第11話 沈みかけた日の3着
灯は、ノートの上に残った文字を見つめていた。
6号艇。
6コース。
5着。
痛い。
でも、6着にしなかった。
その一行を、何度も読み返す。
慰めにはならなかった。
5着は痛い。
期末最終開催の2走目。
初戦を4着で残したあと、少しでも流れを作りたかった水面で、灯は5着に沈んだ。
6着ではない。
けれど、B1の線へ近づいたとは言えない。
むしろ少し遠のいた。
その感覚が、胸の奥に残っていた。
灯は次の出走表を見た。
同じ日の2走目。
1号艇、瀬川奈々。B1。
2号艇、高森莉子。A2。
3号艇、風見灯。B2。
4号艇、日向まどか。B1。
5号艇、大原千沙。B1。
6号艇、佐野美月。B1。
3号艇。
3コース想定。
6号艇より、前を見られる。
勝ちに行ける位置でもある。
けれど、だからこそ危ない。
5着のあと。
取り返したい。
できれば2着。
できれば1着。
その気持ちが、自然と胸の中に出てくる。
灯はペンを握った。
取り返す。
その文字を書きかけて、止めた。
皇怜奈に言われた言葉が戻ってくる。
勝ちたい気持ちで線へ寄っただけ。
越えに行くスタート。
怖いから、手前に置く。
取り返したい気持ちは悪くない。
でも、それに身体を預けたら、また水面を見失う。
灯は、ゆっくり書いた。
取り返す。
でも、取り返そうとして崩れない。
勝ちたい気持ちで深く入らない。
水面を見る。
その時、モニターに別のレースの結果が映った。
朝倉由芽の名前があった。
4号艇。
4着。
灯は、少しだけ身を乗り出した。
由芽は勝っていない。
3着にも届いていない。
けれど、5着でも6着でもなかった。
4着。
沈まない数字。
勝てない日を、6着にしない。
由芽の声が、胸の中に戻ってきた。
灯はモニターを見つめる。
朝倉さんは、今日も沈まなかった。
派手ではない。
大きく数字を押し上げたわけでもない。
でも、落とさなかった。
その4着が、今の灯には大きく見えた。
そこへ、日向まどかが近づいてきた。
「朝倉さん、4着だったね」
灯は顔を上げた。
「はい」
まどかは、モニターを見ながら軽く言った。
「あれ、地味だけど効くよ」
「4着が、ですか」
「そう。勝負駆けって、派手に勝つより、落とさない4着の方が効く時あるから」
灯は、由芽の名前をもう一度見た。
勝てない日を、沈まない。
「風見さん、さっき5着でしょ」
まどかは、あっさり言った。
灯は少しだけ肩に力が入る。
「はい」
「今日の2走目で取り返そうとしすぎると、だいたいもっと落とすよ」
その言葉は軽かった。
けれど、内容は重かった。
灯は思わずノートを握る。
「取り返さないといけないです」
「うん」
まどかは頷いた。
「でも、取り返すって、勝つことだけじゃないから」
灯は顔を上げた。
「勝つことだけじゃない」
「5着のあとに3着なら、流れは止まる」
まどかは、出走表を指で叩いた。
「3号艇でしょ。前は見える。でも前だけ見たら、たぶん出口なくなる」
灯は、3号艇の欄を見た。
3コース。
攻められる位置。
けれど、外には4号艇のまどかがいる。
灯が前を見すぎて流れれば、まどかが着を拾う。
「まどかさんも、同じレースですね」
「うん。私は風見さんの外」
まどかは少し笑った。
「風見さんが深くなったら、私がもらうよ」
灯は一瞬、言葉に詰まった。
まどかは、冗談のように言った。
でも、それは本当だった。
日向まどかは、そういう水面を逃さない。
「だから、ちゃんと残しなよ」
「はい」
「取り返すなら、まず3着。無理なら4着。5着を続けないこと」
灯は、すぐにノートへ書いた。
