第1話 見られる水面
風見灯の名前の横に、B1と書かれていた。
出走表の中の、たった二文字。
けれど、その二文字は、灯の視線を何度も止めた。
風見灯。
B1。
昨日までの自分と、身体が変わったわけではない。
握る力が急に強くなったわけでもない。
スタートが急に速くなったわけでもない。
旋回が別人のようになったわけでもない。
それでも、出走表の中で、自分の名前の横にある級別は変わっていた。
B2ではない。
B1。
もう、ただ水面に置かれているだけの新人ではない。
灯はノートを開き、新しいページの上に書いた。
B1として、最初の開催。
その文字を書いた瞬間、胸の奥が少しだけ重くなった。
嬉しくないわけではない。
むしろ、嬉しかった。
第5章の期末最終開催。
最終9走目。
5号艇から1着。
勝って、B1の線へ届かせた。
あの水面は、今も身体の中に残っている。
でも、B1になったからといって、次の水面が優しくなるわけではない。
三島沙耶は言った。
B1は、上がったら終わりじゃない。
ここから、選手として残る級。
灯は、その言葉をノートに書いていた。
何度も読み返していた。
けれど、出走表の中に正式にB1と書かれた自分を見た今、その言葉は前よりずっと重かった。
初日の出走表。
1号艇、宮沢菜々。B1。
2号艇、片瀬梨央。A2。
3号艇、藤森千尋。B1。
4号艇、黒瀬真帆。A2。
5号艇、風見灯。B1。
6号艇、秋元玲奈。B1。
灯は5号艇だった。
B1としての初戦。
いきなり内枠ではない。
5号艇。
外から水面を見る位置。
灯にとっては、何度も苦しんだ場所であり、何度も道を見つけてきた場所でもある。
1号艇の宮沢はインから大きく崩れないB1。
2号艇の片瀬はA2。
差しが鋭い。
3号艇の藤森は、センターから握るタイプ。
4号艇の黒瀬真帆はA2。
カドから水面を壊す力がある。
6号艇の秋元は、大外から追い上げるB1。
灯は、4号艇の欄をじっと見た。
黒瀬真帆。
A2。
カド攻め。
灯はノートに書く。
4号艇、黒瀬さん。
攻める。
5号艇の私は、その外。
4号艇が握れば、その内か外。
3号艇が流れれば、差し場。
2号艇が差せば、その出口。
灯は、いつものように展開を書いていた。
けれど、ペン先が少し止まる。
いつものように。
そう思った自分に、少しだけ引っかかった。
B1になった。
でも、私はいつものように水面を見ればいい。
そう思いたい。
けれど、本当にそうなのか。
B2の頃、灯は見つける側だった。
誰も気づいていない水面。
誰も警戒していない隙間。
外からじっと見て、そこへ入る。
その形で、3着を拾った。
4着を残した。
そして、勝った。
でも今は、B1。
あの最終9走目を勝った選手。
外からでも道を拾ってくる選手。
出走表を見た相手が、灯をただのB2新人として見ることはもうない。
灯はノートの端に小さく書いた。
見られている?
