第30話 昭和ロマン
リリィ・アンダーソン その9
更新速度が遅いのは、きっと多分、ノッチの陰謀だと思うよ。
放課後。
長く退屈な授業から開放された生徒達が賑わう教室。
私が帰り支度をしていると、よりこが教室に入って来た。
もう本当にサッカー部へは行かないつもりなのだろう。彼女も帰り支度を済ませている。
よりこは私の、そして翔太の席を見た後、キョロキョロと辺りを見渡した。翔太を探しているのか、しかし翔太はもう既に教室には居なかった。
「リリィちゃん、翔ちゃんは?」
「わかんない。もう先に帰っちゃったのかな。気付いたらもう居なかった......。」
私も周りを見渡すけれど、やはり翔太はもう教室には居なかった。
……あの目立つ巨体が席を立つのを見逃すなんて、私も相当にダメージを受けている様だ。
「そう......じゃあ、私も帰るね......。」
私の言葉を聞くと、よりこは目に見える位、肩を落としてトボトボと教室を去って行った。
何だか可哀相だ。
だけど、私も早くバイトに行かなければならないので、そんな彼女を追い越して足早に校門に向かう。
彼女の背を追い越す際、私は彼女へ振り向き「お弁当宜しく」と言うと、よりこは元気が無い事を隠す事も無く「うん、わかった」とぎこちない作り笑いを浮かべた。
あの無理した様な笑顔は、厚かましい私への物だったのか、それとも翔太が何も言わずに一人で帰ってしまった事へなのかはわからない。それとも両方なのかも知れないけど。
バイトへは家に帰らず直接向かう。
毎日の事だけれど、いつもいつも気が思い。
というのも、バイトの人間関係が良好とは云えないからだ。
しょっちゅう失敗する私。お皿を割ったり、注文を聞き違える事なんて日常茶飯事だ。
だからそんな私は、実はとっくにクビになっていてもおかしくないらしい、でも、店長に気に入られているから、クビにならないだけ......だそうだ。
そんな事をロッカーで話しているのをこの間立ち聞きしてしまった。
バイトのお局様、とその付き人みたいな人だ。この二人はいつも私の事を悪く言う、それに追従して他の皆も一緒になって言うんだけど、それでも私は店長のお気に入りだかららしくて、店長にばれるのを恐れてか、その事について直接言われた事は無い。
だけどそんなの大体空気で判るし、そもそも私だけいつも孤立している様な感じだ。
だからそんな嫌な事ばかり考えて向かう道のりはとても気が思い。
でも、今日は違う。
確かにバイトに行くのは嫌だけど、でも思い浮かべるのは今日起こった事ばかり。
――今日の学校は最悪だった。
けれど何が最悪だったかを、一言にする事は出来ない。
順を追って整理していかなければ駄目だろう。
先ず始めに挙げるとするならば、それは人前でディープキスしてしまった事だろうか。
……何故ディープキスしてしまったのか。話の持って行き方もかなり強引だったし、普段の私らしからぬ行動だった。
だけどそうしてしまったのには訳がある。
それはつまり私と翔太の事を内外へ見せ付ける為だった。
もう色々とあり過ぎて、一筋縄ではいかない様な状況にある私達。押しの強過ぎるよりこに対して打つ手の無い、八方塞がりな私。それを打開するにはもうこれしか無い......と、その時は思った。
……でもいくら何でもやり過ぎた。何故ディープキスなのか、軽いキスだけでは駄目だったのか......。
場の空気に毒されて、思考が濁りあんな事をしてしまうなんて......今夜はきっと布団の中で、わああああぁってなるに決まってる。今日眠れるのか私?
それにあんな所、クラスの皆に見せるなんて......普段清楚で大人しい深窓のお嬢様的キャラの私が、何をトチ狂ってあんな大胆な事をしてしまったのか......。
絶対皆に、アンダーソンは淫乱キャラだって思われたに決まってるっ! 皆優しいから口に出さないけれど、私の事、淫乱ピンクならぬ淫乱ゴールドだって思ったに決まってるよっ!
