ下がりじゃん。史上最高の下げ幅になって更に効果的だったじゃん。電車止まるよ絶対!
……っち!
こんな事なら、恥を忍んでいつも着てる中学校のジャージとか毛玉だらけのパジャマとか着てくるんだったわ、そんな服ならこの一石二鳥な「お洒落よりこのファッションチェック大作戦」も確実な物となったのに……迂闊な……。
……いやあれっ?
良く考えたら昨日の私の格好って必死だったから気にしなかったけどジャージだったわ。
あっ駄目だわ、そもそもよりこがそんな簡単にボロ出すはず無いわ。ていうかこの作戦駄目だわ。
などと馬鹿な事を考えつつ、走って来た為息が上がってしまったので、誰かが出てくるまでには息を整えておかないといけないと思い、胸に手を当てて深呼吸をした。
するとガチャッと玄関の扉が開いた。
「あら? リリィちゃんいらっしゃい、珍しいわね」
既に起きて家事をしていたのだろう、エプロン姿の翔太のママが出迎えてくれた。
「おはようございます、翔太ママ」
「あらっ、おはようございます。リリィちゃんよく挨拶出来たね」
翔太ママはよしよしと私の頭を優しく撫でた。
「えへへ」
まるっきり子供扱いだけど、翔太ママになら良い。それに全然嫌じゃない、こんな風に褒められるとむしろ嬉しくなっちゃう。
だって初めて会った時の私って、まともに挨拶もしなくて、当時は言葉もわからなくて、でも根気良く諭してくれたのが翔太ママだったのだ。
その時の言い方も「挨拶しないと駄目よ」って穏やかにニコニコしながら優しくて、当時ツンケンしてた私ですら反発する気も起きないくらいで、出来るようになると今みたいに褒められたのが凄く嬉しかった。
そのせいかお陰か今でも嬉しい。そういう所がやっぱり翔太のママだって思えるから。
そんな翔太ママは、顔が翔太と似てて、翔太と同じでまあるい人、性格もだけど体系も。それから家庭的だし、仕事に出ている私のママと違っていつも家に居るから、私が翔太と知り合った当時からとってもお世話になってるとっても温和でとっても良い人。
私の第二のママだって言っても過言では無い。そうだ、実際に翔太と私は結婚するんだから本当の義母になるのだしそれこそ言い過ぎじゃないわね。
それと料理も上手で、夕飯を良くご馳走になる。特にカレーは絶品だ。辛いのが苦手な私でも美味しく食べられるなんて凄すぎ。
だからあの味を再現しようと家でやってみたけど未だに無理。ホームバージニアカレーの市販ルーをベースに何か隠し味があるみたいなんだけど、いつも食べるのに夢中で聞くのを忘れちゃう……これも将来は一緒に暮らすことになるんだし、その時にでも聞けば良いや。
「えと、翔太居ますか……じゃなくて、翔太は……寝てる、よね」
いつもの癖で「居ますか」って聞いてしまう。
時計はまだ七時を少し過ぎた所を指してる、休日のこんな時間じゃ翔太なら寝てるに決まってる。
そもそも良く考えたら、こんな時間に翔太の家に来るのって翔太と知り合ってから初めてかも知れない。なんでだろう今まで気が付かなかった。
「ええ、馬鹿息子ならまだ寝てると思うけど……それよりちょっと、リリィちゃん今良い?」
ちょっとって、何だろう?
それに馬鹿息子?
