第28話 心技体
倉橋よりこ その10
「変......態?」
北澤の言葉に強い衝撃を受けた翔ちゃんの声。
「そう、変態じゃないか! ……いや、こんな事は言いたくは無かったけど、でも正直どうかと思うよ。」
苦虫を噛み潰した様な顔をしている北澤、本当に言いたく無かったんだろう事はわかるけど、でも翔ちゃんにそんな事言うなんて許せない!
「おい! 北澤! お前今何て言った?」
今まで我慢していたけれど、今回は駄目だ。
「倉橋さん?」
「倉橋さん? じゃねーよ。今何て言ったのか聞いてんだよっ!」
「いや......その、あの、倉橋......さん?」
「よりちゃん!?」
私の強い声に驚いた翔ちゃんと北澤。リリィちゃんも目を剥いて驚いている。
「お前翔ちゃんに『変態』って言ったのか!? あ? そう言ったんだろ!?」
「あ、ああ。」
怯む北澤。
「翔ちゃんが変態とかねーし、ありえねーし、そんな事いうとか、お前脳みそ腐ってんじゃないのっ!?」
「腐って......いやいやいやっ!! だって変態だろ!? 普通は誰でもそう思うだろ!?」
「はあ? 何でよ? どこが変態だっていうのよ!?」」
「え? どこがって......だから、男が女の子のかっ......」
「わーっ!!!」
――突然、リリィちゃんの張り上げた大声が、北澤の声を遮って彼女と同じ様に黙って聞いているだけだった教室に響いた。
「急にどうしたのリリィちゃん?」
「リリィ? 突然何?」
「えと......あの......えと、その......何でも無い。」
そう言ったきり黙り俯いてしまったリリィちゃん。
「いや何かあるんでしょ!? 言ってみなよ。」
翔ちゃんが促すけれど、頑として首を横に振るだけで何も喋らない。
……さっきから何? いや、別に北澤の声を遮るのは良いんだけど......何か引っ掛かる。
北澤の声を唐突も無く遮り、そして黙り込む......もしかして。
「ねぇ、リリィちゃん......何か......隠してる?」
私が言うと、リリィちゃんの肩が誰にでもわかるくらい大きくビクッと震えた。
「リリィ、何か......隠してるの?」
それを見た翔ちゃんの穏やかな声に、今度はやはり俯きながらプルプルと震えだした。
……ビンゴだ、やっぱり何か隠してる。
でもリリィちゃん......一体何を隠しているの? 北澤の言いかけた事?――そういやあいつ、何て言いかけたっけ......確か「男が女の子のかっ」って言ってたよね。
話の流れからして北澤は「男が女の子の格好するのはおかしい」みたいな事を言いかけたのかな?
……それって翔ちゃんがしてるアニメキャラのコスプレの事だよね?
「君ら......いい加減にしろよっ。さっきから何だよ!」
北澤の苛立った少し大きめの声。
何調子こいて大声出してるんだ? 翔ちゃんがビックリしてるだろ!? 全く生ゴミって奴は何しても胸がむかむかするよ。
私が強く睨むと、また「う」と眉をハの字にした情けない表情になった。
ほらみろ! そんな情けない声出すくらいなら、始めから生ゴミは生ゴミらしく翔ちゃんの引き立て役でもやってればいいんだよ。実際翔ちゃんと並ぶと、お前かなり間抜けに見えるぞ? だせぇなぁ。
そんな間抜けな表情を晒していた北澤だったけれど、どうにかこうにか気を持ち直したのかまた強い口調で言った。
「まあいい、兎に角! こんな女装趣味の変態とは付き合わない方がいいよ倉橋さん。」
「!」
「女......装?」
リリィちゃんの肩もことさら大きく震え、翔ちゃんから戸惑ったような声が出た。
――北澤ぁっ! お前また言ったな!
