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ひこうき雲

作者: 風呂上がり

 兵庫県姫路市。小さな豆腐屋を営む逆井家の一人娘。逆井絵里さかさいえり二十二歳。プロのシンガーソングライターを目指す大学生だ。昼間は大学、夜はバイト。休日は山陽電鉄姫路駅前のアーケードで路上ライブを行う日々を過ごしていた。透きとおった歌声、キャッチーなメロディー、日常を切り取った歌詞。彼女が立つといつもそこには人だかりができていた。

 絵里は幼いころから音楽をやっていたわけではなかった。むしろ、中学、高校時代も音楽はあまり聴く方ではなかった。そんな彼女が音楽を始めたきっかけは高三の夏のことだった。ある日から突然、ひどい疲労感が続くようになった絵里は、大学病院で検査を受けた結果、とある病気であることが判明し、長期の自宅療養が必要だと診断された。

 もともとアウトドア派だった絵里。毎日朝から晩まで、食事と風呂以外ベッドで横になる生活はとてもつらかった。そんな絵里に母は、FMラジオで音楽でも聴いて気分でも紛らわしたらと勧めた。音楽なんてと思ったが、他にすることもない。携帯のFM機能を使って地元のラジオ局に合わせた。

 そこで流れていた曲に絵里は衝撃を受けた。今の自分の心境にぴったりな歌詞。弾き語り系の新人女性シンガーソングライターの「ひまわり」という曲だった。アーティスト名と曲名をメモし、インターネットでCDも買った。一日に何回も聴いた。つらい時ほど、何回も聴いた。ラジオも一日に何時間も流すようになった。テレビで流れているような曲だけではなく、さまざまな音楽を届けてくれるFM局。この世の中には、決して有名ではなくても、こんなにも心にしみる歌があることを絵里は知った。そして思った。自分もいつか、人を元気にできるような曲を歌いたいと。

 徐々に病気は快方に向かった。人より遅い受験勉強のスタートだったが、無事地元の大学に合格した。大学に入るころには、毎日通える程度まで回復していた。バイトを始めて貯めたお金で、アコースティックギターを買った。独学で作曲の仕方を学び、オリジナル曲を書くようになった。あの頃の気持ちを思い出した。いつか自分も人を元気づけられるような歌を届けたい。たった三曲しかオリジナル曲がなかったが、ギターをかついで路上に立った。大学三年の秋だった。

 初めての路上ライブは不安でいっぱいだった。でも、少ないながらも足を止めて聴いてくれる人、声をかけてくれる人がいた。そんな人たちのおかげで、またやろうと思えた。「一人でもいい、私の歌を聴いてくれる人がいるなら、また路上に立とう。」と。しだいに噂がひろがり、立ち止まる人も増えていった。オリジナル曲もたくさん作った。

「また今度いつやるか教えて。」

そんな声をかけられるようになった絵里は、ブログを作り、路上ライブの予告をするようになった。毎回のように足を運んでくれる人もいた。

 初の路上ライブから一年。絵里は姫路では有名人だった。自主制作で作ったCDも、とぶように売れた。もっとたくさんの人に私の歌を届けたい。そう思った絵里は、大学を出たら、大阪に出ようと決めた。そして、将来はプロのミュージシャンになりたいと。


 それから半年が過ぎ、出発の日がやってきた。家族や友達はもちろん、路上で出会った人たちも見送りに来てくれた。

「絵里の歌は絶対大阪に出てもたくさんの人に伝わるで。」

「近いうちに武道館で絵里の歌声を聴けるのを楽しみにしてるで。」

たくさんの応援の言葉をもらい、絵里は大阪へ向かう新快速に乗りこんだ。大阪までは一時間くらい。またいつでも帰ってこれる。そんなに大きな不安はなかった。

 大阪での生活が始まった。小さなアパートを借り、昼間は飲食店でバイトをした。毎日ギターに向き合い、曲をたくさん作った。すべては、大阪のみんなに届けるため。路上ライブをやるとすれば、梅田の歩道橋だと決めた。自己紹介のボードも作った。「姫路発、大阪経由、武道館行き。この歌をあなたに届けたい。シンガーソングライター逆井絵里。」

 初めての梅田路上ライブの日。期待と不安でいっぱいだった。でも、どちらかといえば、たくさんの人に自分の歌を届けられる楽しみの方が少しだけ大きかった。バイトを終えた絵里は地下鉄で梅田に向かった。夜の七時。帰路を急ぐ学生やサラリーマンでごった返していた。持ってきた小さなアンプにコードを接続したり、ボードを立てたり。自主制作のCDを並べたり。準備は整った。