疑問形だった。
まだ、実感はなかった。
控室に入ると、空気はいつもと同じようで、少しだけ違って感じられた。
誰かが灯を見た。
ただ視線が向いただけかもしれない。
でも、灯にはそれが少し重く感じられた。
「風見さん、B1になったんだよね」
近くにいた秋元玲奈が声をかけた。
6号艇の選手だった。
「はい」
灯は少しだけ頭を下げた。
「期末、最後勝ったんでしょ。5号艇から」
灯は、一瞬だけ答えに詰まった。
知っている。
見られている。
「あ……はい」
「すごいね。外から入ってくるタイプか」
秋元は悪気なく言った。
けれど、その言葉は灯の胸に残った。
外から入ってくるタイプ。
自分のことを、相手がそう見ている。
灯はノートを閉じた。
その時、少し離れた場所で、4号艇の黒瀬真帆が出走表を見ていた。
黒瀬は灯をちらりと見た。
それだけだった。
何も言わない。
けれど、灯には分かった気がした。
黒瀬も、灯を見ている。
5号艇のB1。
外から水面を拾う選手。
放っておけば、3着に入ってくる選手。
そう見られている。
展示航走の時間が近づいた。
灯は5号艇のカポックを手に取る。
B1として最初の展示。
5号艇。
5コース。
外から見る水面。
怖い。
けれど、B2の頃の怖さとは違った。
置いていかれる怖さではない。
何かを求められているような怖さ。
見られている怖さ。
6艇がピットを離れた。
1号艇、宮沢菜々。
2号艇、片瀬梨央。
3号艇、藤森千尋。
4号艇、黒瀬真帆。
5号艇、灯。
6号艇、秋元玲奈。
進入は枠なり。
1、2、3。
4、5、6。
灯は5コース。
起こし。
大時計。
線は遠い。
でも、水面は広く見える。
1号艇。
2号艇。
3号艇。
4号艇。
灯は、黒瀬の艇を見た。
4号艇。
カド。
スタートは悪くない。
展示スリット。
灯は0.17ほど。
置いていない。
越えていない。
黒瀬は0.12ほどに見えた。
少し覗く。
1マーク。
宮沢が先に回る。
片瀬が差す。
藤森が握る。
黒瀬がカドから攻める。
灯はその外。
黒瀬の攻めで、藤森の艇が少し外へ流れる。
内側に水面ができた。
灯には見えた。
3号艇の内。
4号艇の外。
2号艇の出口。
そこへ入れば、3着がある。
B2の頃なら、そこへ迷わず艇を向けていた。
いや、向けようとしていた。
灯は艇を内へ向ける。
その瞬間、黒瀬の艇がわずかに寄った。
強引ではない。
危険な動きでもない。
ただ、灯が入ろうとした水面を、先に消すような角度だった。
灯は息を呑んだ。
見えていた道が、消えた。
入れない。
深くなる。
外へ回るしかない。
灯は出口を残した。
展示を終えて戻った時、胸の奥がざわついていた。
水面は見えていた。
でも、入れなかった。
入る前に、消された。
灯はすぐにノートを開いた。
展示。
5号艇。
5コース。
1マーク。
3号艇の内が見えた。
4号艇の外。
3着の水面。
でも、4号艇黒瀬さんが先に寄せた。
消された。
水面は見えた。
でも、消された。
灯は、その最後の行をじっと見つめた。
消された。
その言葉が、ひどく重かった。
B2の頃は、見えないことが怖かった。
見えても、身体が動かないことが怖かった。
でも今は違う。
見えた。
身体も動こうとした。
それなのに、相手が先に消した。
「見えてたね」
声がした。
灯が顔を上げると、三島沙耶が近くに立っていた。
A1。
出走表の中で、沙耶の名前の横にも新しい級別がついている。
沙耶はこの開催にも斡旋されていた。
A1としての初開催。
灯と同じように、新しい級で水面に立っている。
「沙耶さん」
「今の1マーク、入ろうとしたでしょ」
「はい」
「黒瀬さんに消されたね」
灯は、ノートを見る。
「見えていました」
「うん」
「でも、消されました」
沙耶は短く頷いた。
「B1になったからね」
灯は顔を上げた。
「B1になったから、ですか」
「そう」
沙耶は出走表へ視線を落とした。
「B2の新人じゃない。期末で勝って上がってきたB1」
その言葉に、灯は胸が詰まる。
「相手は灯を見てくる」
「私を……」
「見るよ」