ごめんなさい翔ちゃん、私のせいでこんな「女装趣味」なんて酷い事言われて......。
違うもんね。翔ちゃん、女装趣味なんかじゃ無いもんね。
唯、アニメの女の子のキャラのコスプレをするのが好きなだけの男の娘なんだもんね。酷いよね、悲しいよね、こんな事言われて......。
そんな酷い事を翔ちゃんに言わせたままにはしておけなくて、私はまた強く北澤を睨んだけれど、今度は怯む事が無かった、というより、出来るだけ私を見ない様にしているようだ。
……だから北澤に何か言ってやりたいけれど、北澤への怒りと自責の念が強すぎるからか、もう私の心は一杯一杯でどうしても言葉が出てこない。
「ああ! そうだよ、女装じゃないか。『アニメのコスプレ女装』してるんだろ? 君は。」
北澤のその台詞に教室はしんと静まり返った。といっても元々私達以外はみんな黙ってやりとりを聞いているだけだったし、リリィちゃんも私も黙っていたから、正確には翔ちゃんが絶句しただけだったんだけれど......。
初めは何を言われているかわからない感じだった翔ちゃんも、少しずつ何を言われているのかわかったみたいで、青ざめて途切れ途切れになりながら言葉を紡いだ。
「いや......して......ません。僕は、女装なんて......してません。」
「え? いや、でも......。」
「僕は女装なんてしてません!」
言い切った翔ちゃん。その翔ちゃんにたじろぐ北澤。
嘘......!?
翔ちゃんコスプレで女の子の格好してないの?
「……でも、相川君。皆言ってるよ。君がそういう趣味だって。」
「皆......それって最初に誰が言ったんですか?」
「いや、俺も直接聞いたわけじゃ無いけど、でも昨日、校門の前で倉橋さんと......ええと、アンダーソンさん? と言い合いしてたって聞いたんだけど......違う?」
と言って私の方を振り向く北澤。
「私も......リリィちゃんから、翔ちゃんはコスプレが好きって聞いたんだけど......ねえ?」
私は北澤に頷き、リリィちゃんの方を振り向き見る。
するとそこには、目に涙を溜めて何かに怯えるようにプルプル小刻みに震える、小動物の様な彼女が居た。
「リリィ?」
その尋常では無い様子に、心配になった翔ちゃんが声を掛けるが、そのままの状態で無反応なリリィちゃん。
「リリィ......。」
そして、そのリリィちゃんの姿に何かを悟った様子の翔ちゃんは大きく息を吸い込んで「はぁ」と大きくため息を吐いた。
「リリィ。今度は『どんな』なの? 怒らないから言ってごらん。」
……「どんな」って何?
「本当に......怒らない?」
翔ちゃんが優しく、でも疲れた様にリリィちゃんに語りかけると、それまで頑なに沈黙を守っていたリリィちゃんからポツリとそんな声が漏れた。
「怒らないよ。だから言ってごらん。」
未だ涙を溜めたままの瞳を翔ちゃんに向けるリリィちゃん。
言葉に詰まりながらも、たどたどしく語り始めた。
「あの......ね、昨日ね......。」
「昨日......うん。」
「よりこがね、翔太にね、キスしたって言ったからね、だからね、私ね......。」
そこで言いよどんでしまったリリィちゃん。
翔ちゃんは昨日の事を思い出したのか、顔を赤くしていた。
「大体わかるよ......でも言ってよリリィ。」
「あ、うん......だからね。私、怖くなって......」
「怖く?」
「うん、怖くなってその......翔太があのアニメの衣装を着てるって......言っちゃった!」
「はぁ、リリィ......。」
翔ちゃんはまたため息を吐いて額に手を当てた。
「……えと、て、てへぺろ~、ご、ごめーん翔太ぁ~あ、あはは......は。」
リリィちゃんは顔に引きつった笑顔を貼り付けて、ギクシャクした動作で拳をゆるく握り、軽く自分の頭を小突く素振り、そして片方の瞳を瞑ってウィンクをし、閉じた唇から小さく舌を出した。
――ここでまさかのテヘペロ!
そりゃあ、リリィちゃんがやるんだからそれなりに可愛い。
――だけど何それ? ふざけてんの?
