第36話 パンドーラーの箱
相川翔太 その12
副副題 僕は貝になりたい
僕は止むを得ず目を覚ました。
物凄く不快な目覚めだ。
寝ぼけ眼で時計を見やると、休日だというのに、いつも起きる時間より30分程早い。
こんな時間に起きてしまったのは、今現在、苛まれている「ある事」が原因だ。
だが、この「ある事」の原因を作り出してしまったのは、恐らく僕なのだ。いや、絶対にそうだろう。
僕のちょっとした出来心というか、同情心から吐いた嘘が、やはり巡り巡って僕に返って来たに過ぎないのだろう。
情けは人の為ならず、とは全く違う。そう、あれは正に天に唾吐く所業だったのだろう。
申し訳なく思うのは、彼女と、その周りの人間だ。
それに比べたら、僕が今現在受けている仕打ちなど、針のほんの一刺しに過ぎないのだから。
「ライカーブリーッジオーバータブゥーワラー♪ アウィーレーィミダーゥ♪」
ぼんやりと見える彼女、よりちゃんは、何故かゴミ箱をウェットティッシュらしきもので拭きながら、馬鹿みたい大口を開けて気持ち良さそうに、だが聞くに堪えない......いや許しがたいほど下手糞な歌を歌っている。
だけど良かった。
昨日は夜遅くまででクタクタだったから、いつものナニをイタシておらず、僕の恥ずかしいティッシュは入っていない。
もし昨日だったらマズかったな。悶々としてゴミ箱一杯になるまでしちゃったから、危ない所だったよ。
……そういえば、僕ってゴミ箱の中身捨てた事無いな。母さんが捨ててくれてるのかな? あー、それって最悪だ。流石に母さん気が付いているよね。でも一言もその事を僕に言わないから大丈夫なのかな? だけどエロ本の事はあんなに怒られたのに......ちょっと不思議だ。
それはさておいて、この下手糞過ぎる上に中途半端な英語っぽさを意識した発音にはかなりイラっとくるものがある。
これって多分、エスアンドジー不朽の名曲「荒ぶるウォーターに架ける橋」だ。
僕達が中学生の時に音楽の時間で習った歌だろう。
……しかし、そうはいってみたものの、本当に「荒ぶるウォーターに架ける橋」なのか? と疑問に思ってしまう。
ニュアンスと直感で得た答えだが自信が無い、それどころかこれが歌と言われるべき存在なのかもあやふやだ。
何故ならば、彼女の紡ぐメロディーラインからは、元の曲が全く想像出来ないのだ。歌詞から何と無く当りを付けたが......。
そうなのだ。それ程に、この歌、よりちゃんの歌は下手だ。
いや、単純に下手というのは間違いかも、言うなればちょっとした兵器だ。もしテロリストの手に渡れば大変な事になるだろう。
……って、言い過ぎだけど、彼女の歌を聴いた人間はきっと僕に賛同してくれるに違いない。
そもそもよりちゃんは昔から音痴だった。
ともかく音痴だった。
改善の余地の無いほど音痴だった。
昔、あれは確か小学三年生の時だったか、学年全員で学芸会で合唱を歌う事になった。
小学三年生と言えば、まだまだ歌の音程が安定していなくて、皆大体下手糞で、そりゃあ中には上手い子もいたけれども、音程が外れていたからって、元気があってハキハキ歌えていれば別段問題無いと言われていた頃だ。
だが、とある音楽の先生が、余りにも音痴で目立ち過ぎる彼女の歌に耐えかねて、申し訳無さそうに「すみません、倉橋さん口バクでお願いします」と言った。大人が小三に敬語でだ。
……これって問題視されるべき発言だと思う、敬語は別として。
皆が楽しく歌えていれば良いとされる小学校低学年の学芸会の合唱において、和を学び、音楽の楽しさを伝道するべき教師自らの戦力外通告。
これってやっぱり大問題だ。
けどそれは先生自身もわかっている事、先生はそう言った直後、自分の教師としての限界を感じたと言って、咽び泣きながらよりちゃんに謝ってたっけ......。
だけど、クラスメートは勿論の事、その他の、僕を含むその場の全員がその先生の懇願を密かにではあるが、心より歓迎し、また同情してしまった。