翔太ママが翔太をそんな風に言うのは初めてだ。
「はい、いい……けど?」
「じゃ、立ち話もなんだから入って」
「えっと、じゃああの、お邪魔……します」
私が頭を少し下げてそう挨拶すると、翔太ママはクスリと笑った。
「あら珍しい、今日はどうしたの?」
「え……何でもない」
「ううん、いいのよ偉い偉い」
いつもは挨拶もせずに入るから、少し改まった態度の私がおかしかったのだろう。
私はまた褒められて、何だか恥ずかしくなってしまって少し俯いた。
だって翔太ママが翔太を馬鹿息子だなんて言うもんだから、少し調子狂ったのだ。
でも翔太ママに褒めて貰うのは嬉しいので、これからはそうしよう。
言われるままに私は相川家のダイニングルームに入った。
慣れ親しんだ相川家の食卓の、いつも自分が使う椅子を引き席に着いた。
使用感のある食卓と椅子は温かみのある木製で、どこの家庭にもありそうな物だ。
だけどうちは安物のコタツテーブルしか無いから、椅子に座れるってだけでも何だかハイソな気分になる。前に住んでいた所では極当たり前だったのに、こんな感覚不思議だ。
すると翔太ママも私の向かいに座って「さっそくだけど」と言って話しを切り出した。
「リリィちゃん、昨日の話……本当にいいの?」
昨日の話って何の話だろうって思ったけど、少し考えたらすぐにわかる、翔太と私の結婚の話だった。
昨日のあのプロポーズの後、翔太は結婚の事「一先ず僕の父さんと母さんに言う」って言ってたから、私たちが帰った後にでも言ったのだろう。
ああそうか、だから馬鹿息子って言ったのか、納得だ。
「うん……あの……そうです、けど……」
「本気? それともリリィちゃんわかって無いの? よりこちゃんともだって知ってる?」
「知ってる、だけど翔太が結婚してくれるって言ったから……」
「言ったからって……」
翔太ママは呆れたように大きなため息を吐いた。
「いい? リリィちゃんが前から翔太の事好きだって知ってたわ。あんな……私が言うのもなんだけど、あんなぶさ……不出来な息子を好きって言ってくれるのは嬉しいわ」
……うぅ、やはり私の気持ちばれてたか。
というか今、不細工って言いかけたよね?
最近よりこのせいで、もしかしたら自分の審美眼がおかしいのかもって思ってたから、再確認出来て良かったけど……。実の母親にまでそんな事言われるだなんて、翔太ぁ……。
「本当、どうしてあんなのが貴女みたいな素敵な子にって思うわ……それはね、凄く嬉しい、本当よ」
「翔太ママ……」
そんな風に言われると胸がじんわり暖かくなるになる。
「……昨日、翔太が私達に『僕は二人と結婚するんだ、絶対に』って言ったの、この間貴女とよりこちゃんが休んだ日の事もあったからまさかと思っていたけど、本当に……」
翔太ママは疲れた様な顔をしてそう言った。
私はそんな翔太ママを見て申し訳ない気持ちになったけど、それと同時に翔太ママの翔太の声真似うめぇって思った。女の人なのに似てるとかマジですげぇ! 流石親子だわ。
「そしたらお父さん怒っちゃって……」
「翔太パパが……」
翔太パパって、翔太と違ってまあるく無い。それどころか結構格好良い。
けど、やっぱり翔太のパパらしく温和で優しそうな人だ。
普段の日曜はいつも家にいるから、今日だっているだろうけど、やっぱり朝早いからかまだ起きてこないみたいだ。
「あの二人って結構頑固な所あるじゃない、だからお父さん最後には手が出ちゃったのね」
「嘘!? 本当に」
「え? ええそうよ、ああ、でも気にしないでいつもの事だから」
「いつもの事?」
「そうよ、といっても最近は無かったかしら、小さい頃からあの子ったら頑固だったから、一度こうだって決めたら聞かなくて……」
私の驚いた様子に意外そうにして、むしろ私の反応の方に驚いたみたいだ。
だけど、直ぐに柔らかな表情を浮かべて私にそう言った。
「翔太が頑固なの知ってたけど、パパもだなんて」
「だって親子なんだから当然じゃない」
翔太のあの変な所で頑固なのはパパ譲りって事ね。
「いつもならそれで収まるんだけど、今回は翔太も意地になっちゃったのか折れなくて……」
「そうなんだ……」
ちょっとショックだった。
あんな優しそうな人が叩くとは思わなかった。
しかも「いつもの」って事は結構そういうのあるんだ……意外だ。
けど叩かれたのに翔太が折れなかった訳だ。
つまり翔太は本気だという証を二人に見せ付けたのだ。だから翔太ママは心配しているのだ。翔太がパパママ二人にどんな風に言ったかは知らないけれど、二人とも結婚するだなんて正気の沙汰じゃないものね。
普通女の子と二股するって宣言したら叩かれて当然……だとは思えないけど、やっぱり仕方の無い事なのかも知れない。
でも、心配そうにしている翔太ママに対して不謹慎だろうけど、昨日あったであろう修羅場に思いを馳せ、結婚というものがいよいよ現実味を帯びてきたように感じられ私は嬉しくなってしまった。
やっぱりそういう苦難あり葛藤ありがそれっぽいよね結婚って、って思う。
凄い、ドラマみたいだわ、とも。
そんな風に思ってしまったので、私はにやけ顔にならないよう顔に力を入れて精一杯耐えた。
えっ、翔太の心配? それからどうなったのか気にならないかですって?
