第58話:一ノ瀬直也
――なんとか、使命は果たせた。
梨奈が頷いたとき、胸の奥に詰め込んでいたものがようやく解けるのを感じた。
五井物産のためでも、GAIALINQのためでもある。だがそれ以上に――彼女が「ナオヤさんと契約する」と言ったことで、この茶番が茶番のまま終わらなくなった。
その梨奈の顔を見た瞬間、記憶が蘇った。
大学四年の冬、インカレのボランティアサークルで用意した病院ホールでの小さなカラオケライブ。
もう声が出ないのに、歌に合わせて口を動かしていた少年。
その小さな肩を支えていた女子高生――。
目の前にいる梨奈は、あの時の少女だった。
あのとき自分は、ほんの少しでも彼らに光を届けられたのだろうか。
そして今、その彼女が全てを俺に任せると言っている。
そして――RICO。
アーティストとして認められ、舞台の上で歓声を浴びている。
莉子はその事実を噛み締めるように喜んでいた。
だが次の瞬間、彼女が俺に向けて放った言葉。
「愛してる。もうずっと愛していたの」
愕然とした。
胸の奥に衝撃が走り、思考が止まる。
そんなふうに莉子が俺を見ていたなんて――考えたこともなかった。
彼女は幼馴染で、オレの生活を支えてくれる仲間で、ボイトレの先輩であり、歌の師匠的な存在で……。
それ以上の感情がオレ向けられているなんて、想像もしなかった。
舞台の光の中で、莉子の瞳は真剣そのものだった。
だからこそ、俺は言葉を失った。
どうすればいい?
何を返せばいい?
使命を果たしたはずの胸が、今は重く沈んでいた。
莉子の瞳が、まっすぐに俺を射抜いていた。
その想いの深さを受け止めきれずに、胸が苦しい。けれど、逃げるわけにはいかなかった。
「……今は、ありがとうとしか言えない。
オレは保奈美の義兄として、彼女が大人になるまで育てる責任があるんだ。それだけは理解して欲しい」
言葉を選びながら、必死に伝える。
莉子の表情が揺れた。
それでも、続ける。
「でも……さっき約束したから。だから莉子と向き合う時間は、きちんと作るよ。約束は守る。……莉子はオレにとって大切な存在なのだから」
短い沈黙ののち、莉子は小さく頷いてくれた。
その姿に、胸の奥が少しだけ軽くなる。
彼女はすぐに振り返り、梨奈に向かって深く頭を下げた。
「ぜひ、よろしくお願いいたします」
梨奈は涙を拭い、スタッフたちに向かって声を張った。
「ナオヤさんと、それからRICOさんとの契約の準備を整えて」
その声には、先ほどまでの動揺ではなく、はっきりとした決意が宿っていた。
そして彼女は、俺に視線を戻す。
「契約に際して……ひとつだけお願いがあります」
「……なんでしょう?」
「弟のお墓に、一緒にお参りして欲しいんです」
俺は静かに頷いた。
胸の奥であの冬の記憶が蘇る。
小児病棟のホールで、小さな体で歌に合わせて口を動かしていた少年。
その隣に、必死に支えていた少女。――梨奈。
「……覚えていますよ。あの小児病棟のホールでのイベントを」
梨奈の目から、また涙が溢れた。
「ありがとう……」
その声は震えていたが、どこか救われたようでもあった。
――こうして。
様々なものを巻き込んだ“茶番”は、静かに幕を下ろした。