翔ちゃんはそのリリィちゃんの仕草を見て、何か言おうとして声を出そうとしていたけれど、私は翔ちゃんの言葉を咄嗟に遮って言った。
「リリィちゃん! ちょっと!」
「リ......よりちゃん?」
突然の私の乱入に驚く翔ちゃん。
「ごめんなさい翔ちゃん、でも言わせて!」
「え? あ、うん。」
少し尻込みをした風な翔ちゃん。リリィちゃんはそんな私の様子に驚いてか、あの不出来なテヘペロをやめてしまった。
本当ごめんなさい翔ちゃん。でもこれだけは言っておかないと、私の気が済まないよ!
……そう、気が済まない。
だってそんないい加減な......そんなの許されるわけないよ!
「もうっ! テヘペロは口に出して言っちゃ駄目だよリリィちゃん! テヘペロは仕草だけにしないとっ!」
私の的確過ぎる指摘に、リリィちゃんは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして「え? はあ......」と何とも気の無い返事をした。やる気が全く感じられない。
そして私の強い声に翔ちゃんや北澤、それから教室の皆も驚いてこちらを向いている。
全く!
これだからテヘペロ初心者は度し難い。テヘペロの何たるかがまるでわかっていないんだから。
テヘペロとは「心」と「技」と「体」が一体となって初めて完成する妙技。
でもリリィちゃんのテヘペロはそれとは丸きり違う、唯のテヘとペロだ。
……え? 何を言っているかわからないですって?
仕方が無い......では説明しましょう。
先ず、肝心な心技体の「心」から解説しましょう。
テヘペロの心とはすなわち、謝罪したいけれどでもそれ程悪い事したつもりも無い、でも謝らないといけない、でも素直に謝りたくない、だからちょっとだけ茶化して、そして舌を見せるという一種の挑発行為をして、自身の余裕を表したいという状態で謝罪をする時の心の事を言うの。
そしてその相手が敵対していれば攻撃に、好意を抱いている相手ならば自分を可愛く見せる為の武器になるわ。
この気持ちが無いとテヘペロに身が入らず、完成されたテヘペロを行う事は理論上不可能になる。
そして「体」とはその人間がテヘペロを行うに相応しいかどうか......ぶっちゃけると、テヘペロが映える女の子であるかどうかの事を言うわ。これには容姿が良い悪いは全く関係無い、唯テヘペロの神様に愛された人間であるかどうかだけなの。
あまり可愛くない子がテヘペロをする事によって飛躍的に可愛く見えるなんて良くある話よね? ……リリィちゃんの場合はしてもしなくても文句なしだけれども......。
最後に「技」これは単純にテヘペロの技量の事ね。
これがさっきの話になるけれど「テヘ」と「ペロ」は元々独立した存在なの。
「テヘ」とは苦笑して自分の頭を軽く叩く素振りを見せる、いわば自虐、自省行為に通じるものがあるわ。
そして「ペロ」とは相手に舌を見せるという行為、それは好意のある人間には情愛や親愛を、そして敵対する相手へは挑発を表す行為だ。
その異なる二つの行為が合わさってのテヘペロ、こんな難しい事、一朝一夕にはならないはずよね?
私だってそう。
そんな難しい事易々と出来るわけがない。
だから毎日鏡の前や大小の翔ちゃん君人形の前で、本番を意識しての空テヘペロを何百本と繰り返しているわ。
そして漸く最近、私はネットの通信教育で全日本テヘペロ協会からテヘペロ初段を貰うに至った。努力して掴み取った名誉ある称号だ。
……そういえば有段者ともなると、口で「テヘペロ」と言わなくても、相手にそう幻聴を聞かせられる様になると聞いたけれど......それって本当かしら?
