雨の匂いを忘れる頃に
人は、誰かを裏切りたくて恋をするわけじゃない。
寂しかった。
気づいてほしかった。
必要だと言ってほしかった。
その小さな感情が積み重なった先に、取り返しのつかない一歩がある。
この物語は、不倫を美化する話ではありません。
誰かを愛することの弱さと、失うことの痛みを描いた物語です。
もし、雨の日に昔の恋を思い出したことがあるなら。
この物語は、きっとあなたの心にも静かに触れるはずです。
雨の降る音が好きだった。
窓を叩く静かな音を聞いていると、世界から切り離されたような気持ちになる。誰にも急かされず、誰にも期待されず、ただ時間だけがゆっくり流れていく。
けれど最近の私は、その雨音を聞くたびに胸が苦しくなるようになっていた。
理由は分かっている。
あの日からだ。
彼と再会した、あの雨の日から。
◆
「行ってきます」
朝七時。夫の恒一郎はネクタイを締めながら、いつものように玄関を出ていく。
「行ってらっしゃい」
私は笑顔を作る。
ドアが閉まる音。
それだけで、部屋の中が急に静かになる。
結婚して八年。
子どもはいない。
最初の頃は、休みの日になれば二人で出掛けて、夜中まで映画を見て、くだらないことで笑い合っていた。
でも今は違う。
会話は必要最低限。
「ご飯いらない」
「遅くなる」
「先に寝てて」
そんな言葉ばかりになった。
嫌われているわけじゃない。
暴力もない。
浮気もしていないと思う。
ただ、夫は“私に慣れてしまった”のだ。
空気みたいに。
いて当たり前の存在に。
私はため息をつきながら、冷めたコーヒーを流しに捨てた。
◆
その日、雨が降っていた。
買い物帰り、急に強くなった雨を避けるため、私は駅前の古い喫茶店へ入った。
カラン、とドアベルが鳴る。
薄暗い店内。
コーヒーの匂い。
ジャズが小さく流れている。
「いらっしゃいませ」
店員に案内され、窓際へ向かおうとした時だった。
「……恒?」
その声に、心臓が止まりそうになった。
振り返る。
そこにいたのは、高校時代の同級生――神崎悠真だった。
「やっぱり恒だ」
昔より少し大人びた顔。
でも、笑った時の目元はあの頃と変わらない。
「悠真……?」
「すげぇ久しぶり」
私は言葉を失った。
高校時代、私は彼が好きだった。
けれど告白できなかった。
卒業後、自然に離れて、そのまま会うこともなかった。
「座れば?」
促されるまま、私は彼の向かいに座った。
「結婚したって聞いた」
「うん……」
「幸せそうだな」
その言葉に、なぜか胸が痛んだ。
私は笑えなかった。
たぶん、その一瞬で彼は気づいたのだと思う。
私が、幸せじゃないことに。
◆
それからだった。
雨の日だけ、私たちは会うようになった。
約束をしたわけじゃない。
けれど不思議と、雨の日になると、あの喫茶店へ向かってしまう。
「また来た」
「悠真こそ」
そんな会話をしながら、コーヒーを飲む。
他愛もない話。
高校時代の話。
最近見た映画。
好きな音楽。
夫とはもう、そんな会話をしなくなっていた。
「恒ってさ」
「なに?」
「昔から、無理して笑うよな」
図星だった。
私は視線を落とす。
「そんなことないよ」
「ある」
悠真は静かに言った。
「今も、泣きそうなのに笑ってる」
その瞬間、私は何も言えなくなった。
誰にも気づかれなかった。
夫にも。
友達にも。
自分ですら見ないようにしていた感情を、彼だけが見つけてしまった。
「……泣いてないよ」
声が震える。
「泣けばいいのに」
私は、どうしていいか分からなかった。
◆
その夜、夫は午前様だった。
「悪い、接待長引いた」
「うん」
「飯ある?」
「冷蔵庫」
会話はそれだけ。
テレビの音だけが部屋に響く。
私はソファに座りながら、ふと思ってしまった。
――もし今、隣にいるのが悠真だったら。
その瞬間、自分自身に嫌悪した。
最低だ。
私は妻なのに。
夫を裏切るようなことを考えている。
けれど、止められなかった。
心が、少しずつ彼へ向いていく。
◆
「会うの、やめた方がいいよね」
雨の喫茶店で、私は言った。
悠真はしばらく黙っていた。
「……そうだな」
「うん」
「でも俺、恒に会えるの嬉しい」
胸が締めつけられる。
「そんなこと言わないで」
「なんで?」
「苦しくなるから」
悠真は小さく笑った。
「遅かったな」
「え?」
「俺、高校の時からずっと好きだった」
呼吸が止まる。
外では雨が降っていた。
世界が滲んで見えた。
「今さらだよ……」
「分かってる」
「私は結婚してる」
「知ってる」
「最低だよ、こんなの」
「……そうだな」
否定しない優しさが、余計につらかった。
◆
その日、初めて彼に触れた。
喫茶店を出た帰り道。
雨の中。
私が泣きそうになった時、悠真が手を握った。
ただ、それだけ。
それだけなのに、体温が胸に残った。
私は、その温もりを忘れられなかった。
◆
それから数週間後。
夫が珍しく早く帰ってきた。
「なあ」
「どうしたの?」
「最近、何かあった?」
ドキリとする。
「別に」
「……そっか」
夫は少しだけ寂しそうに笑った。
「俺さ、仕事ばっかだったよな」
私は黙る。
「ちゃんと見れてなかった」
「急にどうしたの」
「この前さ、会社の後輩に言われたんだ。“奥さん、大事にしないといなくなりますよ”って」
その言葉に、胸が苦しくなる。
「恒がいてくれるの、当たり前になってた」
私は何も言えなかった。
もしあと少し遅かったら。
もし夫が、この言葉を言わなかったら。
私はきっと、戻れなくなっていた。
◆
雨の日だった。
私は喫茶店へ向かった。
悠真はいつもの席にいた。
「来ると思った」
「うん」
私は座らなかった。
立ったまま、彼を見る。
「もう会うのやめる」
悠真は静かに頷いた。
「そっか」
「ごめん」
「謝んな」
「でも……」
声が震える。
「悠真に会えて、嬉しかった」
涙が落ちる。
「私、自分がまだ誰かに必要にされたいって思ってるなんて、知らなかった」
悠真は笑った。
少し寂しそうに。
「恒」
「なに?」
「お前、ちゃんと愛されろよ」
私は泣きながら頷いた。
◆
店を出る。
雨が降っていた。
でも不思議と、あの日みたいに冷たくなかった。
私は空を見上げる。
雨の匂い。
胸が少し痛む。
きっと私は、これから先も彼を思い出す。
忘れられないと思う。
でも、それでいい。
人は誰かを好きになった記憶まで消して生きていけないから。
帰ろう。
私には、帰る場所がある。
私は傘を開き、ゆっくり歩き出した。
雨の匂いを忘れる頃には。
きっと少しだけ、今より優しく笑えている気がした。
「正しい恋」だけが、人を救うわけじゃない。
だけど、間違った恋は、必ず誰かを傷つける。
恒一が最後に選んだものは、愛だったのか。
それとも、罪を終わらせる覚悟だったのか。
答えはきっと、読む人によって変わります。
大人になるほど、人は簡単に泣けなくなります。
だからこそ、心が壊れる前に「寂しい」と言えることが大切なのかもしれません。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。