ナイナイ。翔太が自分で決めた事なんだし、翔太に任せておけば万事オッケイ。
……勿論私にだって手伝える事があれば手伝いたいけど、それは翔太が助けを求めてから、下手にちょっかい出して拗れるのも嫌だし、第一そんな事したら翔太に嫌われちゃうかも。
翔太ってそういう所、頑なだし男のプライドってのもあるだろうから余計な事したくない。
……いや~、男に華を持たせるのも良妻の嗜みって言うか~、内助の功ってやつ~?
いや~良いお嫁さんになれるわ、私。
それにしても翔太、私のママにはどう言うんだろう……昨日も話したら滅茶苦茶怒って反対されたけど……私じゃ到底説得出来そうに無いけど……一体翔太はどんな魔法を使うのだろうか。
あ、そういえばママ、私が寝る前誰かに連絡してたわね。
あれってやっぱ店長よね……って今は関係無いか。
「……リリィちゃん。大丈夫?」
「え?」
「だって貴女……」
え、何?
って、あ……
私は自分の顔がニヤニヤしてしまっているのに気付いた。
やべー、いつのまにか表情が崩れてたわ。
堪え切れない嬉しさがそこにあったわ。
「すんません、翔太が叩かれたっていうのに……」
「もう……そうじゃないでしょ、私は貴女の事言ってるの。貴女本気なの? 翔太は本気よ」
その「翔太は本気」という言葉に、私はゾクゾクと背筋に上る歓喜を感じた。
「知ってます」
「ならどうして? それに大体貴方達は子供なんだし、そういうのはまだ早いでしょう」
「……さっきも言ったけど本気です。翔太が本気なら私も本気です。だって、私翔太の事大好きです。結婚したいです。そりゃあよりこがおまけに付いてくるのは嫌だけど、結婚の方が大事です。絶対翔太と結婚します」
「はぁ」と、翔太ママにまたため息を吐かれたけど構うものかと続ける。
「所でよりこにもそれ同じ事言うんですか?」
「それはその……」
「言わ無いの?」
「だって、よりこちゃんってその、ああいう子だから」
「それってつまりよりこはアレって事だからだよね?」
「それは……」
翔太ママはぐっと言葉に詰まった。
「よりこはアレだから言わなくて、私には言うんですか。そんなの不公平じゃ無いですか」
「でもね、リリィちゃん……」
さっきからそれは、とか、でもね、とかばっかりだ。奥歯に物が挟まってる言い方、翔太ママらしいっちゃらしいけど、やっぱりらしくない。普段は優しく気遣ってくれながらも、はっきり言ってくれるのに。
とはいうものの、私には翔太ママの言いたい事が良くわかる。簡単な事だ。誰だってわかるに決まってる。
つまり翔太の事は諦めろって言ってるんだ。二股だから諦めろって言いたいんだ。
「翔太ママ、あのね。私だってこんなの変だってわかってるよ。 ……でも嫌なの、こんな事で翔太の事諦めたく無いの、だからごめんなさい」
私のそんな決意を聞いて、翔太ママは本日何度目だかのため息を吐いた。
「本音を言うとね、私は二人とも大好きよ。本当の娘みたいに思ってる。二人とも小さい頃から見てたから。だからね、貴女達のどちらかが翔太のお嫁さんになってくれればとも思ってたわ。でもね、貴女達には悲しい思いをして欲しく無いの」
そういって私の頭を撫でた。
痛いほど伝わる翔太ママの気持ち。
その飾らない言葉と仕草や表情には、私とよりこに対する思いやりが溢れていて、強い感謝の気持ちととても申し訳ない気持ちで一杯になる。
結局、この話は保留となった。
私は翔太の事諦める訳なかったし、私が知る中で一番の常識人である翔太ママが、息子のこんな二股を容認する訳なかったからである。
ごめんなさい翔太ママ。
だけど、私は翔太と一緒になりたいの。
例えよりこがくっ付いてきたとしても。
しかし同時に「でも」と私は思った。