取り返すとは、勝つことだけじゃない。
5着のあとに3着なら、流れは止まる。
まず3着。
無理なら4着。
5着を続けない。
書いてから、灯は息を吐いた。
少しだけ、胸の中の熱が整った気がした。
勝ちたい。
それは消えない。
でも、今日の水面で必要なのは、勝ちだけではない。
5着で沈みかけた流れを、止めること。
3着を残すこと。
展示航走の時間が近づいた。
灯は3号艇のカポックを手に取った。
3号艇。
3コース。
1号艇は瀬川奈々。
インから大きく崩れないB1。
2号艇は高森莉子。
A2。
差しが本命。
4号艇は日向まどか。
現実的に着を拾うB1。
5号艇の大原千沙は、外から絡む。
6号艇の佐野美月も、大外から最後まで追ってくる。
灯は3コース。
前を見られる。
ただし、前だけを見てはいけない。
灯はノートに書いた。
3号艇。
前を見られる。
でも、前だけ見ると出口を失う。
4号艇まどかさんが外にいる。
深くなれば拾われる。
6艇がピットを離れた。
1号艇、瀬川奈々。
2号艇、高森莉子。
3号艇、灯。
4号艇、日向まどか。
5号艇、大原千沙。
6号艇、佐野美月。
進入は枠なり。
1、2、3。
4、5、6。
灯は3コース。
起こし。
大時計。
5着の感触が、まだ身体に残っている。
水面を見るのが半歩遅れた感覚。
5号艇の内へ入った時、出口が重くなった感覚。
前が遠くなった感覚。
灯は、それを消そうとしなかった。
覚えたまま、線を見る。
置かない。
越えない。
水面に入る。
スリット。
展示STは0.15ほど。
悪くない。
1マーク。
瀬川が先に回る。
高森が2コースから差す。
灯は3コース。
勝ちに行くなら、ここで握って前へ出る。
外にはまどか。
さらに大原が続く。
灯は、少し前を見すぎた。
艇を外へ向ける角度が強くなる。
1号艇と2号艇の前へ出たい。
3着ではなく、2着以上を見たい。
その瞬間、出口が狭くなる。
まどかの艇が外から視界に入った。
灯は展示の中で気づいた。
このまま行けば、外へ流れる。
まどかに拾われる。
5号艇にも絡まれる。
灯は、展示では少し外へ流れながら出口を残した。
バックでは3番手から4番手の間。
2マーク。
まどかが外から迫る。
灯は内を守ろうとして、少し艇が止まった。
展示を終えて戻ると、灯はすぐにノートを開いた。
展示。
3号艇。
ST 0.15。
悪くない。
でも1マーク、前を見すぎた。
勝ちに行く角度が深い。
出口がなくなる。
4号艇まどかさんが外から来る。
本番は、1号艇と2号艇の後ろ。
4号艇まどかさんの前。
そこが今日の3着の水面。
灯は、その最後の行をじっと見た。
今日の3着の水面。
勝つ水面ではない。
2着も、簡単ではない。
でも、3着の水面ならある。
そこを取れば、5着の流れは止まる。
そこを逃せば、5着が続く。
まどかが戻ってきた。
「展示、前見すぎ」
灯は顔を上げる。
「はい」
「出口なくなるよ」
「分かりました」
「分かったなら大丈夫」
まどかは軽く肩を回した。
「本番、深くなったらもらうから」
灯は小さく頷いた。
「渡しません」
まどかは少しだけ笑った。
「それでいい」
本番の時間が来た。
灯は3号艇に乗り込む。
水面の音が近い。
5着のあと。
同じ日の2走目。
今日の水面は、まだ終わっていない。
ここで止める。
ここで沈まない。
6艇がピットを離れる。
進入は展示と同じ。
1号艇、瀬川。
2号艇、高森。
3号艇、灯。
4号艇、まどか。
5号艇、大原。
6号艇、佐野。
1、2、3。
4、5、6。
3コース。
起こし。
大時計。
灯は線を見る。