何故ならば、よりちゃんの歌は皆から恐れられていた。和を乱し、皆の元気を奪い去る魔。よりちゃんの唄う様は、唄うというよりは呪いの呪文を詠唱すると言った方がしっくりくる。そしてそれは音楽の時間の楽しみと呼ばれるものを恐怖に変換せしめ、同学年全員を震え上がらせていた。そういや、余りの恐怖に授業前に吐いちゃう子もいたなぁ。
よりちゃんの歌は、例えば、歌うべき音階が「ド」であるならば、「ファ」そして「ファ」ならば、「レ」そして一度として楽曲と同じ音階にはならない。
それにこれはあくまでも例えであって、恐らくそこに規則性という物は無く、きっと彼女のその時の気分や、全く無意味な直感によって的外れなメロディーを紡いでいるのだろう。
何という音楽に対する挑戦だろう。そしてどれ程に音楽という存在を冒涜しているというのだ。
それはあの世界の洋子さんだって、きっとビックリの難解かつ前衛的で誰からも理解されない音楽だ。
といっても洋子さんは意図的な芸術だけど、よりちゃんのは唯の音痴だから、残念ながら僕はよりちゃんのジョンにはなれないよ......。
え? 言い過ぎだって? 馬鹿言うなよ。よりちゃんの歌は、あの日本一有名な近所のイジメっ子だって裸足で逃げ出すくらいだよ。
それに、もしよりちゃんがこんなに優しくて可愛い女の子ではなく、その彼の様な男であれば、僕ならコテンパンにされるのを覚悟で戦うよ。あんな歌を聴かされるくらいなら、ノビやスネやしずにドラだって戦うに決まってる。
であるので、よりちゃんの酷過ぎる歌は、当然学校の先生にも、児童全員にも知れ渡っていて、それは幼稚園の頃から合唱がある度に問題視されていたらしい、これも先生が泣きながら言ってたっけ............小三にぶっちゃけすぎだよ先生......。
そしてその事に凄いショックを受けた彼女は落ち込んで塞ぎこみ、暫く学校を休んでしまった。
先生の懇願に内心喜んでしまった負い目もあって、見かねてある日僕はついよりちゃんに嘘を吐いてしまった。
それは――
「よりちゃんの歌は少し変わってるけど、上手いと思うし僕は大好きだよ。先生もきっとわかってると思うけど、あんな風に言ったのは、絶対悔しいからに決まってるんだ。周りの皆だってよりちゃんが羨ましくってあんな事言ったんだよ。」
等と言った訳だ。
まったく、今になってみれば何であんな馬鹿な事を言ったのだろうと思うが、その時の僕は後先考えず、自分がどれ程の大罪を犯しているかもわからなかった。きっと可哀相な彼女を慰める自分という物に酔っていたのだろう。
そしてその明らかに嘘っぽくてクサい言葉は、だが彼女に一応の......いいや、これ以上無いってくらい劇的な効果をもたらした。
僕がその嘘を伝え終えると、よりちゃんの表情はみるみる明るくなり、更には何と、嬉し涙まで瞳に湛えて僕にお礼を言ってきたのだ。
僕はそんな彼女の反応に浅はかな自尊心をくすぐられ良い気になると同時に、だがある事に気が付いた。
それは、彼女が僕のそんな拙い嘘を本気で信じてしまっている、という事だ。
当時小学生の僕でさえ、気休めのつもりで言っただけで、まさか本気で信じるとは思ってもいなかった。
それに何度も言うが、彼女の歌は伊達じゃない。聴く者全てを不快にさせる魔の歌だ。
それほどの歌なのだ、だから僕はよりちゃんは自分で自分の歌は下手糞だって当然知ってるって思ってた。知らないはず無いと信じていた。 ……違うなそうじゃない、都合良く過信していたのだ。
だけどよりちゃんは違った。元々自分の歌を何とも思っておらず、むしろ僕が上手いと思い込ませてしまったのだ。
その事に気が付いた僕は愕然とした。
しかし、過ちに気付きはしたものの「明日から学校に行くよー」と両手を万歳にして声高々に宣言する彼女を見て、そしてその彼女を心配していたよりちゃんの父さんと母さんにも涙ながらに感謝をされた後だったので、今更やっぱり違う、とも言えず「だけど先生の言う事は聞いて口ぱくにしようね」という程度の簡単な抑制しか出来なかった。
そんな訳で、歌のせいもあるけれど、僕の体重からくる重さとはまた別の、過去の後悔で重たく感じる体を起こした。