沙耶は淡々と言った。
「外から水面を拾う選手だって、もう知られてる」
灯は、展示で黒瀬が寄せた角度を思い出した。
強引ではなかった。
ただ、灯が入る場所を先に消した。
「灯が見える水面は、相手も消しに来る」
灯は、その言葉をノートに書いた。
灯が見える水面は、相手も消しに来る。
書きながら、指先が少し冷たくなる。
B1になった。
喜びだった。
でも、同時にこういうことなのだ。
置いていかれる側から、消される側になる。
見つけるだけでは足りない。
見えた水面を、相手に消される前に取る。
あるいは、消されることまで読んで、次を見る。
灯は顔を上げた。
「どうすればいいですか」
沙耶はすぐには答えなかった。
少しだけ灯を見てから言う。
「まず、消されたことを書く」
灯は、少しだけ拍子抜けした。
「書く、ですか」
「そう」
沙耶はいつものように言った。
「消されたって分からないまま走ると、次も同じ場所へ行く」
灯はノートを見る。
水面は見えた。
でも、消された。
「消された理由を書く」
沙耶は続けた。
「黒瀬さんが灯を見ていたのか、展開上そこを締めただけなのか。どの角度で消されたのか。消されたあとに残る水面はどこか」
灯はペンを握った。
「消されたあとに残る水面」
「そう」
沙耶は短く言う。
「B1は、そこから」
灯は、その言葉を胸の中で受け取った。
B1は、そこから。
見えるだけでは終わらない。
見えた水面が消えた後、次に何を見るか。
本番の時間が近づいた。
灯は、ノートの余白にもう一度書いた。
見えた水面が消されたら、次を見る。
5号艇。
5コース。
B1初戦。
逃げない。
本番。
6艇がピットを離れた。
進入は展示と同じ。
1、2、3。
4、5、6。
灯は5コース。
起こし。
大時計。
怖い。
B1として見られている怖さ。
でも、その怖さを消さない。
スリット。
灯のSTは0.16。
悪くない。
黒瀬も速い。
4号艇が少し覗く。
1マーク。
宮沢が先に回る。
片瀬が差す。
藤森が握る。
黒瀬が攻める。
展示と似た水面。
藤森の艇が少し外へ流れる。
内側に水面ができる。
灯には、また見えた。
3号艇の内。
4号艇の外。
そこへ入れば、3着がある。
身体が反応する。
けれど、黒瀬の艇も動く。
やはり、灯の入る水面を消しに来る。
展示と同じ。
いや、展示よりも少し早い。
灯は、その瞬間に理解した。
ここは、消される。
無理に入れば止まる。
外から回れば、5着。
では、次はどこか。
灯は黒瀬の出口を見る。
藤森の流れを見る。
6号艇の秋元の位置を見る。
黒瀬が灯の内を消した分、外へ少し重くなる。
その後ろ。
4号艇の出口の外。
そこに、完全ではないが、水面が残る。
3着ではない。
4着の水面。
灯は艇を向け直した。
最初に見えた道には入らない。
消された道を追わない。
次を見る。
波を踏む。
外へ流れすぎない。
秋元を外に置く。
黒瀬の出口を見ながら、4着の水面へ入る。
バックストレッチ。
2号艇の片瀬が先頭。
1号艇の宮沢が2番手。
4号艇の黒瀬が3番手。
灯は4番手争い。
3号艇の藤森が内にいる。
6号艇の秋元が外から来る。
4着。
まだ確定ではない。
2マーク。
藤森が内から差し返そうとする。
秋元が外から迫る。
灯は、さっき消された水面を思い出す。
見えたからといって、そこだけを見るな。
次を見る。
灯は艇を深く入れすぎなかった。
藤森に差し場を渡さず、秋元に外を渡しすぎず、出口を残す。
バックへ出る。
4番手。
2周1マーク。
前の黒瀬は遠い。
3着を追いたい。
でも、距離がある。
無理に追えば、藤森と秋元に絡まれる。
今日の水面は、3着ではない。
4着を守る水面。
灯は唇を噛んだ。
悔しい。
B1初戦で、もっとやれると思っていた。
でも、現実は4番手。
それも、必死に残している4番手。
2周2マーク。
藤森がもう一度来る。
灯は渡さない。
出口を残す。
3周目。
黒瀬は3番手を守る。
灯は4番手を守る。
最後の2マークまで、3着へ届く水面は来なかった。
ゴール。
1着、2号艇、片瀬梨央。
2着、1号艇、宮沢菜々。