 ポロンとギターを鳴らした。

「姫路からやって来たシンガーソングライターの逆井絵里です。ちょっとだけでもいいので、よかったら聴いていってください。」

そう言って、絵里は歌い始めた。最初に歌うのは、初めて書いたオリジナル曲、初めて姫路の駅前で歌ったあの曲、そう決めていた。立ち止まってくれる人は、誰もいなかった。二曲目、三曲目、四曲目・・・。絵里は歌い続けた。時々サラリーマンが立ち止まって聴いてくれたが、一曲も終わらないうちに去ってしまった。一時間歌った。結局、一曲まるまる聴いてくれた人は一人だけだった。最初はこんなもんかなぁ。ある程度予想はしていたが、やっぱり寂しかった。片づけながら、絵里は姫路の路上ライブを思い出していた。たくさんの人に囲まれて歌っていたあの頃を。帰りの道、歌い疲れた体に機材がとても重く感じた。今日は何を残せただろう。

 ラジオから流れているあの人だって、最初はこんなんだったんだろう。何回、何十回と繰り返して頑張ればいつか、姫路の時みたいにたくさんの人を集められる日がきっと来るはず。そう信じて、絵里はその後何度も梅田の歩道橋に立った。しかし、大阪へやってきて三か月が立とうとしていたその日も、状況はなんら変わっていなかった。CDは一枚も売れないままだった。夜遅くまで頑張って歌い続けた日には、酔っ払いに絡まれるだけだった。

 路上に立つ回数はしだいに減っていった。もう、路上に立つことが嫌だった。歌を歌うのも、ギターを弾くのも嫌になった。しまいには、音楽を聴くことさえ嫌になった。大好きだった「ひまわり」も、聴かなくなった。ただバイトに明け暮れる毎日。そんな日々が続いていた。時々かかってくる家族や友人からの電話では、明るくふるまった。大阪に出てきて六カ月。「いつでも帰ってこれるやん。」姫路には帰れなかった。何のために大阪に出てきたのか。自分の歌をたくさんの人に聴いてもらえる、そんなときめきは、もう絵里の心にはなかった。


 歌うことをやめて三カ月たった、そんなある日。天王寺で買い物をした絵里は、両手に荷物を抱えて自宅へ帰る途中だった。歩道橋を歩いているとき、ギターをかついで楽しそうに歌っている男性ミュージシャンを見かけた。立ち止まっている人は誰もいなかった。でも彼は、満面の笑みで楽しそうに歌っていた。

 あれだけ音楽を聴くのも嫌だったのに、なぜか彼の音楽に惹かれた。気づくと立ち止まって何曲も聴いていた。「CD発売中。一枚五〇〇円。」思わず絵里は、財布から五〇〇円玉を取り出し、CDを買った。

「ありがとうございます。サインさせていただいてよろしいですか。」

「あ、はい。お願いします。」

「お名前はどうしましょう。」

「エリといいます。」

「こうやってね、一人でも立ち止まってくれる人がいると、今日も来てよかったって思うんですよ。」


 その帰り道、絵里はハッとした。自分が初めて姫路で路上に立った日、感じたことを思い出した。「一人でもいい、私の歌を聴いてくれる人がいるなら、また路上に立とう。」

忘れていた気持ちを思い出した。そうだ、大阪に来てからも、立ち止まって聴いてくれた人は本当に少ないけどいたんだ。姫路で大勢の人に囲まれて歌うようになってから、忘れかけていたその気持ち。一番大切なことを忘れていたんだ。人気ひとけのない帰りの電車、初めて路上ライブに立った日のことを思い出していた。涙があふれて止まらなかった。また一からやり直そう。

 自宅に帰った絵里は、三カ月ぶりにギターを触った。あふれ出てくる思いを、今すぐ曲にしたかった。一晩で書き上げた。あの日、姫路から大阪へ向かう電車の窓、快晴の空に一筋の飛行機雲がかかっていた。そんな風景と自分の思いを重ね、「ひこうき雲」と題したこんな歌を書いた。

 その翌日、絵里はギターを背負って、久しぶりに梅田の歩道橋へ向かった。


「ひこうき雲」

モノクロの毎日に 立ち止まってしまいそう

このまま行けば どこへたどり着くのだろうか

夢を追いかけていた日々 あの頃の僕

あの日々に戻ってみたい そんなことを考える


ふと空を見上げる

真っ青な空に 一筋の飛行機雲

昔はあんなふうに まっすぐに生きていたんだ

いつからだろう 今のようになってしまったのは


明日は残りの人生の最初の一日

だれかがこんなことを言っていた

もうあの頃に戻りたいなんて言わない

明日からを一生懸命生きていこう


ふと空を見上げる

真っ青な空に 一筋の飛行機雲

僕もあんなふうに 自分の歩いた跡をしっかりと

残していきたい


いずれは消える足跡だけど

しっかりと残していきたい




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