……もう、お嫁に行けない! もう本当に翔太にお嫁に貰ってもらうしか無い、じゃなきゃとんだ変態だ。
そして次に、翔太の事だ。
いくら私が焦っていたからと云っても、あんな風に「二股してる」とか言うなんて......今日だって女装の事も許してくれた、そんな優しい彼に対してするべき事では無かった。もう少し翔太の事を考えてあげれば良かった。そうすれば、北澤先輩にあんな事言われなくて済んだかもしれないのに......。
あんなに落ち込んだ翔太初めて見た。本当に、翔太と出会ってから今までで初めての事だ。
いつも私の事元気付けてくれる彼、だから「いつかは私も」って思ってた。
でも、翔太に励まされるだけが当たり前という事に慣れ過ぎて、彼に甘えるだけが当然という状態に慣れ過ぎて、だからいざそうなると、彼を慰める方法が思いつかなくって、自分が原因の事でもあるし、何と言えば良いのか判らず、声を掛ける事も出来なかった。
確かに二股はいけない事だ。人としてやってはいけない事だと思う。そもそも相手の人に対して失礼だし、それに翔太が自分以外の女の子と付き合うなんて、キスする何て嫌過ぎる。
昨日と今日の、よりことのキス......見ているだけで悲しかった......いいえ嘘、見れなかった。
その時私は周りにわからない様に視線を逸らして見ない様にしていた。そんなのだって仕方がない、翔太がキスする所を見るなんて辛過ぎる、心が痛すぎるよ。
だけどそれは真実翔太が望んでいる事では無い。どうしようも無い状況で、なし崩し的に決まってしまった事だ。翔太は最初、二人とは付き合わないって言ってたんだもん。よりこと......私、どちらも好きだからって......。
いや、そんなの詭弁かもしれない......。二人とも好きだなんて、唯の優柔不断だし。
だからやっぱり二股する男が悪く無いなんて事、有り得ないのかもしれない......。
――でも、私には翔太の事を悪く思うなんて出来ないよ。
あんなに優しい彼。今まで私の事を一生懸命支えてくれた彼。私が辛い時や悲しい時に駆けつけてくれた彼。
そんな翔太の事、仮にどんなに私が自分に嘘をついて嫌いになろうとしても、絶対に嫌いになんてなれないよ。
だから例えば、世界中の人間が翔太の事を悪いって思ったとしても、何があっても私だけは味方だ。
それにもしそうなったら翔太と支え合いながら、時に迫害を受けて、時に罵られ、お互いの傷を舐めあいながら、都会のドブ川の縁に建っている古く汚くて狭いアパートで、身を寄せ合って二人で、二人だけで生きて行こう。
……そして声が外に漏れるといけないから真夏の暑い日にも窓を閉め切って、扇風機だけを涼みに一つだけのお布団で、二人は汗だくになりながら互いを溶かす様に......っていう妄想をわりと良くする。
……いやぁ~、そういうのって昭和ロマンよねぇ~、憧れちゃうな~。
ああ、輝かしきかな70年代イイワーサイコウダワー。
所でさっき、私は焦っていたと言ったけれど、一体何をそんなに焦っていたのかというと、実は昨日の夜の事だ。
昨日の夜、私がママに翔太と付き合う事になったと言うと、ママはそれはそれはとても喜んでくれた。でも次に、倉橋よりこって女の子も一緒だって言うと、朗らかな表情を一変させて鬼の様な表情で物凄く怒った。普段大らかなママからは想像も出来ない位の怒りっぷりだった。
……それは怒るのは当たり前だけれど、それに私の事心配して怒ってくれているのはわかっているけど、でも『翔太君の事見損なった』とか『別れなさい』とか、あまつさえ『見かけによらず最低な男ね、買いかぶっていたわ』とかいうんだもの......。
だからついカッとなって大喧嘩しちゃったんだ。
何時間にも渡る口喧嘩の末、ついにママに翔太は悪くないって無理矢理認めさせたけど、だけどやっぱり付き合うには条件を出して来た。
――それはつまり、二股なんていい加減な物じゃ無くて、私だけと付き合う事。更に正式に結婚を前提としたお付き合いじゃ無いとママは認めないっていう条件だ。
だから私は何としてでも翔太とよりこの関係を終わらせて、私と翔太が正式に、真っ当に付き合っているってママに証明しなくちゃいけない......。
翔太とこのまま付き合うには、現状をどうにかしないといけないんだ......。
でも一体どうすればいいの?