3着、4号艇、黒瀬真帆。
4着、5号艇、風見灯。
5着、3号艇、藤森千尋。
6着、6号艇、秋元玲奈。
B1初戦。
4着。
灯は、モニターを見た。
悪くない。
5着でも6着でもない。
でも、胸の奥は重かった。
水面は見えた。
でも、消された。
そして、消された後の4着だった。
控室に戻ると、灯はノートを開いた。
5号艇。
5コース。
4着。
B1初戦。
水面は見えた。
でも、黒瀬さんに消された。
展示で消された。
本番でも消された。
本番は、消されることを見て、次の水面を見た。
3着の水面は消えた。
4着の水面は残った。
4着。
悪くない。
でも、悔しい。
B2の頃は、水面を見つけることが課題だった。
B1になったら、見つけた水面を消される。
私は、見られる側になった。
灯は、その最後の一行を見つめた。
私は、見られる側になった。
それは、少し怖い言葉だった。
でも、同時に少しだけ誇らしい言葉でもあった。
相手が灯を見ている。
警戒している。
消しに来ている。
それは、灯がもう無視される選手ではないということだった。
けれど、誇らしさだけでは走れない。
見られるなら、その上で残らなければならない。
沙耶が戻ってきた。
自分の出走前なのに、灯の結果を見ていたらしい。
「4着」
「はい」
「悪くない」
灯は少しだけ顔を上げた。
「でも、消されました」
「うん」
「B1になったのに、まだ全然です」
沙耶は、少しだけ目を細めた。
「B1になったから、今日の4着なんだよ」
灯は黙った。
沙耶は続ける。
「B2のままだったら、あの水面に突っ込んで5着か6着だったかもしれない」
「……」
「消された後に4着を残した。そこは成長」
灯は、ノートを見る。
消された後に、4着を残した。
「でも、B1としては?」
灯が聞くと、沙耶はあっさり答えた。
「足りない」
灯は、思わず小さく笑った。
沙耶らしい。
慰めすぎない。
でも、見ている。
「足りないけど、悪くない」
沙耶は言った。
「今日の1走目としては、それでいい」
「はい」
「ただし、覚えておくこと」
沙耶は灯のノートを指差した。
「もう、見えた水面がそのまま空いてるとは限らない」
灯は頷いた。
「はい」
「灯が見る水面は、相手も見る。相手が消す。じゃあ、その次を見る」
「その次」
「それがB1の水面」
灯は、その言葉を書いた。
それがB1の水面。
書いた文字を見て、灯は深く息を吐いた。
B1になった。
でも、急に強くなったわけではない。
B1になったから、相手は見てくる。
B1になったから、道を消される。
B1になったから、次の水面を見なければならない。
灯は、自分の名前の横にあるB1を思い出した。
その二文字は、憧れだった。
今は、現実だった。
そして、現実は思ったよりも苦い。
沙耶が自分のカポックを手に取る。
その背中にも、A1という新しい級別がある。
沙耶もきっと、今までより見られる。
A1として見られる。
A1として消される。
A1として結果を求められる。
灯だけではない。
沙耶も、新しい水面に立っている。
「沙耶さん」
「うん」
「A1の水面も、見られますか」
沙耶は少しだけ振り返った。
「見られるよ」
短い答えだった。
「A1は、もっと見られる」
灯は、息を呑んだ。
沙耶は続ける。
「だから、私も次を見る」
そう言って、沙耶はピットへ向かった。
灯は、その背中を見送った。
B1の灯。
A1の沙耶。
同じ開催で、違う高さの水面へ入っていく。
灯はノートを開いたまま、最後にもう一行書いた。
B1としての最初の水面。
見えた道は、消された。
でも、次の水面は残っていた。
ここからは、見つけるだけじゃ足りない。
消されることまで見て、走る。
ペンを置く。
水面の音が、遠くから聞こえる。
灯は、もう一度自分の級別を思い出した。
B1。
嬉しさはある。
誇らしさもある。
でも、それ以上に、次の水面が怖い。
そして、その怖さを抱えたまま、灯は顔を上げた。
もう、置かれているだけの選手ではない。
見られる選手になった。
だからこそ、次を見なければならない。