やっぱりこんな不毛な葛藤は、よりこがいなければ初めから無かったのだ。
今はあんなよりこだけれども、やはり彼女は人間。いつかは冷める時が来るはず。
今まで何度も考えていた事だ、そしてそれはいつか現実の事となるだろう、その時が来れば、今日の事はきっと笑い話になるだろう。
私はいつか来るであろう未来を夢想していた。
大きなお腹を抱えて、にこやかに笑い合う私と翔太、それから翔太ママとパパを入れた四人家族。そこに私のママがいないのは、店長と結婚して幸せに暮らしているって思うからだ。
なんて、そんなありきたりな妄想をしながら、階段を出来るだけ静かに上っていく。
狙っていた時間は過ぎてしまい、もう翔太は起きている可能性はあるけれど、一応眠っていた時の為の予防線だ。
階段を上り終え、忍び足で翔太の部屋の扉の前に着くと、部屋の中からくっちゃらくっちゃらと、食べ物を咀嚼している様な音が聞こえた。
何の音だろうと思い、私は物音を立てずに扉に耳を当てた。
すると、やはりくっちゃらくっちゃらという音と合間に時折聞こえる「んふー」という、誰かの悩ましげな鼻息。
その誰かを、私は直感的によりこだ、と思った。
いや、それ以外いるまい。彼女に決まっている。
何てことだろう、もう既に彼女は翔太の部屋に来てしまっていたのだ。
私は先を越された事を残念に思ったが、仕方ないと思い、そのまま扉を開けた。
部屋に入ると、中に居たのはやはりよりこで、彼女は何故か翔太のゴミ箱をティッシュらしきもので拭きながら、恍惚とした表情で何かを咀嚼していた。
近くにティッシュの入ったゴミ袋が見える。きっと部屋の片付けでもしていたのだろう、いやはや甲斐甲斐しい事で……腹立つわね、奥さんのつもりでいるとでもいうのだろうか。
暫くは私に気付かず、そうやってくっちゃらくっちゃらしていたが、私が「おはよう」と声を掛けると肩をビクリと震わせて、驚いた猫を彷彿する仕草で、目を見開いてはっとこちらを振り向いた。
「え? 何で? え? リリィ……ちゃん?」
何で、とはこちらの台詞だ。
こんな日曜のこんな朝早くに何してんのこいつ。
いや、まあ、それはいい。
よりこの事だ。聞くだけ損だろう。
そんな事より……
「ねえ、何食ってんの?」
「え? 何、って……?」
また、くっちゃらくっちゃらと口を動かすよりこ。
「それよ、それ」
「ああ、これ?」
くっちゃらくっちゃらと音をさせながら、人差し指で自分の頬を指した。
「そう、それ。 ……何食ってんの?」
「えっと……白子?」
「白子?」
「うん、あの……最高級品の」
「最高級品の?」
「そうだよ、最高級品の白子だよ」
何かしら、最高級品の、って言い直す所がちょっと気になる。
「……へえ、凄いわね」
「凄いよ」
「凄いんだ、それって美味しい?」
「うん、なんていうか、美味しいっていうか……その、やばい」
「やばいんだ……」
「うん、やばいくらい美味しい」
「へえ、食べてみたい、どんな味なんだろ……って、あっ……」
恥ずかしい、人の食べてる物欲しがるだなんて意地汚い子だと思われちゃったかな。
「食べた事無いの?」
「う、うん」
けど、よりこはそんな私に対して何も感じた風では無かった。
た、助かった……。
そして未だ口の中の白子をくっちゃらくっちゃらさせながら、不思議そうに言った。
「へえ、勿体無いなあ、でもリリィちゃんならいつでも食べられるでしょ?」
「いつでも? ……無理だよ」
「へ? 何で? 簡単じゃん……」
「……あのね、よりこ、こんな事言うのも何だけど、私ん家はあんたん家と違ってど貧乏な訳、その最高級品の白子? なんて食べられる訳無いでしょ」
「リリィちゃん? 何を言ってるの? 意味がわからないよ……あっ!」
あ?