朝から最悪の気分だ。
僕は寝ぼけ眼をこすりながら焦点を合わせると、私服姿のよりちゃんが見えた。
昨日は色々あったし寝起きだったから気にしなかったけど、そういやよりちゃんの私服姿って久しぶりだ。見たのは小学生以来かも。
昨日は白いレースのワンピース、今日はニットのカーディガンに淡いピンクの短めのスカート、そのどちらの服も胸元が強調されていて、それにどちらも太ももが大胆に見えてセクシーで、制服の時より大人っぽく見えた。
「あ......翔ちゃん、おはよー。」
起きた僕に気が付いたよりちゃんは、急に起きた僕に驚いてか数瞬目を大きく見開いてから、だけど直ぐに表情を戻した。そしてあんな無茶苦茶な歌を歌っていたとは思えないほど澄んだ声で僕に挨拶した。
見た目は大人っぽい彼女なのに、いつもの彼女が持ってる能天気な声色で挨拶してくるのがちょっと違和感があって、そういう所が逆に清楚な雰囲気を醸し出してて、何とも可愛く見えてしまう。
「うん、おはよう。」
僕が挨拶を返すと、よりちゃんが「えへへー」と微笑みを返してくれた。
部屋に差し込む朝の光がよりちゃんに当り、彼女だけ周りの景色から縁取られた様に見える、そこだけ別世界から切り抜きされた絵画の様だ。
幸せそうにはにかむ彼女の姿を見て。僕はふと、朝露に濡れる泉の精霊というものを彷彿した。突然で脈絡の無いイメージだけど、今の彼女にピッタリだ。
こんなに幻想的な、といっていいほど美しくて、それでいて可愛いらしくもある彼女が、まさかあんな歌とも言えない物を歌っていたとは、実際その姿を見ていた僕でさえ信じられないくらいだ。
完璧な学校の女王様。氷の女王、クールビューティー、それに最近は聖女だとか女神だとかも聞いたな。
もし、よりちゃん......倉橋よりこの事を知らない人がその異名を聞いたら、厨二だとか漫画みたいだとか馬鹿にするかも知れない、だけど一目彼女を見たら、それは決して言い過ぎでは無いと思い知る事になるだろう。
曲線が美しい、均整の取れた体、出る所は出て引き締まっているべき所は引き締まっている。ウエストなんて僕の太ももより細いかも知れない。背が高いからモデルだって言われても信じるけど、胸が大きいからモデルっていうよりはグラビアアイドルの方がしっくり来る。
髪は腰まで伸ばした濡れ羽色、その美しさに思わず触り心地を確かめたくなる。
そしてその整い過ぎた顔、きっと世の女性は勿論の事、男性だって彼女の顔を見た後で鏡を見れば泣けてくるだろう、ってくらいだ、実際僕もそうだし。
大きくて澄んだ瞳、整った眉、高すぎず低すぎない鼻、唇も艶やかで心奪われるよ。それらが素晴しい調和をもって輝くように存在する。黄金比って言葉あるよね、それはきっとよりちゃんの為に神様か昔の預言者が予め作った言葉なのかもね。グラビアアイドルとかモデルだとかさっきいったけど、こんなに整った顔の女の子をテレビや雑誌、ネットでも見た事無いよ。そりゃあリリィも知っての通り凄く可愛くて綺麗だと思うし、よりちゃんと同じでやっぱりテレビなんかでも見る事が出来ない程だけど、童顔だし、ちょっと方向性が違うからね。リリィは妖精みたいでよりちゃんが女神っていうのはそこら辺の違いじゃないのかな。
だからよりちゃんって子供の頃は人形みたいって苛められていた。といっても実際にはイジメというよりは、よりちゃんの事が好きな男子がちょっかい掛けてただけで、悪意だとかは無かったと思う。
だけど感じやすい小さな子にとっては、あれって立派なイジメだよね。あの時のよりちゃんは見てられなかったよ、もしかしてそのせいで男嫌いになって先輩の事ゴミって言ったのかな。だけどそれなら、まるっきり男な僕の事好きなのはおかしいし、考え過ぎか......。
知的な見た目通り、成績だってとっても良くて聡明だ、それに元々結構明るくて人当たりも良いし、どんな事でも物怖じせずにやってのける度胸も持ち合わせている。
それなのにお高く止まった所が無くて、誰にでも分け隔てなく優しく接して皆の中心みたいな子。
