第57話:一ノ瀬保奈美
梨奈さんは涙で濡れた頬のまま、もう一度はっきりと言った。
「ナオヤさんとの契約だから。だから五井物産とじゃない。でも……ナオヤさんが五井物産と契約してくれっていうなら、そうする」
その強い言葉に、会場の空気が揺れた。
続けて梨奈さんは莉子さんのほうを振り向く。
「RICOさん……フェリシテのブランドイメージアイコンになってください」
突然の指名に、莉子さんの瞳が揺れた。
観客の視線、スタッフのざわめき……その中心で、彼女は戸惑いを隠せなかった。
そこで直也さんが一歩前に出た。
落ち着いた声が、はっきりと響く。
「RICOはウチの嘱託契約社員です。ただ、彼女がアーティストとしてどう活動するかは、彼女自身が自由に決められる。もし契約いただけるなら、彼女を代表とする事務所を設立します。手続きは、すべて私が代行します」
梨奈さんはウンウンと大きく頷いた。
「全部ナオヤさんが決めてください。ナオヤさんが言う通りにするって……もう、決めているから」
その場にいた誰もが、圧倒されていた。
――そして。
「保奈美ちゃん!」
気づくと、亜紀さんと玲奈さんと麻里さんが、私に駆け寄ってきていた。
息を切らしながら、目を大きく見開いている。
「あのRICOって、誰?」
「まさか……」
私は視線を伏せ、けれど逃げずに頷いた。
「……莉子さんです。莉子さんは、直也さんの歌の先生だったんです」
三人が息を呑むのが分かった。
言葉にした瞬間、胸の奥に鋭い痛みが走る。
莉子さん――RICO。
観客の喝采を浴びながら直也さんの隣に立つ姿を、私はただ見つめるしかなかった。
まるで、直也さんを奪われてしまったみたいに。
すごく……すごくショックだった。
莉子さんは――RICOは、あまりに突然のことに言葉を失っていた。
でも、自分がアーティストとして認められたのだと理解した瞬間、その表情が変わった。
彼女はサイバーグラスを外すと、そのまま直也さんに駆け寄った。
「ありがとう! ありがとう……直也くん、本当にありがとう!」
叫ぶように言って、直也さんに強く抱きついた。
私の胸が痛くなった。
そして。
「愛してる。もうずっと愛していたの」
莉子さんの唇が、直也さんの口に触れた。
――時間が止まった。
愕然とする直也さん。
ステージの光の中で、何が起きているのか信じられないような顔をしていた。
亜紀さんも、玲奈さんも、麻里さんも……そして私も。
誰も声を出せなかった。
ただ呆然と、その光景を見ていた。
胸の奥が冷たくなる。
足がすくんで、一歩も動けなかった。
――嘘。
胸の奥が、ざくりと裂けたみたいに痛かった。
莉子さんの唇が直也さんに触れた瞬間、世界の色が一気に失われていく。
心臓が鳴っているのか、壊れてしまったのか分からない。
呼吸ができない。
体の中の空気が全部どこかへ逃げてしまったみたいだった。
「ありがとう」
「愛してる」
さっきまで耳に入っていた莉子さんの声が、何度も何度も頭の中でリフレインする。
胸の奥を針で突かれるように鋭くて、苦しい。
――直也さんは、私の大切な人だった。
恋とか愛とか、そんな言葉で説明できないくらい、大事に思ってきた。
一緒に暮らして、笑って、泣いて、ずっとそばにいて。
でも今、その人が誰かに奪われた。
まるで目の前で線を引かれて、「あなたはここから先には入れない」と突きつけられたみたいだった。
直也さんは愕然としていた。
けれど、その驚きさえも私には残酷に見えた。
――だって彼の腕の中に抱きついているのは、私じゃないから。
体が震える。
涙が出そうになるのに、出ない。
ただ、痛い。痛い。痛い。
この痛みをどうしていいのか分からない。
立っていることさえ、やっとだった。