教えてよ翔太。
気が付けばバイト先のファミリーレストランの裏口にまで辿り着いていた。
私は気持ちを切り替える為に頭をブンブン振り、嫌な気持ちを取り払う。
がちゃりとドアノブを回して店内に入る。この時間帯はいつも私の様なアルバイトの為に鍵を掛けていないので、難なく中に入れる。
そしてそのままロッカールームに向かい、入り口の傍に備え付けてあるタイムレコーダーをがちゃんとした。
それから着替えの前に用があるので、着替えずに事務所へと向かう。
道すがらバイトの先輩とすれ違ったので挨拶をしたが、返事は返ってこなかった。やはり嫌われている様だ。
所で用というのは何なのかと云うと、それはこの店の店長に挨拶に行く事だ。
……いや、普通のアルバイトの子は挨拶に行く必要は無いのだが、私にはそうしなければいけない理由があるのだ。
その理由とは、実は私は口利き、つまりコネで働かせて貰っているという事だ。それで何のコネかというと、この店の店長はママの大学時代の後輩らしい。
なので「バイトがある日は挨拶に行きなさい」ってママに言われている。
私のバイト先が中々見つからず困っている所に、尚且つ心配性のママが安心出来る所でアルバイトという事で、ママが店長に相談して今のバイト先となった。
――だけど、ママには悪いけれど安心なんて全然出来ないよ。だって、ここの店長ロリコンだよ!?
……いや、でもそんな噂聞いた事無いけれど。
……だけどあの年で未だ独身だし、それにあの目......私を見つめるあの目だ。
愛娘を見るかの如く愛しむ様な、それでいて情熱的に恋焦がれる様な目。
まるで私を、結ばれる事が無かった昔の想い人を見る様な目で見てくる。
「失礼します。」
事務室のドアを開けると、店長は机に噛り付いてパソコンとにらめっこしていた。
「お疲れ様です店長。今日も宜しくお願いします。」
「あ、リリィちゃんご苦労様。今日も頑張ってね。」
店長はこちらに気付いて振り向き、にこやかにそう言った。
やっぱり店長はイケメンだ。
背はあんまり大きく無いけれど、年齢に合わない若々しい顔。もう40代なのに、知らなければまだ20代前半だって思ってしまう。それに飲食店の店長の癖に無精髭を生やしているけれど、でも不思議と不潔感を抱かせないワイルドな顔立ちで、彼を目当てにこの店に食べに来ている女性も多いと聞く。そして前も云ったがバイトの子、特に女性からの人気は絶大だ。
だから私がどんなドジや失敗をしても、この店長の口利きだという事で周りに大目に見られている所もある。 ……その代わり嫉妬の対象にもなっているけれど。
……そんなイケメンな店長のにこやかな顔。
爽やかな笑顔だ、翔太が居なければ私も、もしかしたらこの笑顔にヤラレテいたかも知れない......。
だがやはり「あの目」をしている。
その目をしている限り私は貴方を信用する事など出来ないの。
「はい、じゃあ私は着替えに行きますんで......。」
私はそう言って早々に退出しようとした。
「あ......待って。ちょっと話があるんだけど......。」
だけど店長は何かを思い出した様に私を呼び止めた。
私はいぶかしむ気持ちを顔に隠しもしないで、その呼び止めに答え歩を止めた。
話? 何だろう。今まで挨拶をして呼び止められた事が無かったのに、何で今日に限って......。
――はっ! まさか!?
もしかして「ここ」で口説こうというのこのロリコン店長!?
そして、いたいけな、こんな青過ぎる未成熟な蕾を強引にこじ開けて、その花を無理矢理散らそうというの!?
何て......何て酷い事を......この人でなし! 人でなし店長!!!
早くこの事務所から立ち去らなければ取り返しのつかない事になる。
そう思い、私は自分の肩を抱きしめてドアの方へと後ずさる。
「あ、あのリリィちゃん? 何をそんなに......。」
「え? い、いえ、何でもありません。」
だけど、私のその行動に驚く店長。
え? 違うの?