きっと僕以外の人からはそう思われている事だろう。そしてそれは間違いじゃなく本当の事だ。しかしそれはきっとよりちゃんが、あの頼りない女の子が、いつも泣いてた泣き虫が、頑張って、努力して勝ち得た周りの評価なのだ。
でもその実は、ちょっと不思議な考え方を持った繊細で、そしてとっても優しい、そんな普通の女の子だ。
だからもしよりちゃんが自分の歌の事に気付いたらどんな思いをするだろう......想像しただけで胸が掻き毟られる様な気持ちになる。
――そんな事になるくらいなら――
「よりちゃん、お願いがあるんだけど、いいかな?」
「お、お願い!? 翔ちゃんから......……?」
「いや、かな?」
出来れば嫌って言って欲しい。
そんな風に臆してしまう。
「ううんっ! そんな事無いよ! ……だけど翔ちゃんのお願い......ってもしかしてっ!? ……あ、だけど私、シャワーは浴びたけど香油は塗って無いし、それに下着だって......ゴメンね、出来の悪い女で......けど、それでもいいんなら私は構わないから......。」
だが、僕の情けない願いも虚しく、二つ返事で承諾されてしまった。
しかしどうやら見当違いしているようだ。
よりちゃんは茹蛸の様に赤くなり、俯き加減で視線をそらしながらカーディガンをボタンを外している。
……この娘は一体何を勘違いしたのか。
……うん、わかってるよ、ナニと勘違いしたんだよね、知ってるよ、僕だって馬鹿じゃないのだから。
察しの付いた僕はそれを片手で制した。
「えっと......安心してよりちゃん、そういうのじゃ無いから。」
「えっ!!? 違......うの? そんな......。」
よりちゃんは僕の否定を聞くなり、心底がっかりしたような表情をして、だけど不貞腐れながらもカーディガンのボタンを止めていった。
けど、香油って何? あ、それってもしかして王侯貴族的なあれですか? つまりはエマニエル的な淫靡で恥美な感じのやつですよね? よりちゃんって意外にそういうのなんだね、知らなかった。
でもね、こんな僕にそんな嬉しい事言ってくれるのはありがたいけど、性急過ぎるし一応僕だってそういうのはムードとか気にしたいので......それに......リリィの事もあるし......そういうのは色々決着してからでも遅くは無いと思うんだ。
「あの、よりちゃんにお願いっていうのはね。その、さっき歌ってた歌の事なんだよ。」
「私の歌? あ、もしかしてうるさかった? だから翔ちゃん起きちゃったの?」
よりちゃんは「やっぱり」とでもいうように口に手を当てて驚いた仕草をした。
僕としては「うるさい」っていうより「もうお願いですから止めて下さい」って感じだけどね。
「ううん、違うよ。そうじゃないよ、逆だよ。すっごく上手いからビックリしちゃって目が覚めたんだ。よりちゃんって相変わらずウマイヨネー、練習してるの?」
ああ、僕今嘘吐いちゃってるよぉ......。
「え? そ、そう? フッ、フヒ、フヒヒッ、そぉ? そうかな~、な、なら良かったよ、けど練習は......してないよ。さ、才能だけですよ。フヒッ。」
褒められて余程嬉しいのだろう。何とか照れを隠そうとしているが、完全に失敗に終わっている。
よりちゃんは上唇を上げそして下唇も突き出し、いわゆるアヒル口をして――だが全体的に表情が崩れているから全く可愛くない――今まで僕には見せた事の無い照れ方をした。
「ま、まあ? 私くらいになってくると? 練習なんていう才能のない子の悪足掻きなんてしないから、ね。け、けどぉ、私の唯一の特技だしぃ?」
益々顔を赤らめて、尚且つグズグズに表情を崩して照れまくるよりちゃん。もう照れを隠すのを止めたようだ。
お願いだからそんなに喜ばないでよりちゃん、嘘なんだから、罪悪感でどうにかなりそうだよ。
……というより、ちょっとは謙遜してよ。
それに唯一の特技ってなんだよ、唯一の欠点の間違いでしょ? どんだけ自分の歌に自信持ってるんだよ。喉自慢なんてレベルじゃないよ!