それから、1マークを見る。
1号艇。
2号艇。
4号艇。
出口。
今日の3着の水面。
スリット。
STは0.14。
展示より少し踏み込めている。
でも、線へ寄っている感覚はなかった。
身体は前へ行きたがっている。
けれど、頭は水面を見ていた。
1マーク。
瀬川が先に回る。
高森が差す。
灯は3コースから艇を向ける。
勝ちに行く角度が、一瞬だけ見えた。
外から握れば、2艇の間に届くかもしれない。
だが、深い。
まどかが外にいる。
大原も続く。
灯は、展示で書いた水面を思い出した。
1号艇と2号艇の後ろ。
4号艇まどかさんの前。
そこが今日の3着の水面。
灯は艇を少し内へ向けた。
握りすぎない。
落としすぎない。
出口を残す。
高森の差しが内へ入る。
瀬川が残す。
その後ろに、灯の艇が入る。
まどかが外から迫る。
灯は差し場を渡さない。
でも閉めすぎない。
出口。
出口を残す。
バックストレッチ。
2号艇、高森が先頭。
1号艇、瀬川が2番手。
3号艇、灯が3番手。
4号艇、まどかが4番手。
大原、佐野が続く。
3番手。
灯は、胸の中でその位置を確認した。
勝っていない。
2着にも届いていない。
でも、3着にいる。
ここを残す。
2マーク。
瀬川が2番手で回る。
灯は3番手。
まどかが外から来る。
日向まどかは、外から無理に潰しに来るタイプではない。
けれど、灯が少しでも深くなれば、内を拾う。
少しでも出口を失えば、4着に落とされる。
灯は、まどかの位置を見た。
前だけ見ない。
後ろも怖がりすぎない。
出口を残す。
まどかに差し場を渡しすぎない。
ターン。
波を踏む。
艇が少し跳ねる。
でも、止まらない。
バックへ出る。
3番手を守る。
2周1マーク。
高森は先頭で安定している。
瀬川は2番手を残す。
灯は3番手。
まどかが少しずつ近づいてくる。
灯は、瀬川の内を一瞬見た。
2着へ届く水面。
あるように見える。
けれど、遠い。
ここで無理に入れば、まどかに差し返される。
灯は迷った。
取り返したい。
5着を取り返したい。
2着なら大きい。
でも、深い。
灯は、その水面を捨てた。
3着を残す。
今日の3着を残す。
2周2マーク。
まどかが外から圧をかける。
灯は内を閉めすぎない。
閉めすぎれば出口がなくなる。
出口を残す。
まどかの艇先が近づく。
灯は伸び返す。
3番手。
3周目。
手に力が入る。
5着のあとに、3着。
ここを落としたら、ただの5着では済まない。
流れが沈む。
B1の線が、また遠くなる。
灯は大時計ではなく、水面を見た。
最後の1マーク。
瀬川が前で回る。
灯は3着の位置を守る。
まどかが最後に内を狙う。
灯は差し場を渡しすぎない。
艇を止めない。
最後の2マーク。
あと1つ。
まどかの艇が近い。
大原も後ろから来ている。
灯は、勝ちに行くのではなく、守るだけでもなく、3着の出口を見た。
艇を返す。
出口へ向ける。
波を踏む。
止まらない。
ゴールラインが近づく。
3号艇。
風見灯。
3着。
ゴール。
1着、2号艇、高森莉子。
2着、1号艇、瀬川奈々。
3着、3号艇、風見灯。
4着、4号艇、日向まどか。
5着、5号艇、大原千沙。
6着、6号艇、佐野美月。
灯は、モニターを見た。
3着。
勝っていない。
2着でもない。
けれど、5着のあとに3着を残した。
沈みかけた流れを、同じ日のうちに止めた。
控室に戻ると、灯はすぐにノートを開いた。
3号艇。
3コース。
3着。
同日1走目、5着。
痛い。
取り返したかった。
勝ちに行く水面はあった。
でも、深かった。
1号艇と2号艇の後ろ。
4号艇まどかさんの前。