「だ、だよね? そうだよね……ごめんね、私勘違いしちゃった……食べられる訳無いよね、だって私が毎朝……」
「勘違い? 何それ、腹立つわね、嫌味?」
急に何言ってんのこいつ、やっぱり貧乏馬鹿にしてんの?
やっぱあの作戦いけんじゃね?
「ちがっ、違うよ! そうじゃないの! えっと、とにかくごめんなさい、勘違いしてたの」
「……まあ、いいけど。それはそうと、あんた何してんのこんな朝早くに」
謝ってもいるし、気を取り直して、別に興味の無い事だけれど反射的に聞いてみた。
「何って、樽を磨いてるんだけど」
「樽?」
「そうだよ、職人の朝は早いんだよ」
「職……人? ……樽ってそのゴミ箱の事?」
彼女が手に持っているそれ以外、それらしき物は見当たらないし。
「ゴミ箱? 違うよこれは樽……あ……」
よりこは言いかけるなり、それきり黙ってしまった。
訪れる沈黙。
訳がわからない私は、何かまずい事でも聞いてしまったのだろうかと思い、声を掛けようとしたが、それよりも早くよりこが口を開いた。
「だよね、そう、だよね、ごめんねリリィちゃん。私ちょっと寝ぼけてたみたい(テヘペロ」
軽く握ったコブシを頭にコツンと当て、片目を瞑って舌を小さくだして、恐らくはよりこのいう完璧なテヘペロをした。その仕草は洗練されていて、むかつくのは間違いないが、それでも少しだけ可愛いと思ってしまった。
けど、あれ? こいつ今テヘペロって口で言わなかった?
口に出したら駄目なんじゃなかたっけ……?
こいつこの前それで滅茶苦茶怒ってたのに……。
……いや、今はそんな事考えるのはよそう、どうでもいいわ実際。
それにしてもやっぱり聞くだけ損だった。意味わかんない。
寝ぼけるにしてはちょっと状況が状況だし、変に思わない事も無い。
けれど私はよりこの言う事を鵜呑みにする事にした。
だってこれ以上は薮蛇だと思ったし、彼女には彼女の世界があるのだ。私には到底理解出来ない不思議な世界だ。
それを否定してしまう事は簡単だと思うし、ある意味それは間違いじゃ無いけれど、私はその世界を尊重したいと思う。
だって、彼女と彼女の世界を、翔太は肯定しているからだ。
今までの言動にしろ、昨日のお布団に包まっての遊びにしろ、翔太はそういうのを愛しているのだ。
勿論嫉妬が無いと言えば嘘になる。
しかし、それを否定してしまうという事は、翔太の価値観を、彼が持つ大きな包容力を、春のお日様の様な暖かな愛を否定してしまうのと同じ、そしてその愛情は私にも注がれている。つまりよりこに対する否定は、回りまわって私自身に返ってくるという事だ。
ポカポカした陽だまりにいて、翔太という名のお布団で私がぬくぬく眠っていたのに、よりこが図々しくも無理やり布団の中に入ってきた。でも私は少々窮屈だからといって不用意に転がってお布団から出たりはしない。何故なら直ぐ隣には唯ひたすら広いだけの極寒の雪原しか無いという事実を知っているからだ。そこにはだけど同じ様なお布団が一杯敷いてあって、他の子は寒いからと言って不用意にそこに入っていく、でもそれは私にとっては悲しい事にしか思えない。だってそのお布団の中は冷え切ってるし、例え暖かく見えたとしても実際にはそのお布団の中身は氷の塊なのだ。いずれは心も体も冷え切ってしまう。
いや違う。その子達も自身で気付かずとも冷え切った氷なのだ。だからむしろ間違って翔太のお布団に入ってきた方が大変だ。いずれは自分の正体に気付き、そして彼を憎みながら溶けて消えてしまうのだから……。
そもそも私はよりこを負かしたり傷つけたりしたいのではない、応援したいのだ。だって今のよりこは可哀想だ。きっと今はよりこがどうしてなのかは知らないが自分の正体に気付かないだけなんだ。だから絶対いつかは無理だってなるに決まってる。
それに気付いて欲しい、溶けて無くなってしまう前に。
「……まあいいわ」
「うん」
ほっとした様子のよりこ。
そして口の中の白子をそのまま飲み込んでしまった。
よほど美味しかったのだろう、また恍惚の表情を浮かべて余韻を楽しんでいる。
そういえばえらく長い間噛んでいたものだ。
そんなに白子という食べ物は噛み続ける事が出来るのだろうか。
そこで私は白子をスルメの様な物と想像した。
しかしそれは直ぐに誤りだと気付いた。
スルメじゃそんなに噛んでいられない、となるとガムみたいな物なのか。
ホルモンっていうの? 牛や豚の内臓なんて食べた事無いけど、それは噛んでも噛んでも噛み切れないって翔太が言ってた。
白子は魚の内臓らしいし、似たような物か。
白くってガムみたいな食べ物かぁ……何だろうとても気になる。
「その白子ってさ、私食べた事無いんだけど、それってどんな味」
「えっとね……甘いよ」
「そうなんだ……甘いんだ」
魚の内臓って苦いだけかと思った。
マシュマロみたいな感じかな。
「あっ……えっと、他の白子は知らないけど、この最高級品の白子は甘くてコクがあって美味しいよ」
コク?