そうだ、もし、よりちゃんが仮に喉自慢大会に出たら、採点の鐘のおじさんがマジギレして鐘投げつけてくるに決まってるよ。それどころか聴いてる観客も怒りで我を忘れて大暴動起こすだろう、ほのぼのしたお昼のコンサート会場は一転、血を血で洗う修羅地獄になる事疑いないよ。
普段は自分の才能を鼻に掛ける事なんて全くしないのに、何でこんな時だけそんな傲慢なんだよっ、おかしいだろ常識的に考えて......って、あ、クラスメートのJK君(あだ名)の口癖うつっちゃったよ。
「……そう、なんだ。 ……凄いやよりちゃん......。」
「しょ、翔ちゃん......! も、もう! 止めてよー、嬉しくって溶けちゃうよぅ。そんなによりちゃんを喜ばせてせてどうする気ぃ?」
いや、別にどうもしませんよ。
よりちゃんは更にその表情のまま両手を頬に当てて、座ったままの姿勢で体をクネクネさせた。
よりちゃん......。
「だからこそだよ、よりちゃん。だからお願いっていうのはね......その......。」
ここまで言った所で僕は不意に、言葉を続ける事が出来なくなってしまった。
言わなくちゃいけないのに、口が上手く動かない。
だって......僕は今からよりちゃんの......。
よりちゃんは感情の波が一段落したのか、一応落ち着いて、そしてニコニコと能天気な顔でこちらを見つめて僕の次の言葉を待っている。
正直いってその姿が、さっきの会話で馬鹿みたいに見えない事も無いけれど、それでもやっぱり美しい。
完璧で皆に憧れられる女の子、僕の知ってる不思議でちょっと間の抜けた女の子。よりちゃんはそんな相反する二つのイメージを違和感無く併せ持ってる。
こんな彼女を可愛いと思う、愛おしいと思う。
僕のこの、ぶよぶよと太って醜くて、太いわりに頼りないかも知れない腕で、それでも遮二無二この身に抱き寄せて、ゲームの主人公がヒロインを守るみたいに、世の全ての嫌な事から守ってあげたい、そんな衝動に駆られる。
この身を挺して彼女の為にしてあげられる事があるならば、それは何て素敵でやりがいのある事なのだろう。そして正に、今その時だ。
僕は躊躇なんてしない、しちゃ駄目なんだ。
「だから......その......僕の前以外では歌わないで欲しいんだ。」
ついに言った、言えた。
「そんな、もしかして......翔ちゃん......それ、って......?」
「そうだよ、えっと......独占欲って奴だよ。僕の大好きな女の子のこんな凄い歌、他の奴に聴かせたく無いんだ。」
「あ、あぁ......。」
僕の告白を聞くなりよりちゃんはベッドから身を起こしたままの僕に縋りついた。
よりちゃんの顔が当る僕のお腹が、パジャマ越しにじっとり湿ってきている。そして見る見るうちにグッショリと濡れてしまった。
どうやらよりちゃんは、僕の言ったクサイ台詞が嬉しかったのだろう、声も出さずに泣いているようだ。
もしこれがもっとドラマチックな事なら凄く良かったのに、よりにもよって、よりちゃんの歌の事とは......僕も泣きたくなってきちゃったよ。
でも、これで、よりちゃんの、歌とも云えない歌の犠牲者はいなくなった。そう、僕以外には。
だけど仕方が無いのだ。
だってこれは僕の罪。無責任な言葉で決して開けてはいけないパンドラの箱を開けたのは僕。そして、最愛の彼女にしてあげられる、最大の愛情行為でもある。
これできっと彼女が傷付く事は無い。
そうだ......喜ぶべきなのだ。
よりちゃんは暫くそうやって泣いていた。
それから「もう大丈夫」と言って目を擦りながら、素晴しい笑顔を僕に見せてくれた。 その仕草や表情はまるで大輪が花開くが如く輝いている。
そうだ、良かったのだ、これで......。
「ねえ、よりちゃん、もしかしてそれって他の人の前でも歌うの?」
「うん......。」
「そうなんだ......友達とか?」
「うん、友達とはカラオケで一回だけ......後、昨日夜に祐ちゃんに聴かれた。」
祐ちゃん......よりちゃんの弟の祐一君の事だな。深夜にあの歌はパンチが効いてるよね、彼にとっては聴いたというより、聴かされただろうけど、やっぱり驚いて目が覚めちゃったのかな? 普段は温和で姉思いの彼だけど、きっと怒り狂ったに違いないよ。
それにその友達も災難だったな、一回だけって事らしいから、やっぱり嫌になっちゃってそれきりってところだろう。
「そうか、でもこれからは......。」
偶に......。
「うん、わかってるよ......よりちゃん毎朝翔ちゃんの為だけに歌うよ。」
「えっ!?」
「へ?」
毎朝!?