閑話休題
「技」の無いリリィちゃんのテヘペロには全然努力が伝わってこない、つまりど素人のテヘペロなわけだ。
そんないい加減なテヘペロを許せるわけもない私が、しっかり後進を指導してあげないといけない。
「テヘペロは心技体なの! リリィちゃんのテヘペロには技が無いよ、ちゃんと練習してるの? 女の子の嗜みだよ?」
「シンギタイ? たしなみ? あんた何言ってんのよ。」
「何って、常識でしょ? 言わせないでよ恥ずかしい......。」
「常識......なの? え、それって恥ずかしいの!? ねえ翔太、本当!? 何で今まで教えてくれなかったの!?」
責める様に翔ちゃんに詰め寄るリリィちゃん。
「いや......常識? なの、かな?」
急に話を振られた翔ちゃんは自信なさそうに言う。
「やっぱりそうなんだ......翔太も知らなかったの?」
ちょっと心配そうな声だ。
「……いやいやいや、そんな常識聞いた事無いよっ! 何言ってるのよりちゃん! 変な事言って話の腰を折らないでよっ。」
だけど頭を振って否定した。
嘘......翔ちゃん知らないの?
「倉橋さん......。」
少し怒った翔ちゃんの声に驚く私、そして哀れんだ様な、呆れた様な北澤の声にイラつく。
この! 北澤っ! 元はと言えばお前のせいで、お前のせいで翔ちゃんにまた怒られちゃったじゃないかっ! どうしてくれるんだっ!
教室の皆も「ないわー」とか「倉橋さんって実は......」とか「常識とかありえないだろ常識的に考えて」とか「テヘペロって何?」とか言ってる。
皆......テヘペロは女の子の必修科目だよ、どうして知らないの?
「はあ、テヘペロはもういいよ。」
ため息を吐いた翔ちゃん。
……もういいの? テヘペロの事はもういいんですか? とっても重要な事なのに......。
「それより、リリィ、大体あの衣装は君のだろ? 僕が着れるわけないじゃない。その......はみ出ちゃうよ。」
「ですよね~、はみ出ますよね~。」
尚も茶化していうリリィちゃん。
そんな彼女に少し怒った目を向ける翔ちゃん。
「……はい、反省してますです。ごめんなさいです。」
流石に普段全く怒らない翔ちゃんの怒った目は効いた様で、リリィちゃんは殊勝に謝った。
まあ、当然だよね。
翔ちゃんが怒るとか、つまり嫌われるとか、世界が終わるより恐ろしい事だよ。
つい、私は一昨日の翔ちゃんを怒らせた時の事を思い出して身震いをした。
あの時は、本当にどうして良いかわからなかった。
もし、今でもあのまま翔ちゃんが怒ったままだとしたらと想像しただけで、足元を支える物が無くなる様な、とても不安で不安定でいたたまれなくて、それでいて虚ろな喪失感を伴う気持ちになる。つまり絶望ってやつだ。
「全く君って奴は......あの、それで北澤先輩? もしかしてこの噂って学校中に広まってますか?」
「ああ、恐らく......。」
「そう、ですか......。」
翔ちゃんの大きくて丸い肩が小さく見えてしまうくらいがっくりと落ちた。
「翔太、大丈夫だよ! 私がいるもん、ね? 結婚するもんね? だからいいでしょ?」
「いや、結婚は......というか、今それ関係あるの?」
「関係あるよっ! 少しくらい変態扱いされるのが何よ! こんな可愛い子と結婚出来るんだよ?」
「だから......自分で可愛いっていうのはどうかと思うよ。」
「でも可愛いでしょ? 私の事......その......好きなんでしょ?」
「う、うん......。」
「ならいいじゃないっ!」
……良くねぇよ、リリィ・アンダーソン。
翔ちゃんと結婚するのは私だよ。私が相川よりこになるんだよ。
愛人になるのはぎりぎり許しても結婚はねぇよ。
でも、どうしても結婚したいって言うんなら、代わり私の弟を紹介してあげるよ。
それは翔ちゃんに比べたら全然格好良く無いけど、でもいい子だよ? いっつも姉ちゃん姉ちゃんって寄ってくるとっても可愛い子なんだから。
でも結構女の子にだらしないらしいのが玉に瑕だけど......いいよね? そんなのきっとリリィちゃんの魅力で一途になっちゃったりするよね?
倉橋リリィかぁ......リリィちゃんが義妹になるんだよね? 嬉しいなぁ。
私、妹もいるんだけど、でも全然懐いてくれなくて......。
――だから倉橋リリィになった暁には一杯お義姉ちゃんに甘えてね、リリィちゃん......。