テレビのリポーターとかが良く使ってる言葉だけどどういう意味だろう。
言葉の意味は良くわからないけど、とにかく凄そう。
「けど、他の紛い品は苦いとか不味いって聞いた事あるよ」
「へえ、やっぱ高級品は違うのね」
不味いの?
じゃあ高級品意外は食べられないじゃん。
「違うよ『最』高級品だよ、間違えないで」
「う、うん……」
「最」を強調するとこに、よりこの白子に対するこだわりを見た気がするわ。
私も食べてみたい。
そうだ、私の食べてみたい物リストに追加しよう。
目下の目標は、近所にあるスーパー「シェフ川蝉」の精肉棚の上座に置いてある、百グラムが私のバイトの時給より高いセガ牛のステーキを食べる事だったけど、これは優先順位変わるかも。
「あの……さ、それっていくらくらいするものなの?」
「えっ? えと……これは非売品です。プライスレスです」
何故だかよりこは、手元に置いてあったティッシュの入ったゴミ袋をサッと隠した。
相変わらず変わった女だ。
「あっ……そうなんだ……」
しかし私にはそんなよりこの奇行はどうでも良くて、白子が貴重な食材であるという事実にため息をついて、がっくりと項垂れた。
やっぱ最高級品だから簡単には手に入らないんだ。
でも絶対食べてみたい、非売品だから直ぐには無理だろうけど、いつか翔太にお願いして食べさせて貰おう。
私は取り合えずそれで納得する事にした。
そうして、私はよりこのゴミ箱磨きを何となく眺めていたが、少しして、翔太が「うーん」と声を上げて、目覚めの兆しを見せると、よりこはすぐさま作業を中断して翔太に駆け寄った。その様は忠犬を彷彿させた。
よりこは翔太の顔を5センチくらいの距離で凝視していた。目を血走らせながら大きく見開き、しかも瞬きをしていなかったのでかなり怖かった。
それは翔太も同じだったみたいで、目を開けて直ぐ「わっ」と驚いてた。
因みに後日、バイト先で私がふと思い出して「白子ってどんな味ですか、マシュマロみたいなですか」って店長に聞いてみたところ、店長は最初不思議そうにしながらも微笑んでいたのに、私が説明するにつけ何故だか苦虫を噛み潰した様な顔をしてそれ以上は私がどんなに言っても答えてくれなかった。
一体何だというのだろうか、もしかして白子を食べられない私に不憫に思ったのだろうか。
それが恥ずかしくて悔しかったが、それ故他の人に聞くのは何となくだが憚られたので、未だに白子がどんな食材なのか知らない。
今度ママにでも聞いてみようか、いいやそれよりも早速翔太におねだりしてみるのも良いだろう。
因みにコクとは、簡単にいうと弱い苦味や渋みの事を言います。しかしそれは様々な味に混在している場合に限られるそうで、それ単独ではやはり苦味や渋みだそうです。
良くカレーでコクを出す為に、インスタントコーヒーの粉を少量入れますよね。きっとそういう事です。
よりこにとってもそういう事だったのではないでしょうか。まあ、それ以上の考察は憚られますね。色んな意味で。