「いや......それは、流石に悪いし。」
それはほんと、勘弁して下さい。
「大丈夫だよ。」
「いや、けど......。」
「もー、やだー翔ちゃん、今更遠慮? さっきまで独占したいって言ってたのが嘘みたいだよー。」
うん、嘘なんだけども。
でも歌以外は本当だよ。
「だけど、毎朝だったら大変だろうし......。」
「そう? 平気だよ。毎朝どころか昼も夜も、いつだってオッケーですよ?」
いや、それはマズイッ!
あんな歌を毎朝どころか四六時中だなんて......僕死んじゃうよぅ......。
「そ、そっかぁ~、じゃあ! 朝だけお願いしよう......かな? それ以外はいいからね? いやほんと。」
最大の妥協、譲歩だ。これ以上は実際無理っ......!
「けど、翔ちゃん私は......。」
ぐっ、食い下がるなよりちゃん。
「いいからっ、ね? だって折角のよりちゃんの歌がいつも聴けるなんて、そんな幸せあっちゃいけないよ、幸せ過ぎて溶けちゃうよ。そうなったらさ、きっと僕駄目になっちゃうと思うんだ、だからさ。」
「翔ちゃん......!」
よりちゃんは僕の無茶苦茶な屁理屈に不信を抱くどころか、感極まって嬉し涙を浮かべた。
僕は罪悪感をチクチクと感じながらも、それを了承と受け取り、ホッと人心地が付いた。
「もう......翔ちゃんったらぁ、翔ちゃんに掛かれば、私、泣き虫さんだよぉ。」
うん。
確かに。
実際泣きすぎだよ、よりちゃん。
「あ、でも少しでもしんどかったり気が乗らなかったり、眠かったり、ちょっとでも調子悪かったりしたら別にいいからね。」
「翔ちゃん......心配してくれるのね、ありがとう。だけど、平気だよ?」
「そ、そう? ……で、でもっ、女の子なんだからさ、無理しなくていいからさっ、ね? だからさ、そうだ、気が向いた時だけで良いからね? こう......何ていうか、やっぱり歌には気持ちがこもって無いといけないよね?」
「うーん、それならよりちゃんさんは常に100パーセントですよ? 翔ちゃんさっきの聞いてくれた? 自分でいうのも何だけど、魂こもってたでしょ? アートさん降りて来てたよね?」
降りてきてないから、エスアンドジーのジーの方のアートさん降りてきて無いから、よしんば降りてきても、あんなの聴いたらアートさん成仏出来ないから。
ていうかまだ全然生きてるし。
「ねえ、よりちゃん。やっぱりあれって『荒ぶるウォーターに架ける橋』なの?」
「うん、そうだよー、中学校の時に習ったの、懐かしいでしょー、えへへ。」
……やはりそうだったか、僕の直感は正しかったようだ。
だからといっても、全く意味の無い事だけど、この難解なクイズの答えを直感で導き出した僕自身に表彰状を送りたい気分だ。
「凄いやよりちゃん、確かあの曲って、習っただけで歌う授業とかなかったはずでしょ、なのに歌詞を覚えているだなんて頭良いんだね。」
「えへへぇー、褒められちゃったぁ。」
そうなんだよな......歌詞はきっと完璧に覚えてるんだよな歌詞は。そこだけは凄いや。
「じゃあ、ね、今日は二人でカラ......フタカラしに行こうか?」
言い直す所がミソだな......って。
「えっ!?」
「うん、いこ?」
「あの......。」
「えっとね......駅前のビックリ山彦が開くまでまだまだ時間あるから、先ずはご飯を食べて、それから......。」
マズイッ、マズイよっ!