散らさないの? 私の勘違い? ならいいんだけど......。
何も含む所の無さそうなその店長の表情に、私は警戒を解いた。
「そう、大丈夫? それで話っていうのは昨日、雪絵さんから聞いたんだけど......。」
――雪絵、ユキエ・アンダーソン。つまり私のママの名前だ。
うん? 何でここでママの名前が?
「リリィちゃん彼氏が出来たんだってね。おめでとう。」
「は、はぁ......ありがとうございます。」
何故そんな事をママから聞いたの? そんな事聞いてどうするつもりなの?
「うん、それは喜ばしい事なんだけど、その......こんな事私から言うのも何だと思うかもしれないけど、あの、その付き合ってる彼が二股してるって聞いたんだけど、それって本当かい?」
「え?」
ママ!? そんな事までこいつに言っちゃったの?
「いや、本当。こんな事私が言うのはお門違いだってわかってるんだけど、昨日の夜遅くに雪絵さんから電話があってね。」
夜遅くに電話......? あの喧嘩の後よね。私はあの大喧嘩の後、疲れて寝てしまっていたから分からなかったけど、ママったらどうしてそんな夜遅くにこんな奴の所に電話なんてしたの?
「普段なら彼女あんな時間には掛けてこないんだけど、それはもう心配していたから、私も気になってしまって......それでどうなんだい?」
ママが心配していたから? だからそんなプライベートな事聞くの?
「……そんなの関係無いじゃないですか。私が誰と付き合っていたって店長には関係無いですよね。」
「いや、関係無い訳では無いけども......。」
どういう意味? それってつまり私の事を狙ってるからって事?
「関係無い訳では無いってどういう意味ですか?」
そんな不安から、やぶ蛇だとは知りつつも聞いてみた。
「それはその......。」
そう言って黙り込んでしまった店長。
急に、事務所に静寂が訪れた。
時計のカチカチという音と、ドアの向こうからはお店の喧騒が遠く聞こえる。
どれくらいそうしていたのか。元より私は質問した側なので、こちらから声を発するのはどうかと思うし、それに何と無く店長の態度が気になってしまい。答えを促したく無い様なそんな不思議な気持ちになってしまっていた。
「そうか......雪絵さんからは何も聞いていないんだね?」
漸く話し出した店長。とても長く感じた静寂は、実はそんなでも無くて。でも少なくとも5分くらいはそうしていた様に思う。
「ママから? いいえ、聞いてませんけど......。」
「そうか......じゃあ、まだ時期じゃないって思ってるのかもしれないな。」
「時期?」
「ああ、きっとリリィちゃんの事を思っての事だと思うけど......。」
「私の事を思って? どういう事ですか?」
もしかして......こいつに嫁げとか、そういう話じゃ無いよね?
「……そうだね。ここまで言ったんだから言わないといけないね。雪絵さんには悪いけど......。」
店長は咳払いをして、佇まいを直し、改めて私の方を向いた。真剣な目をしている。
「実は、私は、いや俺は......。」
「はい。」
「その何と言うか、何と言うべきか......。」
「はい?」
何? 年甲斐も無く顔なんか赤くしちゃって、キモいんですけど。
ていうか、もう何でもいいから早く言え。長い、どんだけ引っ張るんだよ。
「今、雪絵さんと結婚を前提にお付き合いをさせて貰っているんだ。」
「は?」
――そんなの初耳なんですが?
英語でリリィ(Lily)は百合。或いは清純、純白等の意味があります。
リリィママは意外とお堅い人なので、そういう感じでこの名前を付けたのですが、その娘は学校で公開ディープキス......知らぬが仏と申します。この場合も教えない方が吉と出るでしょう。もし知ったら卒倒するかもです。
後、店の名前は「町のお食事処 和風ファミリーレストラン クリーパー匠」という名前......にしたかったのですが、こうなるとクリーパー(爬虫類、這いずるもの)が意味不明ですので、却下しました。
なので、名前を付ける事に特に意味はありませんが、このレストランの名前は「匠」というローカルチェーン店です。和風レストランでもありません。
良しなにどうぞ。




