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雨の匂いを忘れる頃に

作者: あーちゃん
掲載日:2026/06/03

人は、誰かを裏切りたくて恋をするわけじゃない。


寂しかった。

気づいてほしかった。

必要だと言ってほしかった。


その小さな感情が積み重なった先に、取り返しのつかない一歩がある。


この物語は、不倫を美化する話ではありません。

誰かを愛することの弱さと、失うことの痛みを描いた物語です。


もし、雨の日に昔の恋を思い出したことがあるなら。

この物語は、きっとあなたの心にも静かに触れるはずです。

雨の降る音が好きだった。


 窓を叩く静かな音を聞いていると、世界から切り離されたような気持ちになる。誰にも急かされず、誰にも期待されず、ただ時間だけがゆっくり流れていく。


 けれど最近の私は、その雨音を聞くたびに胸が苦しくなるようになっていた。


 理由は分かっている。


 あの日からだ。


 彼と再会した、あの雨の日から。


     ◆


「行ってきます」


 朝七時。夫の恒一郎はネクタイを締めながら、いつものように玄関を出ていく。


「行ってらっしゃい」


 私は笑顔を作る。


 ドアが閉まる音。


 それだけで、部屋の中が急に静かになる。


 結婚して八年。


 子どもはいない。


 最初の頃は、休みの日になれば二人で出掛けて、夜中まで映画を見て、くだらないことで笑い合っていた。


 でも今は違う。


 会話は必要最低限。


「ご飯いらない」


「遅くなる」


「先に寝てて」


 そんな言葉ばかりになった。


 嫌われているわけじゃない。


 暴力もない。


 浮気もしていないと思う。


 ただ、夫は“私に慣れてしまった”のだ。


 空気みたいに。


 いて当たり前の存在に。


 私はため息をつきながら、冷めたコーヒーを流しに捨てた。


     ◆


 その日、雨が降っていた。


 買い物帰り、急に強くなった雨を避けるため、私は駅前の古い喫茶店へ入った。


 カラン、とドアベルが鳴る。


 薄暗い店内。


 コーヒーの匂い。


 ジャズが小さく流れている。


「いらっしゃいませ」


 店員に案内され、窓際へ向かおうとした時だった。


「……恒?」


 その声に、心臓が止まりそうになった。


 振り返る。


 そこにいたのは、高校時代の同級生――神崎悠真だった。


「やっぱり恒だ」


 昔より少し大人びた顔。


 でも、笑った時の目元はあの頃と変わらない。


「悠真……?」


「すげぇ久しぶり」


 私は言葉を失った。


 高校時代、私は彼が好きだった。


 けれど告白できなかった。


 卒業後、自然に離れて、そのまま会うこともなかった。


「座れば?」


 促されるまま、私は彼の向かいに座った。


「結婚したって聞いた」


「うん……」


「幸せそうだな」


 その言葉に、なぜか胸が痛んだ。


 私は笑えなかった。


 たぶん、その一瞬で彼は気づいたのだと思う。


 私が、幸せじゃないことに。


     ◆


 それからだった。


 雨の日だけ、私たちは会うようになった。


 約束をしたわけじゃない。


 けれど不思議と、雨の日になると、あの喫茶店へ向かってしまう。


「また来た」


「悠真こそ」


 そんな会話をしながら、コーヒーを飲む。


 他愛もない話。


 高校時代の話。


 最近見た映画。


 好きな音楽。


 夫とはもう、そんな会話をしなくなっていた。


「恒ってさ」


「なに?」


「昔から、無理して笑うよな」


 図星だった。


 私は視線を落とす。


「そんなことないよ」


「ある」


 悠真は静かに言った。


「今も、泣きそうなのに笑ってる」


 その瞬間、私は何も言えなくなった。


 誰にも気づかれなかった。


 夫にも。


 友達にも。


 自分ですら見ないようにしていた感情を、彼だけが見つけてしまった。


「……泣いてないよ」


 声が震える。


「泣けばいいのに」


 私は、どうしていいか分からなかった。


     ◆