よりちゃんとデートは嬉しいけど、カラオケは駄目だよ、僕死んじゃうよ。
アカペラでもあの威力なのに、マイク&エコーだなんて......未知数過ぎるよ。
パンドラの匣に最後に残ったエルピスって希望の事なんでしょ? 何で絶望なんだよっ! 治、出て来いよっ!
……あ、そういえばそのカラオケを一緒に行った友達はどうなったのかな? さっきさらっと流したけど、噂が広まっていない所を見ると、きっとその子の胸の奥に仕舞われたのだろう。
よりちゃんの友達の子......きっといつもよりちゃんと一緒に居る子だよね......名前も知らないけど、何て良い子なんだ。明るくてお喋りな感じでキツそうな子だったから、あんまり良い印象は無かったけど、人は見かけに寄らないんだね。
「よりちゃん、ね? 映画にしよう? それともショッピングとかどう? 付き合うよ。」
「え~、それでもいいけど......折角だし......よりちゃんカラオケ行きたいの、駄目? それとも何かいけない理由でもあるの?」
「え、それは......。」
あぁ、何だってよりちゃんはこんな時だけそんな答えづらい事言うの?
ああ言った手前、今更嫌だとは言えないよ。
「翔ちゃん?」
言葉に詰まった僕を不審がるよりちゃん。
「……わかった、行こう。だけど、その前に母さんに最後の挨拶だけしたいから、良いかな?」
「うん。 ……最後の挨拶? ……良くわかんないけど良いよ。」
よりちゃん、僕はもう覚悟を決めたよ、もう逃げも隠れもしない。
それに言い訳だってもうしない。
だけど......敢えて一言だけ言わせてもらえるならば、僕は貝になりたいよ。
よりちゃんの歌が聞こえない深い海の底で静かに眠っていたいよ。
まるで自分の葬式の準備をするかのような気持ちになりながら、僕は着替えると言ってよりちゃんを追い出す為に、彼女を立ち上がらせて部屋の外まで嫌がる彼女を無理矢理押していく。
着替えを手伝うと主張する彼女を説得する事は不可能だ、昨日の朝、散々思い知らされた。
僕は無言で部屋の外までよりちゃんを押し出した。
「じゃ、待っててね。直ぐに着替えるから。」
「うん......翔ちゃん、やっぱり私着替えを......。」
「…………駄目だよ。じゃなきゃ行かないからね。」
「っ!? わかった......よ。」
よりちゃんはやっと諦めてくれた。
僕としては、むしろカラオケの方を許してくれたなら、着替えくらい見られてもいいのだけれども。
「ねえ、何処行くの?」
「どこって......カラオケだよ?」
「ふーん、私は?」
「いや、リリィは駄目だよ。行かせる訳にはいかないよ。これは僕の......。」
は?
よりちゃんの背後から、何故だかリリィの声が聞こえる。
「リリィ、どうしてここに居るの?」
「リリィちゃん!?」
よりちゃんは振り返り、リリィの姿を認めて驚いている。
よりちゃんの肩越しに見えるのは、やっぱりリリィだ。
リリィは何故だか腕を組んで立っていて、そしてこれまた何故だか僕とよりちゃんを半目で不機嫌そうに交互に見ている。
リリィ、一体どうして――?
やっと更新。
それにしてもきょうびの中学生や小学生は、学校の授業でサイモン&ガーファンクルのサウンドオブサイレンスとか習っちゃうんですよね。きっと明日に架ける橋も習う学校あるんでしょうね。羨ましいです。
といって、振り返ってみれば、自分が中学生の時はカーペンターズのイエスタデイワンスモアなんか習っちゃってました。つまり何を教えるかは先生の趣味なんですよね。
けど、自分的にはサイモン&ガーファンクルの方が良かったです。スカボローフェアとか習う事が出来れば良かったのですが……かの名曲にであったのは成人して5年以上の月日が流れたある日でした。最初はビョークが映画ダンサーインザダークで歌ってたマイフェイバリットシング? (サウンドオブミュージック)でしたっけ、かを探してたのですが何故だか行き当たったのがスカボローフェアだったのです。
まあ、それはさておいて、名曲に出会うのはやはり時の運が大きいのでしょう。
私が学生の頃はCDのジャケ買いとかして漁ってたのに、碌な音楽に出会いませんでしたよ、全く……ままならねぇ……