そこが今日の3着の水面。
勝てなかった。
でも、沈まなかった。
5着のあとに3着を残した。
流れを止めた。
灯は、その最後の行を見て、ようやく息を吐いた。
流れを止めた。
全部を取り返したわけではない。
5着が消えたわけではない。
でも、5着のあとに6着を重ねなかった。
取り返そうとして深くなりすぎなかった。
3着を残した。
そこへ、まどかが戻ってきた。
「今の3着は大きいよ」
灯は顔を上げた。
「勝てませんでした」
「そりゃそうだけど」
まどかは、タオルで首元を拭きながら言った。
「今日の1走目、5着だったんでしょ」
「はい」
「その日のうちに3着で止めたなら、十分意味ある」
灯はノートを見る。
流れを止めた。
「取り返せましたか」
灯が聞くと、まどかは少し考えた。
「全部は取り返してない」
その答えは正直だった。
「でも、落ち続けるのは止めた」
灯は、その言葉を胸に受け取った。
まどかは続けた。
「勝負駆けって、勝った日より、落ちかけた日に何着で止めるかの方が残る時あるから」
灯は、すぐにノートに書いた。
勝負駆けは、落ちかけた日に何着で止めるか。
まどかはそれを見て、小さく笑った。
「ほんと書くね」
「忘れたくないので」
「じゃあ忘れないで。今日の3着、地味だけど大事」
灯は頷いた。
「はい」
少しして、三島沙耶が灯の近くに来た。
沙耶は結果を見ていたのだろう。
灯のノートの開かれたページに視線を落とし、短く言った。
「よく止めたね」
灯は顔を上げた。
「取り返せましたか」
沙耶は少しだけ首を横に振った。
「全部は取り返せない」
灯は黙る。
「でも、流れは戻した」
その言葉は、まどかの言葉と重なった。
落ち続けるのを止めた。
流れを戻した。
沙耶は続ける。
「5着のあとに、勝ちに行きすぎて6着を取る選手は多い」
灯は、胸の奥が少し冷えるのを感じた。
自分も、そうなりかけていた。
「今日の3着は、そこを止めた3着」
「はい」
「次が大事」
灯は少しだけ苦笑しそうになった。
いつもそうだ。
勝っても、残しても、沙耶は次を見る。
でも、今なら分かる。
勝負駆けは、1走で終わらない。
9走の中で、どこかを落とし、どこかで戻し、どこかで届かせる。
だから、次が大事。
「沙耶さん」
「うん」
「私、5着のあとに焦りました」
「見れば分かる」
沙耶はあっさり言った。
灯は少しだけ肩を落とす。
「でも、本番は水面を見てた」
その言葉に、灯は顔を上げた。
沙耶は静かに続ける。
「展示より、ずっと良かった」
灯の胸が、少しだけ温かくなった。
褒められた、というより、見てもらえたことが嬉しかった。
「ありがとうございます」
「まだ余裕はないよ」
「はい」
「でも、B1の線は消えてない」
灯は、ノートの最後にその言葉を書いた。
B1の線は消えていない。
期末最終開催、3走目。
4着。
5着。
3着。
まだ余裕はない。
でも、止まった。
5着のあとに、6着を重ねなかった。
取り返そうとして勝ち急がなかった。
沈みかけた流れを、3着で止めた。
灯は、ペンを止める。
それから、最後にもう一行書いた。
取り返すとは、勝つことだけじゃない。
沈みかけた流れを、3着で止めること。
ノートを閉じると、手の震えは少しだけ収まっていた。
怖さはある。
B1の線は近い。
近いから怖い。
でも、その線はまだ消えていない。
灯は顔を上げた。
期末最終開催は、まだ続く。
9走のうち、3走が終わった。
4着。
5着。
3着。
苦しい入り。
でも、まだ水面に残っている。
沈まず。
越えず。
届かせる。
その言葉を胸に、灯は次の水面へ目を向けた。