 その夜、夫は午前様だった。


「悪い、接待長引いた」


「うん」


「飯ある?」


「冷蔵庫」


 会話はそれだけ。


 テレビの音だけが部屋に響く。


 私はソファに座りながら、ふと思ってしまった。


 ――もし今、隣にいるのが悠真だったら。


 その瞬間、自分自身に嫌悪した。


 最低だ。


 私は妻なのに。


 夫を裏切るようなことを考えている。


 けれど、止められなかった。


 心が、少しずつ彼へ向いていく。


     ◆


「会うの、やめた方がいいよね」


 雨の喫茶店で、私は言った。


 悠真はしばらく黙っていた。


「……そうだな」


「うん」


「でも俺、恒に会えるの嬉しい」


 胸が締めつけられる。


「そんなこと言わないで」


「なんで?」


「苦しくなるから」


 悠真は小さく笑った。


「遅かったな」


「え?」


「俺、高校の時からずっと好きだった」


 呼吸が止まる。


 外では雨が降っていた。


 世界が滲んで見えた。


「今さらだよ……」


「分かってる」


「私は結婚してる」


「知ってる」


「最低だよ、こんなの」


「……そうだな」


 否定しない優しさが、余計につらかった。


     ◆


 その日、初めて彼に触れた。


 喫茶店を出た帰り道。


 雨の中。


 私が泣きそうになった時、悠真が手を握った。


 ただ、それだけ。


 それだけなのに、体温が胸に残った。


 私は、その温もりを忘れられなかった。


     ◆


 それから数週間後。


 夫が珍しく早く帰ってきた。


「なあ」


「どうしたの?」


「最近、何かあった?」


 ドキリとする。


「別に」


「……そっか」


 夫は少しだけ寂しそうに笑った。


「俺さ、仕事ばっかだったよな」


 私は黙る。


「ちゃんと見れてなかった」


「急にどうしたの」


「この前さ、会社の後輩に言われたんだ。“奥さん、大事にしないといなくなりますよ”って」


 その言葉に、胸が苦しくなる。


「恒がいてくれるの、当たり前になってた」


 私は何も言えなかった。


 もしあと少し遅かったら。


 もし夫が、この言葉を言わなかったら。


 私はきっと、戻れなくなっていた。


     ◆


 雨の日だった。


 私は喫茶店へ向かった。


 悠真はいつもの席にいた。


「来ると思った」


「うん」


 私は座らなかった。


 立ったまま、彼を見る。


「もう会うのやめる」


 悠真は静かに頷いた。


「そっか」


「ごめん」


「謝んな」


「でも……」


 声が震える。


「悠真に会えて、嬉しかった」


 涙が落ちる。


「私、自分がまだ誰かに必要にされたいって思ってるなんて、知らなかった」


 悠真は笑った。


 少し寂しそうに。


「恒」


「なに?」


「お前、ちゃんと愛されろよ」


 私は泣きながら頷いた。


     ◆


 店を出る。


 雨が降っていた。


 でも不思議と、あの日みたいに冷たくなかった。


 私は空を見上げる。


 雨の匂い。


 胸が少し痛む。


 きっと私は、これから先も彼を思い出す。


 忘れられないと思う。


 でも、それでいい。


 人は誰かを好きになった記憶まで消して生きていけないから。


 帰ろう。


 私には、帰る場所がある。


 私は傘を開き、ゆっくり歩き出した。


 雨の匂いを忘れる頃には。


 きっと少しだけ、今より優しく笑えている気がした。

「正しい恋」だけが、人を救うわけじゃない。


だけど、間違った恋は、必ず誰かを傷つける。


恒一が最後に選んだものは、愛だったのか。

それとも、罪を終わらせる覚悟だったのか。


答えはきっと、読む人によって変わります。


大人になるほど、人は簡単に泣けなくなります。

だからこそ、心が壊れる前に「寂しい」と言えることが大切なのかもしれません。


最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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