第70話:小児病棟イベントの記憶(一ノ瀬直也)
正直なところ、一番驚いていたのはオレ自身だった。
――あの保奈美が、あんな言葉を言うなんて。
彼女が頭を下げる姿を見ながら、胸の奥に異様な感覚が広がっていった。
義妹に対するものとは明らかに異なる性質の「愛おしさ」。
それを自分が抱いていることに気づいてしまった瞬間、愕然とした。
すぐに打ち消そうとした。
必死に心の奥底へ押し込める。
表情には決して出さない。
「……とにかく、乾杯しよう。――乾杯!」
グラスを掲げ、声を張る。
全員がそれに応じ、グラスが触れ合った。
その音に、自分の動揺をかき消すような願いを込めて。
乾杯を終えた直後だった。
莉子が保奈美に向かって口を開いた。
「保奈美ちゃん。あの……さっきはありがとう。
でもね、私も保奈美ちゃんを許せない思いもあるんだよ。
私からすれば、直也くんを取っていったのは保奈美ちゃんだから。
でも、それでも……私のあの日の気持ちを理解してくれてありがとう」
言葉とともに、莉子の頬を涙が伝った。
保奈美は静かに笑顔を見せ、頷いた。
「折角頑張って作ったので、食べてくださいね!」
その笑顔には、以前の無邪気さも確かに残っていた。
けれど、短い時間で一気に成長してしまったようにも見えた。
オレはその姿を見ながら、胸の奥に再び波紋が広がるのを抑えきれなかった。
ようやく、食卓に普通の会話が流れ始めた。
みんなの表情も、少しだけ和らいでいる。
話題は自然と、オレがなぜ歌えるのか――ということになった。
莉子が先生役をしてくれていた。
そこまでは、亜紀も玲奈も麻里も、なんとなく察していたようだ。
けれど、その裏にある経緯については、まだ話していなかった。
グラスを置き、オレは改めて口を開いた。
「……大学の頃、ボランティアのインカレサークルに参加していたんだ。
難病の子どもたちや患者さん向けに、慰問活動をよくしていてね。
透子さんとも、そういう場で出会ったんだ」
その頃の記憶が蘇る。
消毒の匂いの漂う病院のホール、笑顔を作ろうと必死な子どもたち。
「大学四年生の時、小児病棟で長期入院している子どもたちに、少しでも楽しんでもらいたくて……。
本気で歌の練習をしたんだ。
あの時歌った曲が、POP STARだった」
亜紀が小さく目を見開き、玲奈も真剣に耳を傾けている。
麻里は無言でグラスを指で回していた。
そしてオレは――あの男の子のことを思い出す。
「梨奈さんの弟さんのことも……今でも鮮明に覚えている。
全身の神経伝達系が急激に弱まる難病で苦しんでいた。
声はもう出せなかったのに、必死に口を開いて歌に合わせようとしていた。
……あの子は、間もなく亡くなったと、梨奈さんから先日聞いたよ」
言葉にして初めて、胸の奥にまだ重い痛みが残っていることに気づく。
「だから……今度、梨奈さんと一緒にその弟さんのお墓参りに行く予定なんだ」
テーブルの上の料理の香りが、ほんの一瞬遠のいていく。
皆の視線がこちらに集まっていた。
けれど、オレの心の中にあるのは、あの冬の病院の光景だった。




